第2話

 安藤は、赤信号が青に見えてしまったことにショックを受けていた。しばらく呆然と立ち尽くし、言葉を発することができなかった。安藤は自分自身に対して恐怖よりも困惑していたように見えた。彼は自分が信じていた現実が崩れ去った瞬間に立ち止まり、自分の中で何かを整理しようとしているようだった。


 安藤はしばらく呆然としていたが、やがて言葉を返した。「そうだったな、危なかった」と淡々と言った。その返事に少し違和感を感じたが、それでも安藤が無事であることに安堵していた。

 安藤が自分の危機を見て見ぬふりをしようとしているように見えたのは、彼が恐怖を感じたことを認めることができなかったためかもしれない。


「正常性バイアス」というものがある。これは、人が何事も普通に進んでいくと思い込む傾向があることを指す。例えば、普段何気なく目にしているものに異変が見られても、異変を無視して行動する振舞いは、その一例と言えるだろう。

 周囲の人々が何も反応せずに通り過ぎていったことも、彼が自分の身の危険を認識することを妨げた可能性がある。


「お前、一歩間違えれば死んでいたぞ」

 僕が指摘すると、安藤は何かを言いたげに口を開いたが、やめた。代わりに無言で頷いた。

 人は、狂気に侵されることがある。しかし、それ以上に恐ろしいのは、正気に侵されることだ。そのとき、自分自身が危険な状況にあることを認められず、周囲の無関心に流されてしまう。


 ナスカのアプリを入れている人間同士でも、お互いの視界に映っているナスカは見えない。それぞれのナスカは別々に行動している。

 だからナスカに齎される体験は、誰とも共有できないローカルな体験だ。自分だけが体験し、自分だけが感じる恐ろしい現実。もしナスカに殺されてしまっても、周囲からはただの運の悪い人に見られるだけだろう。


 自分が出会った恐怖や絶望を、誰も共有することができない。そして、周囲の人たちが自分の危機を重視してくれないことによって、自分自身がそれを意識しようとしなくなっていることも恐ろしい。自分が生きる上で、自分自身の危険や運命を軽視するようになってしまっていることに気づいた時、僕が正気を失いそうになった。ナスカが齎す脅威は、周囲の人たちだけでなく、本人自身にさえも見えないものになっているのだ。


 ナスカの殺意を知ることで、僕は自分たちが実際に住む現実の世界を裏返されたような気分に陥った。バーチャルアイドルが犯人だというのは、本当に荒唐無稽なアイディアだ。しかし、現実にナスカに殺されるという可能性があると知っていながら、私たちは日常を過信してしまう。非現実的な犯人によって殺されることの現実感の無さに混乱する。


 安藤が自分ができることをやってみると言って去っていった後、僕はひとり、街を歩き始めた。ふと頭の中に、広告に殺される妄想が浮かんだ。

 街中はVR広告であふれている。インプラントコンタクトレンズが普及し、VR広告が爆発的に増えた現在では、街を埋め尽くすほどだった。

 法規制が遅れたことが原因の一つだ。技術が発展してから、法律が対応するのに時間がかかり、やっと法律で規制するまでには、広告はすでに無数に増えていた。法律が変わるたびに、バーチャル広告はその逃げ道を探していた。法律とのいたちごっこだった。


 ナスカが現れたのは、そのころだった。ナスカは他のVR広告とは違い、地味であること、無害であることで生き延びてきた。

 初めてナスカと出会ったとき、僕は期待に胸を膨らませていた。何の役にも立たない存在のはずなのに、世界を変えてくれるような気がしたからだ。

 ナスカにほんのりとした好意を抱いた。


 その好意は、ただの単純接触効果かもしれない。

 それでも、僕はナスカを受け入れていた。何度も出くわすたびに、目があったり、微笑みかけたり、身近で遠い隣人として接して、まるで、僕たちが同じ世界に生きているかのような錯覚に陥っていた。


 携帯電話が鳴る。電話を受けると、安藤からの電話だった。彼はナスカに関する調査結果を話し始めた。

「もしもし、安藤?」

「ああ、聞いてくれ。今、調べてるんだが、ナスカはSNSにアクセスしている形跡がある。何の意味があるのか、分からないんだよ。お前にも少し意見を聞きたくてな」


 僕は驚きながらも冷静に考えた。確かに、ナスカがネットやVR空間でモーションを学習していることは知っていた。しかし、SNSにアクセスしているとなると、ナスカがどのような意図を持っているのか不明だ。言葉を発しないナスカが、文字主体のSNSで何を閲覧しても振舞いの参考にはならないはずだった。


 私は安藤にそのことについてはっきりとした答えがないと伝え、慎重に調べることを決めた。ナスカには何らかの意図があるとしたら、それは何か大きなことを意味しているかもしれない。

 ナスカに与えられた命令はアイドルたることだ。多くの人に知られ、愛されることが期待されている。それが、彼女が与えられたミッションだったはずだ。

 実際のアイドルのSNSアカウントを開いて投稿を見た。彼女たちの日常やファッション、食べ物の写真など、多くの情報が載っていた。


 だが、ナスカはアカウントを持てないため、そのような投稿をすることはできない。僕は、アイドルがSNSで行う行動に、ナスカでもできることがないか調べるため、過去の投稿をさかのぼって閲覧することにした。数多くのアカウントから、投稿を手早くスクロールしながら探し出す。そして、あるアイドルが自分自身の名前を入力して投稿ををしている様子を発見した。


「……これか」

 僕はつぶやいた。ナスカは言葉を発することができないが、自分自身の名前を入力してエゴサーチすることができる。ナスカは、自分自身に関する情報を探すことができるのだ。

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