第3話 姉は笑う

 あの日。戸賀崎さんと屋上で遭遇した日。

 見つかると面倒だからと思い体育館裏で、裏口への扉前にある三段だけのコンクリートの階段に腰を掛けて、念の為に安定剤を飲んでから、夕暮れになるまで空を眺めていた。

 良い具合に安定剤が効いてくれたのか、何も考えずにただ時間が経つのを待つことができたのは僥倖だった。変に思考が回ると、記憶障害が発生する可能性があるからだ。


 そろそろ、学校も閉まる時間になる。僕は小さな溜め息を吐いてから重い腰を上げ、帰路に着いた。


「ただいま」


 姉さんと二人暮しをしているアパートへと帰宅する。やや古ぼけているとはいえ、2DKの間取りは二人で住むには十分だった。トイレと浴室も別だ。家賃や生活費は、両親の貯金で賄っている。さすがに数年も二人で暮らすことができる金額があるとは思えなかったが、姉さんが言うには、それなりの金額があったから大丈夫、ということだった。何なら大学進学も出来るほどらしい。

 姉さんや僕がアルバイトをしている訳では無いために、さすがに疑問を持っていたが、お金の管理は全て姉さんが行っているので何も言えなかった。お金に関しては全て姉さんに任せる、それが暗黙のルールになっていた。

 今、僕は高校二年、姉さんは高校三年。通っている高校は違う。前にアルバイトをすると言ったことがあったが、姉さんの強い反対を受けて断念することになった。学業に集中しなさい、ということだった。実際生活が困窮しているわけでもなければ、姉が何か無理している様子も、隠れてアルバイトをしているような様子もないために、それ以上は何も言えなかった。


「おかえりなさい」


 奥のキッチンからエプロン姿の姉さんが笑顔を見せる。もう夕飯時だ。特に出かけた様子のない姉は飾り気のない薄桃色のジャージに、エプロンを付けている。それも飾り気のない白地のものだが、姉さんにはよく似合っていた。

 身長はやや僕よりは低いが、167センチと女性としてはそれなりにある。胸こそ慎ましいものではあるもののスレンダーであるが故にバランスは取れており、髪は腰の上あたりまで伸びた艶のあるロングヘアー、顔周りのサイドのみを少し短くした所謂姫カットにしている。大和撫子、という言葉が良く似合う出で立ちだ。

 実際、性格は大人しく優しさに溢れていると同時に、決して弱みを見せない芯の強さもある。

 しかし、過去のことがある。無理をしていないか心配はしてしまうが、聞いても大丈夫の一点張り。ただ、その度に浮かべる笑顔は極々自然なものであるために、やはりそれも踏み込めない領域ではあった。


「思ったよりも早く帰ってきてくれて良かった。夕飯がちょうど間に合いそう。暑かったでしょうし、先にシャワーを浴びてきてもいいわよ?」


 今日、家を空けていたことに言及はせず、いつも通りに接してくれる。それは、ありがたい心遣いだった。姉さんはいつだって、僕のことを想ってくれている。

 その言葉に甘えて先にシャワーを浴びることにした。さすがにこの炎天下で長時間外にいただけあり、それなりに汗はかいている。

 自室で姉さんの色違いである黒のスウェットを持ち出すと、そのまま浴室へと向かう。


 シャワーで汗を流しながら、ふと今日のことを思い返した。


「戸賀崎さん、か」


 今まで、これといった接点はない。それこそ、まともに会話をしたのは今回が初めてだろう。戸賀崎さんはいつもクラスの中心にいて、学年でもアイドル的な存在。正直、日陰者である僕の名前を知っているとは思っていなかった。

 同級生。結局はそれ以上でも以下でもない。新学期が始まれば、それこそ今まで通り、特に接点もなくなるだろう。僕としては、今日のことに違和感を持って、それが拡散でもして、学校生活に影響が出ないかどうかが気になるだけ。何事もなければそれでいい。

 今日の反応を見る限り、おそらく大丈夫だろう。それに、まだ夏休みは一ヶ月もある。微かな違和感を抱いたとしても、二学期が始まる頃には忘れているだろう。


 そう結論づけて、僕は浴室から出た。頭をバスタオルで十分に拭うと、脱いだシャツと共に洗濯カゴに入れてジャージに着替える。


 リビングからは醤油のいい香りが漂ってきていた。丁度、出来上がったらしい。白米に、味噌汁に、肉じゃが。それが今日の夕飯のメニューのようだ。日常の延長線。それで、良かった。

 向かい合わせでテーブルに座る。姉さんは妙に機嫌が良さそうに見えた。


「ねぇ、とおる。私、貴方のことを大切に想っているわ。心から愛しているの」


「あ……うん、もちろん僕も姉さんのこと好きだよ」


 食事前、改まった表情で、姉さんに想いを告げられる。今日という日だから、だろうか。一瞬呆気に取られたものの、勿論僕も唯一の家族として姉さんを愛していた。愛している、という言葉を使うのは流石に気恥ずかしくて、好き、で誤魔化してしまったが。


「そう……それでね、いつ言おうか悩んでたんだけど、もうそろそろ良いかなって思って……」


 姉さんが胸に片手を手を当て、目を瞑って深呼吸をする。一体何の話だろうか。全く検討が付かずに首を傾げる。


「……あのね、私たち、血が繋がってないの。義理の姉弟なのよ」


 そう言って、姉さんはにっこりと笑った。


 ──脳内に、靄がかかり始めるのを感じた。

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