第20話 記憶は嗤う
それからずっと好奇の目に晒された。小林くんは、声こそ掛けないもののにやにやと何度も此方を見ていた。
お昼休み、戸賀崎さんは普段一緒にいる女子グループを連れて何処かに行っていた。僕の方に来ないのは正直ありがたい。小林くんもいつの間にか消えていたので、僕は一人で黙々と姉さんの作ったお弁当を食べていた。
──ふと、気づく。周囲の喧騒がなくなっていることに。
周囲を見渡す。昼休みの、普段であれば騒がしい教室の中、其処には僕以外の誰もいなかった。次は移動教室だっただろうか?
いや、違う、数学の授業だったはずだ。
まるで自分だけが世界に取り残されたような感覚。思わず席を立ち、隣のクラスを覗いてみる。やはり、そこにも人影は無い。
自席に戻り、グラウンドを見る。外には人影があった。ドッジボールやら何やらで遊んでいる人達の姿が見えた。
ほっと、一息つく。元々有り得ない話だが、どうやら異世界に迷い込んだ訳では無いらしい。
例えば、急に移動教室になったのだろうか。しかし、全員が一斉に移動するものだろうか。しかも、隣のクラスも。まだ昼休みの半分も終わっていないというのに。
頭を巡らせるが答えが出るはずもない。終いにはどうでも良くなって、机に突っ伏した。
いつの間にか、少し寝てしまっていたらしい。予鈴と、周囲の喧騒で目を覚ました。ゆっくりと顔を上げると、そこにはいつもの昼休みの光景が広がっていた。
「……? どうした? 狐につままれたような顔して?」
「……ううん、なんでもない」
前の席にいた小林くんが不思議そうに尋ねてきた。一瞬さっきまでどうしていたのか聞こうと思ったが、聞いたら何となくいけないような気がした。何故か周囲からの視線も感じた。僕は首を横にふって、否定の言葉の後に口を噤んだ。周囲から感じていた視線も霧散したような気がした。小林くんは肩を竦めて、前方へと視界を戻す。
「なぁなぁ、いつの間に戸賀崎さんとそんな仲良くなったんだよ」
不意に、親しげに肩を組まれた。ぎょっとして横を見ると明るい茶色に染めた短髪、毛先をワックスで尖らせた同級生だ。名前は、何だっただろうか。少なくとも、今まで話したことは無い。
「この前の時、ちょっとくらい話してくれたって良かったのに、水くせぇなぁ。ちょっとさ、後でコツとか教えてくれよな!」
話してくれたって良かったのに、と彼は言う。まるで、今まで何度か会話をしたことがあるかのように。彼は話す、親しげな友人に向ける話し方で。バシバシとやや強めに肩を叩かれ、彼は爽やかな笑みを浮かべて席へと戻って行った。
「んだよ、この前バックレたのは戸賀崎さんと遊んでたからかぁ?」
後ろの──やはり名前を思い出せない黒髪の男子生徒が、僕の背中を小突いて意地悪げな表情を浮かべていた。僕はそれに曖昧な苦笑いを返す。
チャイムが、鳴った。
数学の教師がやってきて、いつも通りの退屈な授業が始まる。数列についての講義。けれど、そんなものは欠片も頭に入ってこなかった。
──この前の時、話してくれたって……
──この前バックれたのは……
両者とも、僕と面識があった。僕は、彼らの名前すらまともに覚えていないというのに。あの小林くんの下の名前ですら、知らないというのに。
茶髪の彼と、あんな風に親しくされるほど話したことがあった。
黒髪の彼と、恐らく少し前に何かを約束して、それをすっぽかした。
その記憶は、僕には無い。
けれど、彼らが嘘を言う理由も無い。
戸賀崎さんの前で記憶障害を起こした時は、ちゃんといつもの予兆があった。けれど、小林くんの一件に始まり、ここ最近、予兆なく、気づかない間に記憶障害が発生している。
そうとしか、考えられない。
そうでなければ、説明がつかない。
──僕の頭は、どうなってしまったのだろうか。
一体何が本当で、何が嘘なのか。否、周囲は嘘を付かない。嘘をつく必要はない。つまり、彼等の言葉こそ本当で、僕の記憶障害が頻発していることを示している。
再び、背筋に悪寒が走った。
きっと、これだけではない。
僕は何をしたんだ。
僕は何を忘れている。
まるで乖離性人格障害者だ。僕の知らないところで、知らない僕が行動している。それは、はっきりとした恐怖だった。意識が、遠のくような感覚に襲われる。
「……──しま。おい、三嶋。大丈夫か? ……随分顔色が悪いぞ。保健室で休んだ方がいいんじゃないか?」
肩を揺らされ、はっと我に返る。目の前には数学の教師がいた。指名されていて反応しなかったのか、それとも明らかに様子がおかしかったのか。教師の目には本気の心配の色が浮かんでいる。
ぼんやりと、周囲を見る。当然ながら、クラス中の視線を集めていた。何があったのかという視線。授業の邪魔をするな、という視線。心配をする、視線。そして、何処か
酷く、吐き気がした。
「……すみません、ちょっと気分が悪くて。保健室に行ってきます」
「分かった。あー、このクラスの保健委員は誰だ?」
保健委員である一人の黒髪で真面目な女子生徒が手を挙げかけ、何かに気づいたように目を僅かに開くと、その手を下げる。
「私です!」
同時に声を上げて高らかに手を挙げたのは、戸賀崎さんだった。果たして彼女は、保健委員だっただろうか。違ったような気がする。先程手を挙げかけた彼女だったような気がする。
けれど、もう、僕の記憶に信用性などない。きっと、戸賀崎さんがそう言うなら、僕の記憶が誤っていたのだろう。
「……大丈夫? ほら、肩貸すから」
「あり、がと……」
戸賀崎さんは身長が高めで僕とそこまで差は無い。その肩を借りて、覚束無い足取りで教室を出ていく。戸賀崎さんがドアを閉めるその瞬間まで、様々な感情の込められた視線は向けられたままだった。
「……先生は、いないみたいだね。後で言っとくから三島くんはベッドに横になって休んで?」
その言葉の通り、保健室には誰もいなかった。頭の中に霧がかかっていて、それでいてズキズキと痛む。戸賀崎さんの言う通り、早く横になって休みたかった。
肩を借りたまま、カーテンを開け、緩慢な仕草で体を横たえると片腕を目の上に乗せる。光が遮断された暗闇が、幾らかの安堵を与えてくれた。
「先生が戻ってくるまでは私がいるから、何かあったら呼んでね」
「……ごめんね、戸賀崎さん。迷惑かけて……」
「いいよ。だって私たち……ね?」
その声色は、何処か甘さを帯びたものだった。けれど、目を瞑ったままの僕にその表情を見ることは出来ない。言葉の雰囲気からすれば、恥じらい、だろうか。彼女から告白したと言うが、それも記憶の底に消えた。なぜ好かれているかは分からない。
けれど、もう、利用すると決めたのだ。
「じゃ、おやすみ。三嶋くん」
カーテンが、閉じられる音がした。体育の授業だろうか、遠くから喧騒が聞こえる。先程の異様な事態もあったからか、日常を象徴するかのようなその声は安堵を齎した。
徐々に頭の痛みは引き、代わりに眠気が訪れ始めた。ぼんやりとした意識の中で、何かが聞こえる。
──上機嫌な、鼻歌。
鼻歌の主は、すぐ近くだ。そのリズムは軽やかで、何やら嬉しい出来事があったのだと想起させる。
それが子守唄代わりになって、僕の意識はゆっくりと落ちていった。
「ふんふんふーん。全くもう、先生も強情なんだからなあ。素直に頷いてればいいのに。漫画とかでよくあるじゃん、保健医が不在にしてる状況とかさ。ほんと、逆らわなければ何事もなく済んだのにね。あっはは!」
けらけらと、少女は
その日を境に、保健医は別の者へと変わった。
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