第15話 あんたは生きてくれなくちゃ

 196年、河北の宴席に激震が走った。

 連合軍の盟主であり、名門袁家の長、袁紹えんしょうが明日をも知れぬ重体に陥った。

 すぐさま緘口令が敷かれ、上は俺たち実子から下は下男にいたるまで、皆一か所に集められた。

 

 鄴の本家詰めの医師に呼ばれ、群臣の中から俺たち三兄妹だけが先に袁紹の側へと、通されることになった。

 何やってんだよ、袁紹。お前これから河北を統べる大戦をするんだろうが。転生してきてまだ浅いが、俺は本当の親父みたいに思ってたんだぞ。


「侍医――趙完ちょうかん殿、御父上は……」

「今しがた、安定いたしました……が、胃の腑より血を吐きましてございまする。御館様は近頃斯様に吐血することが多く、胃の病を患っておいででした」

「おい、そんなのオレたちは聞いてねえぞ! どういうことか説明しろっ!」


 袁譚えんたんが食って掛かるのを、俺と袁尚えんしょうで押さえ、話の先を促す。

 医術的なことは分からないが、どうすれば袁紹が回復するのか、小さなことでも聞き逃してはならない。


「御館様は日頃より味付けの濃いものをお好みでした。これでは体内に惡気が溜まり、血液が濁ってしまいます。しかも大層お酒がお好きでした。これでは寿命を縮めているようなものかと」


 胃が弱ってるところに慢性のアルコール中毒か。

 よくよく見れば、頬はむくみ、手も膨らんでいるような気がする。

 この時代の酒は、現代日本と比較すれば酒精が弱い。あまり酒が得意ではない俺が飲んでもほろよいで済む。それでも袁紹のように体の表面に影響がにじみ出てきているほどの酒量は、まさに致命の毒となるだろう。


「本日が峠と聞いたが、いかがか、趙完殿。何か対策はあるのだろうか」

「発汗量が多うございますので、水分をお召し上がりになるのがよろしいのですが……何分胃の腑が患部でございますので、お飲みいただけるかどうか」


 点滴なんていう便利なものはない。胃が痛もうが水を流し込むしかないのか。

 ん、待て。ちょっとやってみるか。


「分かり申した。お姉ちゃん、顕甫けんほ、二人は父上の手を握り、魂を繋ぎとめていてくだされ。この顕奕けんえきに一つ考えがございますれば」

「お、おい顕奕、お前何を……? なんだよ、その覚悟決まった顔はよ。分かったから、お姉ちゃんに任せておけ。お前のやりたいことってのをやってみろ」

「お兄様顕甫の手が必要な時はお呼びください。それまで御父上の側を離れませぬ」


 俺がやろうとしてるのは児戯に等しい行為かもしれん。だが迷ってはいられない。俺は厨を目指して走る。


「厨師たちはおらぬか。モノがどこにあるか分からんが、探してみるしかない。水分不足だと人は三日で死ぬと言われてるが、袁紹は可及的速やかな補給が必要だ」


 ドタドタドタ、と足音が近づいてくる。

「顕奕様、いけません、御館様のもとへお戻りください!」

 事情を知らぬ衛兵が、俺を必死に止めようとしてくる。ええい、邪魔しないでくれ。今は一刻を争っているのだ。


「下がっていよ、趙完先生からのご指示だ。貴様らも手が空いてるなら手伝え!」

「ご侍医様の……しかし……」


 二名の兵士は顔を見つめ合って固まってしまっている。

 まあ気持ちは分かる。誰も帰らせるな、通すなって命令で動いていたのに、例外を認めるのはいかがなものかっていう思いはあるのだろう。

 下手したら自分たちの首が危ういことも。


「貴様たちの命は袁顕奕が保証する。この場は俺に従え」

「は、ハハッ!」

 拱手で一礼を取ると、兵士たちは俺の言うモノを探し始めた。

 葛片、塩、水飴、はちみつに煮沸したあとのぬるま湯。これでよい。


「顕奕様、一体何を……? これは……」

「飲んでみよ、御父上の前の毒見じゃ」

「うっ、そ、それでは某が。んぐっ」


 兵士の驚愕した瞳を目にした俺は、成功を確信した。


――

 俺が駆け戻って来た時には、袁紹の発汗は著しく多量で、唇がパリパリに乾燥しきってしまっていた。

 袁譚と袁尚が一生懸命名前を呼んで手を握るが、一向に目を覚ます気配がない。


「お待たせしました、皆さん。袁顕奕、御父上の汗を補うものをお持ちしましたぞ」

「汗を……しかし顕奕様、そのようなものこの趙完、寡聞にして聞いたことがございませぬぞ」

「これでだめなら御父上は助からぬ。そして失敗したら俺を斬れ」

「そのようなことが出来るはずもありませぬ。……しかし医師としてこれ以上なすべきことも出来ぬ今、顕奕様の策におすがりするしかないのも事実……」


 俺は木製の吸い飲みに、作成してきた経口補水液を入れ、一口飲む。

 うむ、美味い。

 この時代、病人への滋養強壮にもち米と麦芽から作った水飴を舐めさせていた。それに少量のはちみつを加えて栄養素を増す。塩で水分を吸収させやすくさせて完成だ。

 糖分5に対して塩分2の割合で混ぜることで、自家製ポカリの出来上がりだ。


「毒見は見ての通り。しからば御父上の上体を押さえてくだされ」

「お、お姉ちゃんがしっかり押さえてるぞ。顕奕、でも父上は口が開かずに、飲み込む力も無いと思うのだが」

「ですから、こうします」


 俺は口に補水液を含み、袁紹の口に直接含ませる。


「お、お兄様! なんて言うことを!」

「け、顕奕……そんな、うらや、けしからんぞ!」

 姉妹はこういう時は仲いいね。


 病人が飲みこめない時はどうするか。元気なものが飲ませるしかなかろうよ。

 救命行為は何にも優先される。後でどんなお叱りが待っていようとも、袁紹には生きていてもらわなくてはならんのよな。


 ごく、と袁紹の喉が鳴った。少量ずつではあるが、水分を体が欲し始めているようだ。これならあとは吸い飲みでもよかろう。


「お見苦しい真似を致しました。病人への緊急事態の処置とはいえ、名門袁家の長への無礼、如何様に罰を与えられても申し開きはせぬと誓いましょう」

 趙完先生の手で、少量ずつだが御父上は補水液を飲み始めた。これで排尿まで持っていければ、体内で正常に循環したことになる。


 やがて、むせる声が聞こえる。

「えほっ、げほっ。むむむ、ここは何処や」

「親父っ!」

「お父様!」


「む、顕思けんしと顕甫か。そちらにいるは顕奕……そうか、わしは倒れたか」

「お気を戻されて何よりでございます、御父上」

 どっと汗が噴き出てきた。疲れた。いや、ほとんど無呼吸で必死に調合して飲ませていたのだ、酒を飲んでいた後の体にはしんどいしんどい。


「趙完、またわしは血を吐いたか」

「左様でございます。しかし顕奕様が妙薬をお持ちになり、御館様の意識を取り戻してくれました。私もまだ不勉強でございますれば、汗顔の至りです」

「ほう、顕奕が……ちこうよれ」


 頭が朦朧とする中、俺は袁紹のもとで拱手する。

「お前にここまでの秘策があるとは思いもよらなかった。よくわしの命を助けてくれたな、礼を言うぞ顕奕」

「勿体ないお言葉でございます。それよりもですね、御父上。これからのお食事の差配や酒量に関して、この顕奕に趙完先生とお話しする機会をお与えください。御父上を失っては袁家は大いなる困難に会いましょう」


 これがガチ。

 少なくとも袁譚・袁尚の仲が収まるまでは頑張ってほしい。

 ついでに言えば曹操をぶっ倒すとこまでは、なんとか生きていてくれ。


「強い――瞳になったな、顕奕。いいだろう、お前にこの身の養生を任せる。病を取りされとは言わぬ、せめて喀血せぬまでには治してくれぬか」

「微力を尽くします。安んじてお任せください、御父上」

「うむ」


 そう答えたまでは覚えていた。

 だが生まれ持っての虚弱なこの体が、緊迫した状況についていけなかったらしい。

 そのまま世界は周り、俺はばたりと地に伏せることになった。


「け、顕奕!? おい趙完、顕奕を診ろ!」

「あわわ、け、顕奕様! お気を確かに!」


 袁紹と趙完先生の声を耳に、俺は意識をあっさりと手放すことになった。

 人、これを火事場の馬鹿力後の、燃え尽き症候群という。

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