第11話 戸惑い
最近は、少しばかり周囲が賑やかになった。賑やかになったとはいっても、それは何故か声をかけてくる戸賀崎さんと小林くんのせいなのだが。
今日も今日とて、早朝の教室には誰もいない。しんとした朝の教室の雰囲気が何故か好きだった。自分の席に座り、机の中に入れている文庫本を出そうとして、あまり読書をする気分では無いことに気づき、頬杖を付いて外を眺める。野球部の、朝練であろう声がした。
時間が経つにつれ、ちらほらとクラスメイト達が登校してくる。
「おっす、三嶋」
我関せずの姿勢で外を眺めていた故に、突然声を掛けられてびくりと体を跳ねさせた。
「おいおい、そんなびっくりするなよなー」
彼は、何という名前だっただろうか。直ぐさま思い出せずに曖昧に返事をする。
「おはよ、透」
続けて声を掛けてきたのは小林くんだった。何か違和感を覚えて、直ぐにその正体に気づいた。
「名前……」
「えっ? だって透がそう言ったじゃんか。お互い名前で呼ぼう、って」
そんなこと、記憶になかった。そもそも、小林くんの下の名前を知らない。もし呼びたいと思っても、それは決して叶わない。結局は名前は口にせず、言葉を濁した。
小林くんはそんな僕の姿に小首を傾げたが、特に気にすることもなかったのか、変な突っ込みは受けることなく僕の前の席へとついた。
何か、良くないことが起こっている。漠然とだが、それだけは分かった。
名前も知らないクラスメイトから気さくに挨拶をされたこと、記憶のない会話によって名前呼びをさせていたこと。
しかし、いつだ?
僕の認識している範疇では、記憶は連続性を保っている。少なくとも誰かと話している時に起こったとしたら尚更記憶に残るだろう。戸賀崎さんの時のように。
けれど、実際に僕の記憶に抜け落ちがある。先日のカラオケもそうだった、あの時は気にしていなかったが、本来はきちんと約束をしていて、それを忘れた結果によるものかもしれない。
──前兆なしの記憶障害
それは万一として考えてはいたものの、まず起こりえないと思っていたものだ。今までは、必ず靄がかかったような感覚があった。それで僕は発症したと気づく。
もし、もしもそれがなくなったら?
日常の中でふとした時に前触れもなく発症したら?
間違いなく、僕の学生生活は終わる。正常な人間としての扱いを受けることはなくなる。一生、腫れ物を扱うかのように接せられる。
集団からの排斥。それは最も僕が恐れている事だった。人間は社会性を持った動物だ。その社会からつまみ出されたら、生きる術は極々限られる。
僕はまだ、いい。けれど、姉さんにこれ以上の負担をかけたくなかった。
本当に予兆なしで記憶障害が怒っているのだろうか。単に、社交性の高いクラスメイトが挨拶しただけかもしれない。カラオケも約束したつもりだけかもしれない。名前呼びも、単なる勘違いかもしれない。
そう思わなければ、狂ってしまいそうだった。思わず、頭を抱えて震える。
「三嶋くん、だいじょーぶ? 保健室連れてこうか?」
軽やかな声が響く、そちらを見る余裕はないが戸賀崎さんであることは確かだった。
「……いや、大丈夫。ちょっと頭痛がしただけ」
「そっかそっか、でも無理しないでね? この前も言ったけど、何かあったらおねーさんに相談するんだぞー?」
ちらりと視線を向けると、自信満々な表情を浮かべた戸賀崎さんが自らの胸をとんとんと叩いた。年相応か、それ以上に発達した胸部が僅かに揺れ、僕は思わず目を逸らす。
「……あ、もうホームルームだ。じゃ、また後でね」
戸賀崎さんが、席へと戻っていく。
その背中は、妙に上機嫌に見えた。
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