猿の転生~猿猴が月に愛をなす~

蓑谷 春泥

第1章 サウンド・オブ・サンダー

プロローグ:スリップ/堕ちて生きよ

【猿猴捉月(えんこうそくげつ)】


————水面に映った月を取ろうとして、枝が折れ、おぼれ死んだ猿の故事より、できないことをしようとして失敗すること。身の程知らずの望みによって身を滅ぼすことのたとえ。「猿猴が月」「猿猴が月に愛をなす」






 勢いよく樹の胴が弾け、木片が蒸気のように霧散した。

 夜の森に溶け込むような暗いローブをまとったその人物は、手袋に付いた木硝子の破片をゆっくりと払いのけた。俺は一寸先も朧な真暗い地面に腰を落としたまま、じりじりと後退った。湿った落葉の感触が、やけにごわつく俺の手に纏わりつく。

 正気を疑いたくなる光景だった。俺の隣に倒れ崩れる透明な樹木が、生暖かい風を起こした。目覚めたての朦朧とした頭では、何が起きているのか、全く呑み込めない。気が付けば、こんな状況になっていたのだ。はっきりしているのは、水晶のように透き通った樹林が、月光を反射させるこの幻想的な光景が、紛れもない現実のものであるということ、突然現れたローブの怪人物が、その木の幹を拳ひとつで抉り抜いたということ、そしてそんな見るからに危険な輩が、どうしてかこの俺を付け狙っているということだけだった。

 土塊を握りしめ、慌てて腰を上げる。俺は足を滑らせながら、瑠璃色の木の葉を巻き散らして、一目散に逃げ出した。

 すぐ目の前に新たな倒木のシルエットが浮かび上がる。先ほどローブの輩が折り倒した木がドミノのように周囲の木々をなぎ倒し、運悪く俺の逃げ道を塞いでいた。否、それすらも奴の周到な計算なのかもしれなかった。俺はどうにか樹木を押しのけようとしがみつく。木肌は切子細工のように冷たく、色硝子のように煌いていた。葉は葉脈が薄っすらと浮かび上がっている以外、枝と同様に透き通り、分厚い氷柱ほど固かった。当然そんな代物は、俺の知る地球を何周しても見つかるはずもなかった。ここは、どこか遠い異境の地……、見も知らぬ未知の世界。ぼんやりとした意識の端にそんな言葉がちらつく。

 枯れ枝を踏みしだく音がする。振り向く。ローブは慌てることなくゆっくりとこちらに近づいていた。俺は辺りを見渡す。左手は倒れた樹で塞がっている。来た道はローブが待ち受けている。右手にはひび割れた険しい巌が聳えていた。

 絶壁の向こうから、川の音が反響していた。それもせせらぎではなく、轟音だ。この森の、恐らくほど近くを、巨大な河川が流れているのだ。

 俺は素早く進路を決した。振り返ると奴のフードに隠れた顔目掛け、握っていた土を投げつけた。それは奴の動揺を誘うような攻撃ではなかったものの、袖で顔を庇った奴に一瞬の隙を生じさせるくらいの陽動は果たしてくれた。俺は川音のする方角へ無我夢中に走り出した。行く手を阻む大岩に飛びつく。数メートルはある巨大な岩壁だ。冷静に考えれば、無謀にすぎる逃走の路だ。だがその時なぜか俺の肉体は、僅かな窪みを頼りに、するするとその岩をよじ登っていた。

 脇腹の隣から、鋭い音が鳴る。振り向いた俺の額から汗が飛び出す。眼下では小ぶりな石を握ったフードがこちらをめがけて振りかぶったところだった。 

 右肩に鈍い痛みが走る。弾丸のように放たれた石くれが、俺の肩を砕いたのだ。

俺は呻き声を上げる。しかし手だけは必死に岩肌から離さない。

 フードは、もう片方の手に持った石を握りなおし、再び大きく振りかぶった。次第に命中の精度を上げてきている。次は確実に急所に当ててくる予感がした。回避の暇も無い。俺はぎゅっと目をつぶった。——刹那、不可思議な『音』が聴こえた。

 俺は驚いて身をのけ反らせた。——俺の頭蓋骨が衝撃を感じるより早く、『脳天をかち割る音』が聴こえてきたのだ。

さっきまで頭のあった位置で石礫が砕ける。何が起きたのだ? 分からなかったが、それは奴も同じようだった。奴の素振に、初めて動揺の気配が滲んだ。

 手持ちの石が尽きたフードは、片膝を付いて、落葉の中を手さぐりにかき回した。三発もあれば仕留められるという算段だったようだ。実際、次の弾を避ける自信は無い。だがこの漆のような闇の中で掌大の礫を探し出すのは、容易ではないだろう。俺は荒く息を付き、奴が石を見つけるより早く、岩壁を飛び越えた。

 川は、すぐに見つかった。飛び込むのを躊躇う程、激しく、大きな流れだった。だが悠長に構えてもいられなかった。先程の大岩、奴が迂回してくるのに時間はかかろうが、まだ十分引き離したとは言えない距離だった。川の流れに乗じなければ、奴を撒くことが出来ない。

背後から何かを打ち据えるような音が響いてくる。奴が何やら仕掛けてきているようだ。俺は川べりに近づく。川の行く先に視線を走らせて、俺は小さく息を呑んだ。

 滝だ。夜の幕を透かして見えた川の端は、崖淵になっていた。俺は逡巡する。ここからでは、あの崖の淵から下の滝壺まで、どれだけの高さがあるか分からない。ともすれば落下死せぬとも限らなかった。

 そもそもこの川の水深は、どの程度なのか。十分な深さが無ければ、流れて逃れることはおろか、身を隠すことさえできない。俺は注意しながら、水面を覗き込んだ。……と、泡立つ白波に紛れて、一匹の獣の姿が浮かび上がった。

 俺は声を上げて飛びのいた。水中に、何か怪物がいる。そう思ったのだ。

 俺は息をひそめて、川の淵を見つめた。

 しかし、いくら待っても、何者かが這い出して来る気配はない。そもそもこの激流だ。生き物が一つ所に留まっていられるとは思えない。辺りを見回してみる。背後にも何もいない。ということは大方、水面に反射し歪曲した己の姿を、見間違えたのだろう。俺は自分を納得させ、恐る恐る川面ににじり寄り、再び顔を近づけた。

 ……そこには、一匹の猿がいた。

 突然、背後で轟音がした。俺は動転して、目の前の野猿のことも忘れて後ろを振り返った。粉塵が上がっている。まさか……。俺は目を疑った。そのまさかだった。土煙の中に、奴の小さなシルエットが浮かび上がる。ローブの怪人はその恐ろしい腕力で、あの磐を破砕してきたのだ。

 奴が煙をかき分けてやって来る。フードの中で、月明りに2つの光が反射した。それは緑色の宝石のように妖しい輝きを放ちながら、じわじわとこちらに迫りつつあった。俺は再び奴に背を向ける。もう迷っている暇は無かった。化け物が居ようが滝壺に叩きつけられようが、進むしかないのだ。俺は震える膝を叩き、勢いよく川に飛び込んだ。

 激しい水流が筋肉を引き締める。水の中には不気味な猿など影も形も無かったが、安堵を感じていられたのもほんの束の間だった。毛皮でも着ているみたいに、身体が重かった。上手く水表にあがることができない。肺の中に少し、冷たい水が入って来た。あちこちに体をぶつけながら、激流に押し流されていく。

 ――彼ら

も、ちょうどこんな風に苦しんだのだろうか?

 ……不意に、身体が宙に投げ出された。思わず俺の手は、岩肌から突き出た木の枝を掴んでいた。ちらりと目に映った滝壺は想像以上に遠く、まともにぶつかれば、人間の肉体などひとたまりもないだろうと思われた。胃の腑を突き抜けるような猛烈な恐怖が、俺を支配する。しかし憐れ、俺の濡れた指は木の枝をずるりと滑り抜けた。 

 自由落下の心地よさと不安が、同時に押し寄せる。周囲の景色が目まぐるしく廻転する。死の予感はむしろ生のイメージを強く惹き起こした。俺はこの世界に生まれ堕ちているんだ! 不意にそんな文句が思い浮かぶ。……ここから、違う人生が始まるのだろうか。まるで転生でもしたみたいに。

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