第4話 始まりの朝
目覚めると、見知った天井が目の前にあった。
シャワーを浴びて姉さんに夕飯で呼ばれて……、そこで記憶は途切れている。夕飯を食べている時に何かあったのだろうか。
上半身を起こすと軽い頭痛に襲われ、こめかみに指先を当てる。小さく息を吐きつつベッドから立ち上がると、起床したばかりだというのに、全身に妙な気怠さを覚えた。
昨日、真夏日の下で直射日光を浴びて、気付かない内に体力を消耗していたのだろうか。
ベット脇の時計は八時を指していた。休日としては、ほぼいつも通りの起床時間だ。夏休みは、まだ半分と少し残っている。
リビングへの扉を開けると、味噌の良い匂いが漂い、リズミカルに包丁がまな板を叩く、小気味良い音が響く。日常を象徴する香りと音。
「おはよう、姉さん」
「あら、起きたのね。もう少しで出来るからもう少し待っててね」
僕の声に顔を上げた姉さんが、柔らかな笑顔を向ける。そうして、長い髪が邪魔にならないよう耳に掛けると視線を手元に向け、再び心地よい音が響き始めた。
過去に何か手伝おうとしても、断固として拒否され続けたために、言われるがままリビングの二人掛けのテーブルに腰を掛ける。
未だに抜けない気怠さにテレビを付けることもなく、頬杖をついて窓から見える景色を眺めた。時折聞こえる雀の鳴き声が、やはり平和な日常を形作っている。
不意に、軽やかなメロディが耳に届く。音の発信源に顔を向ければ、どうやら姉さんが鼻歌を口ずさんでいた。ここ数年を記憶を辿る限り、そんな経験は無かった。余程、機嫌が良いのだろうか。
「ほら、準備できたわよ」
心地よいリズムに微睡みを覚えていると、いつの間にかテーブルに朝食が並べられていた。ご飯、味噌汁と焼き魚。これもまた、変わることの無い日常の一部。
「いただきます」
姉さんと声を合わせて手を重ねると、箸を手に持つ前に対面の姉さんに視線を向ける。
「そういえば、何か良いことでもあったの?」
「……? どうして?」
「鼻歌を口ずさんでるのが珍しくて」
「あら、気づいてなかったわ。恥ずかしい……。ええと、そうね。一つ、夢が叶ったからかしら。叶ったというよりも、ほんの一歩目を踏み出しただけなのだけれど」
気恥ずかしさに僅かに頬を朱に染めた姉さんは、頬に片手を当て僅かに首を小首を傾げながら嬉しそうに笑った。夢、とはなんだろうか。いずれにしても夢への一歩を踏み出せたというのは喜ばしいことだ。
「そうなんだ。僕にも協力出来ることがあったら言ってね。姉さんの夢を応援したいから」
「ありがとう。透の協力は必要不可欠だから、そう言って貰えて嬉しいわ」
「……? うん、何かあったらなんでも言って」
僕の協力が必要と言われても、姉さんの夢が何か分からない以上、それ以上何も言うことが出来なかった。嬉しそうな笑みを浮かべたまま箸を進め始める姉さんに続いて、僕も朝食を食べ始める。
「……ん? 僕の顔に何か付いてる?」
「いいえ、何も」
ふと視線を感じて顔を上げると、姉さんが僕が食事をする姿をじっくりと眺めていた。その視線の奥に何か得体の知れないものを感じて、半ば無意識に視線を逸らして食事を続けていく。
妙に、唇に視線が集中しているような感覚がした。僕の食べ方を気にしているのだろうか。いつも汚く食べているつもりは無いが、焼き鮭の骨を箸で取っていつもよりも綺麗に食べるように心掛けてみる。
「…………くふっ」
姉さんが、小さく笑い声を零す。それは弟を見守り微笑ましく思う声ではなく、何か、僕の知らない色を纏ったものだった。僕はそのことに、気付けない。
程なくして、食事を終える。姉さんはまだほとんど手を付けていないようだった。どうやら、ずっと僕の挙動を見ていたようだ。
ふと、こめかみに鈍い痛みが走った。理由は分からない。けれど、靄がかかる感覚は無い。
痛みに意識が向いているうちに、姉さんは漸く食事の手を進めていた。何となくその風景を眺めていたが、時折視線が交錯する。その度に、今まで感じたことのない僅かな寒気を覚えた。
何か、何かが昨日とは変わっている気がする。しかし、記憶を失っている僕にはそれを知る術はない。
「あのさ、姉さん……」
「なぁに?」
顔を上げた姉さんの笑みは、何処か蠱惑的だった。僕はそれ以上言葉を紡げずに、何でもない、と首を横に振る。
ベランダへ繋がる窓ガラスへと視線を向けた。そこには昨日と変わらない、雲ひとつない綺麗な青空が広がっている。何も変わらない、そんな朝。
──既に崩壊が始まっていることなど、僕は知る由もなかった。
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※主人公の症状の補足です。
キーとなる出来事があった後、その記憶は保ったまま意識を保って行動し、その後忘れようという意識が強く働くことで、キーとなる事象の直前まで記憶が遡って消えてしまう、ということです。
前方性健忘ではなく、オリジナルな症状になるかと思います。
ご了承ください。
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