第15話 義姉と義弟

「ただいま」


 夕方過ぎ、僕は病院から家へと帰った。マッサージがあったから、いつもより少し帰りは遅い。まだ、気怠さは残っていた。


「おかえり。遅かっ──……透?」


「……? どうかした?」


「病院で何かあった? いつもと違うこと」


「えっと……」


 僕は最近の症状についてと、何故か先生のマッサージがあったこと。そして、それがあったから少し帰りが遅くなったことを伝えた。

 姉さんはマッサージの下りを聞いた時、明らかな嫌悪感を表情に出した。そのような負の感情を表に出すのは珍しい。前に先生のことが好きでは無い、と言っていたからだろうか。

 夕飯を作っている途中だったのだろう。エプロン姿だった姉さんは急にそれを脱ぎ始めた。


「……姉さん?」


「透。今日の夕飯、少し遅くなってもいい? 買い忘れたものを思い出して」


「うん、別に構わないけど」


 そう言ってエプロンを外したジャージ姿のまま、財布だけを持って姉さんは足早に出かけて行った。まな板の上では、切られている途中の野菜と包丁が放り出されたままだ。いつも動作はゆったりとしているから、ピリピリとした雰囲気を纏わせていたのも珍しい。僕はちらりと閉まったドアを一瞥してから、着替えるために部屋へと行った。



 姉さんが戻ってきたのは、それから三十分ほど後のことだった。近所のスーパーまでは歩いていれば片道十五分弱はかかる故に、大分急がなければこの時間には帰って来れない。実際に帰ってきた姉さんは僅かに息を切らせていた。持っているレジ袋は普段の買い物と同じくらいに膨らんでおり、買い忘れたというには少し量が多いようには思える。


「すぐ作るからね、少し待っててね」


 そんな些細な疑問は一瞬浮かんだだけで直ぐに消え、僕は気怠さのままにベッドへと転がって夕飯が出来るのを待つことにした。




「透ー。出来たわよー」


 それからまた三十分ほど経って、姉さんに呼ばれる。微睡んでいた意識がぼんやりと持ち上がり、眠気に落ち始めていた瞼を擦ってから起き上がり、リビングへと向かった。


「……は? うなぎ……?」


 食卓の上を見て、思わず足を止めると共に素っ頓狂な声を上げてしまった。それも当然だろう、紛れもなく鰻の乗ったご飯が鎮座していたのだから。ご土用の丑の日からはもう一ヶ月以上も経っている。あまりに唐突だ。

 小ぶりな鰻丼、レバニラ炒め、ほうれん草のおひたし。さっき台所で放置されていたキャベツは何処に行ってしまったというのか。


「たまにはいいでしょ? それに、やっぱり精を付けてもらわないといけないから」


 姉さんの作ってくれたご飯にケチなど付けるはずもないが、やはり面食らってはしまった。鰻に加えてレバニラ炒めがあるというのも中々にヘビーな気がする。


「あっ……そっか、色々心配かけてごめんね。ありがとう」


 精を付ける、と聞いて姉さんは僕の体調を気遣ってくれているだと気付いた。記憶障害の悪化もあり、心配をかけてしまったのだろう。僕はお礼を言ってから、食卓に付くことにした。

 こうして実際に目の前にすると、香ばしい匂いに食欲がそそられる。気怠い体には、確かに必要なのかもしれない。

 さすが、姉さんだ。僕のことをよく分かっている。


「そうだ、ちょっと待っててね」


 椅子に座ると同時、姉さんが何かを思いついたらしく小走りで自室へと向かって行った。程なくして、戻ってくる。特に何かを取りに行ったというわけではないらしい。一瞬だけ、ふわりと何か甘い香りがした気がした。


「いただきます」


 姉さんと二人、食事を進めていく。最初こそ圧倒されてしまったが、食べ始めると意外と食べられてしまった。どれも食欲をそそる香りと味をしているからだろうか。まだ残暑も激しい九月上旬、そういうことも相まってこういったメニューを選んでくれたのかもしれない。

 静かに食事を終える。姉さんは口数が多い方ではないから、よくあることだ。


「ご馳走様でした」


「うん、お粗末様でした」


 何だかんだで、全て食べてしまった。満腹感はかなりのものではあるが、スタミナ重視のメニューだったからか気力が回復したような気がする


「……透は、私のこと好き?」


 僕が、食後に一息ついた直後だった。不意な問いかけに、姉さんの方へと顔を向けるとそこには静かな、慈愛に満ちた微笑みがある。


「うん、好きだよ」


 率直な気持ちだ。端的に答えた。


「愛してる?」


「あ、愛してるよ」


 質問が更に返ってくる。以前にこのようなやり取りがあった時には恥ずかしくて濁してしまったが、今日は姉さんの目を見ながら言い切った。


「どれくらい、愛してる?」


「……えっ? そりゃあもう、世界で一番姉さんが大切だよ」


 両親を亡くし、唯一の家族。辛い時、いつだって僕の支えになってくれる存在。姉さんよりも大切なものなんて、他にはなかった。


「そう。なら、透が私のこと幸せにしてくれる?」


「うん、必ず」


 そう、姉さんを幸せにするのは僕だ。

 姉さんが、微笑みを強める。少し、其処に知らない色が混じる。


「ねぇ、透、これは覚えておきなさい・・・・・・・・。……私たちね、本当の姉弟じゃないの。血が繋がってない、義理の姉弟なのよ」


 ──は?


「じゃ、行きましょうか」


 ──何処に?


「もちろん、二人の気持ちを確かめ合うのよ」


 ──どういう意味?


「決まってるじゃない。シましょ?」


 ──……する。する? 何を?


「ふふっ、恥ずかしがらなくていいから」


 ──待って、本当によく分からない。


「透は、私を愛してるんでしょう? 私を幸せにしてくれるんでしょう?」


 知らない甘味を帯びた声が、僕の耳元に届く。いつの間にか立ち上がっていた姉さんが、僕の横に立ち、上半身を屈めて囁いていた。


「なら。ほら、おいで? 優しくするから」


「えっ……あっ……」


 強く手を引っ張られ、無理矢理立たされた。漸く空白ばかりの脳に血液が回り始めてまともな声を出せるようになっても、ぐいぐいと引っ張られては言葉にならない声しか上げることは出来なかった。


 そのまま、姉さんの自室へと連れ込まれる。室内には、いつの間にかお香のようなものが炊かれていた。妙に甘ったるく、頭に染み込み、思考を奪っていく。姉さんにベッドまで連れていかれ、有無を言わさずに押し倒される。


「待って、これって……──痛っ」


 さすがにもう、何をしようとしているのか、されようとしているのか分かる。慌てて押し返そうとするも掴んだ手首に力を込められ、痛みに怯んだ間に自由を取られてしまった。


「いいの、私に任せて? 勉強したから」


 馬乗りになった姉さんが三日月形に口を歪める。その瞳には、くら爛々 らんらんとした光が宿っている。


 ──嗚呼、忘れよう。


 そうする以外には、何も出来なかった。

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