196年 夏 袁煕の嫁とり

第30話 久しぶりの平穏……平穏だよな

 郭図の爆弾情報を確認する間、しばしの休暇が出来た。

 現在あのアホ軍師には顔良が付きっきりで見張りをしている。顔良には他の部隊の訓練を任せたいのだが、郭図の萎縮っぷりが激しいのでそのままにしておいた。


「顕奕様、猫のお手ては気持ちいいですか?」

「ああ……最高だよ。もっと強くても……うっ」

「かっちかちですよ顕奕様」


 肩甲骨のあたりをこすってもらうのは最高だ。自分では届かない場所だし、器具を使うのと人の手では柔軟性に違いがありすぎる。

 誰だね、変な想像をしたのは。いたって健全な健康増進方法だぞ。


 さて、俺は鄴での生活をもっと改善すべく、木工・鉄工職人を呼んで様々なものを作ってもらうことにした。


 通常業務で巡察というものがある。

 町民や農民の様子をうかがい、各種の問題がないか確認する。他にも訴訟があれば対応し、沼にはまった牛がいれば引き上げるなど、雑務も含まれている。


 俺が思ったのは、農具の貧弱さだ。

 木材で作られた農具は耐久性が乏しく、作業効率も悪い。無論一部鉄製の農具もあるが、持っているのは比較的余裕のある農民だけだ。

 河北の収穫率向上などとブチ上げるのも気が引けるが、せめて効率的な農具を普及して安定した生活を送ってほしい。


 衣食足りて礼節を知るとかの管子ものたもうた。

 袁家は莫大な財を持っているが、使わずに死蔵してしまうと経済が回らない。効果的に消費し、版図全体の収入を増やしていく方向にもっていきたい。


 その第一歩は農業だ。

 何はなくともコメが欲しかったが、冀州では稲作に適しておらず、もっぱら揚州からの輸入品だそうだ。

 なので代わりに寒冷地でも育つ麦、粟、黍の栽培を奨励した。


 耕地拡大に関しては屯田兵という概念を用いることにした。

 基本的に袁家は常備軍と半農半兵の召集軍で構成されている。この常備軍はそのまま置いておくだけで金と兵糧が減っていく、平時の金食い虫だ。

 治安を守るという大事な役目があるので、あしざまに罵るわけではないが、手すきの兵士に開墾させれば無駄な時間がなくなると考えた。


 袁紹に計画書を提出したところ、一つの村を与えられたので、そこで実地試験をすることにした。

 侘び寂びと言うにはほど遠く、崩壊しかかっている村である。

 住民はなんと五十名ほど。これでよく生活が成り立ってるなと思ってしまうのは、俺の心がまだ日本人のころを引きずっているからかもしれない。それに名家の御曹司という身分だ。農民の苦労なんぞ知る由もなかっただろう。


 仕事が無い時間を利用して、俺は兵士を引き連れ、与えられた『雪華村』に泊まり込むことにした。

 護衛と称してついてきた兵士たちには烈火のごとく反対されたのだが、民の生活を体験しないことには苦労がわからない。

 

 木の床にそのまま寝て、日の出とともに起きて農作業を行う。食事も質素……いや、かなり厳しい量だったが、文句は言えない。

 将たる俺が率先垂範することによって、部下たちも動く。これはどこの国でも変わらない流れだろう。


 

 ひたすらに農作業をする日々が続く。

 兵士たちも業務に携わってくれたため、村には余力が出来た。一応食料不足にならないように、鄴から物資を持ってきている。だが量に限りがあるので、無駄遣いしないようにしなければならないね。


 畑の状態をよくするために、連れてきた馬の後ろに馬鍬をつけて歩かせる。これによって地ならし効果が出て、苗の作付きが良くなるという。村にはよぼよぼの牛が二匹いるだけだったので、軍馬サンには頑張ってもらった。

 農具は二人につき一つとかいう惨状である。ロシア軍かな?


 耕地は一年起きに変えねばならない。一度作物を収穫すると、その一年間は畑に栄養がなくなるそうだ。


 腰の痛みが日常化し、体重がガンガン落ちてきたと思う。

 しかし今まで使わなかった筋肉がついてきた気がする。兵士たちも当初は悲鳴に近い声を上げていたが、基礎力が違うのか、今ではゴリゴリと作業をしている。


 そして家の建て替えも進めていく。

 強風がくれば吹っ飛びそうな掘っ立て小屋を、どうにか補強したり改築したり、新築したりする。村周辺には木材が豊富だったので、乾燥・加工・修復には足るだろう。


 体から袁家御用達の香がすっかりと抜けきり、肥え桶の担ぎ方が様になってきたころだ。怒涛の帰宅命令がやってきてしまった。

 もう少し、あと一か月、いやいやあと数日。引き延ばそうとしていたが、書状に袁紹の印と、切れ気味の文言が混じってきたので、残念ながら俺のスローライフはいったん中止となった。


「顕奕様、猫は楽しゅうございましたよ!」

「そうだな、俺も農業が好きになった。まだまだ甘えが抜け切ってないが、少しでも助けになれればと思ったよ」

「それでこそ顕奕様でございますよ。猫はどこまでもお供いたしますですよ!」


 マオには獅子奮迅の働きをしてもらっていた。

 ぶっちゃけ身の回りの世話を全て任せてしまって、ほぼ依存状態だった。

 侍女というよりも嫁……いや、かーちゃんのような存在だったと思う。家に帰れば炊煙が上がっており、着物を繕ってくれる姿には、思わず手を合わせて感謝するほどだった。


 しかし、そこまで急な用件があるのだろうか。

 郭図の件はまだ時間がかかると斥候の報告があったので、まだしばらく猶予はあるだろう。晋陽までは鄴からかなり遠い。えりすぐりの間者をもってしても、時間だけは大いに費やすことになるだろう。


 袁家の家督争奪レースから早々に脱落した俺だ。放置されてても問題はないはずなんだがなぁ……。今は開発や開墾をしたくてしょうがない。民生の安定こそが国家の基盤であると実感し、思いがそちらに向いているのだ。


――鄴

 うわ、いい匂い。

 久しぶりの都会はやべーくらい清潔だった。

 まあ裏路地とかスラム的な場所とかはあるんだが、寒村とは比べ物にならん程に様々な香りがする。

 饅頭を蒸している湯気が鼻孔を刺激する。ああ、しばらく甘いものは食べてなかったなと腹を押さえるが、先を急がなくてはならんのよ。


「袁顕奕である。通過するぞ」

「嘘をつけ。顕奕様がそのような貧民の服装であるはずがなかろう。身分を偽ると斬刑に処すぞ」


 先を急げなかったよ。

 袁紹の屋敷、つまり実家に入る前に衛兵に止められた。

 まあ、こんなボロッボロの衣服を着て、肥溜め臭い連中が大挙して訪れたら、何かの事件だと思うわな。


「顔をよく見てくれ。俺の言葉に偽りがあるかどうか、面相確認の者を連れてきてもいいぞ」


 この時代は関所などの要所に、咎人を逃さないように面相を判定する人物が置かれているケースがある。

 当然最高峰のセキュリティを誇る袁紹の本家なので、その手の人物は常駐しているのだ。


「……そこを動くなよ」

「わかっている。連れてきてくれ」


 袁紹の書状を見せてもいいんだが、偽手紙とされては立つ瀬がない。印章も入っているが、全ての兵士が理解できるわけではない。こういうのは偉い人にしか通じないのですよ。


 やがて現れた面相判定官は、俺を袁煕だと認めてくれた。


「おお、これは顕奕様……そのお姿は……」

「任務ご苦労。領地の村で作業をしていてな。身なりは汚れているが、心は清涼だ。このまま中に入るのは御父上に申し訳ないから、湯を用意して欲しい」

「か、かしこまりました。行水の準備をしてまいります」


 おもくそ鼻摘まんでたな。見れば衛兵もめっちゃ顔しかめてる。

 鄴の都と雪花村の人々。同じ国の民なのに、これだけ差があるのは悲しいことかもしれないな。


――

 身を清め、香を纏い、衣冠を整える。

 袁紹に合うには相応に準備が必要だった。まあ、名門の息子が泥だらけで帰ってきたら、血管ブチ切れて倒れそうだしな。


 執戟郎に許可を取り、父袁紹の前で拱手する。

「お待たせいたしました。お召しにより袁顕奕、参上いたしましてございます」

「うむ、遅かったな。まあいい、お前を呼びつけたのは他でもない、重要な行事があるゆえだ。心して聞くがいい」


 なんだよおい、そんなイベントあったんか。

 強力編集、編集だ。

 細かく書かれている袁紹軍の「Tips」を虚空で読んでいく。

 出兵……は無いか。しかし何か、何か背筋が凍るものを感じる。


「ここに通してよいぞ」

「ハハッ」


 袁紹の言で、奥の客間に通じる扉が開いた。

 静々と足音一つ立てず、顔立ちの整いすぎた美人が現れる。


「喜べ、顕奕。此度の儀にて甄家との縁談がまとまった。今日は引き合わせの為に、ご足労願っている」


 あっあっあっ、これは、この人は……甄姫っ。

 鄴陥落時に曹丕にNTR食らう、袁煕のトラウマスイッチ製造機だわ。


「お初にお目にかかります。甄家の一の娘でございます。この度は深き縁を賜れたこと、誠に嬉しく思います」


 目が笑ってないッスよ、この娘さん。

 明らかにババ引いたって感じだけど、いいのかね、これ。


 ガハハと笑うパパンを横目に、俺は目の焦点が合わないまま、上の空で甄姫歓迎の宴にもつれ込むことになった。


 我求救助。

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