第5話 逃避少女

「お待たせしましたー。少し店先で掴まっちゃいまして。何か聞き出せました?」

 程なくして紳士連れの姿が見えなくなった頃、リリが戻って来た。

「? 顔色悪いですけど、どうかしました?」

「あー……、いや」

 俺は何でも無いように、静かに笑って答えた。「飲み水と間違ってインクを啜っちまったんだ」

「……ふーん」

 リリはこちらをじっと見つめると、やおら手招きした。俺が顔を近づけると、彼女は白衣の袖で俺の口の端をそっと拭った。

「墨、まだ付いてましたよ」

 彼女は白い袖に淡く滲んだ墨をこちらに見せた。

「悪いな……。みっともない所を見せた」

「大丈夫ですよー、洗えば落ちますから」

 彼女は穏やかな表情で答えた。

「で、進捗どうです?」

「あ、ああ。今この人に話を聞いてたとこなんだ」

 俺は道端で骨を火にくべている老人を指さした。

「なんでも未来が予見できるんだとか。お代も銅丸一粒分で良いって話だったから、ちょうど俺が『悪い魔法使い』に再会できるか占ってもらってたところだ」

「あぁ、儂ゃ何でも分かるよぉ。りょおぉしきかんを持った一族の末裔でねぇ」

「量子器官?」

 リリが眉をひそめる。

「彼らの血は絶えたはずでは?」

「あぁむ……」

 老人は骨木の枝で骨を掻きだしながら聞こえないふりをした。

「骨の何を見てるんだ?」

「亀裂さねぇ。真ん中の筋がまっすぐ割れればヨシ。皹が左右に別れていけばアシ」

「何も反応無いが」

「あぁ~、そういう時はこうしたらええ」

 老人は訛りらしきものの残る発音で答えながら、火から出したばかりの骨をがんがんと地面に打ち付けた。骨の真ん中にぱっくりと割れ目が入る。「おおっ」俺は拳を掲げた。骨はそのまま真っ二つに裂けた。

「あぁこりゃ駄目だ、最悪」

 老人は両手にふうふうと息を吹きかけ冷ましながら呟くと、くるっと俺たちの方を見上げた。「あんた達の相性最悪デス」

「相性占いになってるな……」

 俺は拳を下ろした。

「魔法使いの話はどうなったんですか?」

 ダイジョウブコウスリャクッツクカラァ、と骨を粘土で繋げる老人を尻目に、リリは俺に尋ねた。

「そうだよ、御仁、魔法使いと俺は会えるのか?」

 俺は急かすように老人に質問をぶつけた。

「もぉー……、会ってるよぉ、会ってるよぉ」

 老人は眠たそうに答えた。

「いや、確かに一度遭ってるけど……。再会できるかってことが聞きたいんだ」

「どこに行けば出会えます?」

 リリが申し訳程度に質問を重ねてくれた。老人は複雑に編みこまれた上着をまさぐると、胸元から木札を投げ出した。絵には細長い建物のようなものが描かれていた。

「『塔』の札だねぇ。塔で出会うよ。塔でも出会う」

「見たまんまですね」

「もう骨関係無いしな」

 老人に丁重に礼を述べてそこを後にすると、何やら通りが騒がしい。表に人だかりができている。俺とリリは顔を見合わせる。

「喧嘩か、事件か」

 俺は爪先だって人垣から覗き込む。

 くわっ

 っと、緋色の毛玉のようなものが飛び込んできた。

 紅い影は俺の頭上すれすれを通り過ぎ、ごろごろと1回転して華麗に着地した。それは人だった。毛玉のように見えたのは夕焼け色の長い髪の毛であった。彼女はこの人の壁を跳び越えてきたのだ。常人離れしたバネである。

 少女がこちらを見上げる。ショッキング・ピンクの瞳と、ばちりと目が合う。あどけない表情の中に、純真で硬い決意を秘めたような瞳が、煌いている。

 耳元を空を切る音がして、黒い影がよぎる。緑色の鞭のようなものだ。少女は咄嗟に身を躱す。その頭上を掠めた鞭には細かな葉や棘が付いていた。植物の蔓だ、即座に理解した。

 人垣が四方に広がる。振り返ると茶褐色の隊服のようなものを着た女が、蔓をしならせているところだった。「ドクター、ここから離れて」俺は人波の奥にリリを押しやる。見物人は後から後から増えて道はさらに混雑しだした。

 少女は既に走り出している。しかし道は直線だ。曲がり角まではまだ距離がある。

「隊長ォ! 雷撃を!」

 隊服の女が後方に向かって叫んだ。

「馬鹿者、市民が巻き込まれるだろうが!」

 後ろの方から複数の同じ隊服の連中を率いて、目つきの悪い無精髭の男が果然と走って来た。隊員たちが梯子を煉瓦塀にかける。「お前も上から狙えェ!」

 女はうなずいて前方斜め上空に蔓を放った。蔓は縄のように屋根の短煙突に絡みついた。それを伝って登るかと思いきや、女は助走をつけ、振り子の要領でブランコの如くスイングして、ターザンか何かのように上空へ飛び上がった。

「!」

 紅毛の少女は異変に気付いて振り返った。しかし視線の先に女はいない。女は少女の頭上死角から蔓を振り下ろした。

「痛っ……!」

 蔓は少女の足に絡みつき、彼女を転倒させた。棘が皮膚に食い込み、白い肌から髪の毛と同じ赤い血が滴り落ちている。

「……」

 俺は無言で煉瓦塀につかまると、壁をよじ登って人垣を抜けだした。

 女は露店の屋根帆を緩衝材に着地した。

「手古摺らせやがって……」

 女はどこからともなくもう一本の短い蔓を出し、地面を叩きつけた。

「とっとと吐け。痛い目見たくないだろう?」

 少女はきりりと軍警を睨み返した。軍警は長めの溜息をついた。

 少女の足に絡んだ蔓を引き付ける。少女の体が石畳の上を擦れながら軍警の足元に転がり寄る。軍警は右足で少女を踏みつけにした。

 少女の瞳が震える。軍警はやおら鞭を掲げ、勝ち誇ったように呟いた。

「……一発くらい良いか?」

 軍警の体が横ざまに突き飛ばされた。

 というより、俺が殴り倒したのだ。一応猿と人間の筋力差を考慮して、ほどほどの力で頬を張ったくらいのつもりだったのだが、想像以上に猿の肉体は逞しかった。

「悪いな」俺は軍警に声をかける。「でも相手は子供で、あんたは大人だ。一発くらいは勘弁してくれ」

 俺は少女を助け起こす。「……」彼女は呆気にとられたように俺を見た。

「てめェぇえ……!! 自分が何したか分かってんのか?」

軍警は物凄い形相で俺を睨みつけている。

「すまなかったな。あんたも立てるか?」俺は軍警に右手を差し出した。彼女の全身がわなわなと震える。

「…………………だろ」

「……?」

「……いま手加減しただろって訊いてんだよダボがァ!!!」

 軍警の着衣の裾から四本の蔓が飛び出し、のたうち回った。彼女は特にダメージも無い風でむくりと立ち上がった。むしろ精神的苦痛から怒声を発しているようであった。

「言うに事欠いて『立てるか』だァ? 女と見て舐めた真似し腐ってんじゃねえぞ畜生が!!!」

「ち、違うぞ! 怪我をさせないようにと思ってだな!」

「図に乗ってんじゃねぇ!!」

「……⁉」

 軍警の怒気が周囲に伝播していったかのように、辺りの草木がわしわしと生い茂り始めた。「なんだこれは……。魔法なのか?」

「なぁに戯けたこと言ってんだァ? クソカスが……。テメェが泣き喚いて命乞いするまでグチャグチャに嬲ってやるから今直(す)ぐそこに跪けェ猿公ォ!!!!!」

「それまでだ」


 横から柏手を叩く音が響く。くたびれたコートの隊長らしき男が、前に進み出た。見覚えのある顔だった。

「メル次官、ご苦労。後は俺がやる。お前は待機だ」

「カミラタ隊長……。こいつは私に執行(やら)せてくださいよ骨も残さねぇから……」

「ヴィーメルボルン刑務次官。命令を復唱したまえ」

 カミラタの周りで小さく火花が散った。女の顔が青褪めた。「……申し訳ありません……、特務長官殿」

 カミラタは僅かに表情を緩め、こちらに向き直った。

「さて……、お若いの。驚かせてしまってすまんな。彼女は優秀な部下だが血気盛んな所がある。獄卒時代の性根が抜けておらんのだ。……お陰で肝心の標的を逃がす始末」

「あっ」

 メルと呼ばれた軍警が慌てて蔓の先を見る。既に少女の姿は無かった。「安心しろ、裏道から追っ手を派遣してる」カミラタはメルに軽く手を振って諫めた。

「こっちも悪かったな。事情も知らず下手に首を突っ込んだ」俺は詫びを入れる。

「ほう、見ず知らずの他人を庇ったのか?」

 カミラタは豪放磊落に笑って、俺の言葉に鷹揚に肯いた。愉快そうに俺の隣に立つ。「子供を助けるために警備隊に肘鉄を食らわせるたぁ、見どころのある青年だ。痺れるねえ。実に痺れる。気に入った!」

 俺はカミラタに曖昧に笑いかける。カミラタは気さくに笑って俺の肩に手を掛けた。

「だが犯罪だ」

 俺の左肩から全身を稲妻が駆け巡った。視界に閃光が弾け、強烈な電気ショックに筋肉が硬直した。

 棒切れのように倒れ伏した俺を、カミラタが担ぎ上げた。昏くなる意識の端に、彼の左手名残る放電が立てるぱちぱちという音を聞いた。

「機密対象の逃走幇助、並びに王令執行妨害の咎で貴様を投獄する」

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