五章 風花の葬送

第26話 気配のしない虚無僧

 翌日。草世は一人で丹地風呂屋の建物の中に入り、真珠は建物を一望できる少し離れた場所で草世が出てくるのを待っていた。

 丹地風呂屋に午前中の明るい太陽が当たっている。しかし真珠の目には、風呂屋が暗く映っている。

 二階建ての建物の内部から、黒く禍々しいもやが吹きだしている。悪意に満ちた粘りつくような、黒い靄。まるで獲物を狙う蜘蛛が建物の中にいて、外側に糸を吐き出しているようだった。

 中にいる人は呪いの糸に絡みとられて、外に出てこられないのも頷ける話。

 現に直志の両親は、衰弱しているにもかかわらず、草世が外に連れ出そうとすると抵抗する。挙句の果てには「俺たちを外に出して、金目のものを盗む気だな!」と暴言を吐く始末。


「草世、大丈夫かな?」


 真珠は心配になる。一昨日から草世は考え込むことが多くなり、口数が少なくなった。顔色が悪く、目の下にクマもできている。

 なのに、どうしたのか尋ねても答えてくれない。


「わたしが役立たずだから、話してくれないのかな……」


 草世の前では明るく振る舞っているけれど、一人になるとしょげてしまう。

 丹地風呂屋に行くたびに、やつれていく草世。真珠は生気を分け与えているけれど、いつの日か、草世が禍々しい黒い靄に捕われて帰ってこれなくなりそうで怖い。

 やはりここは、元凶を断たなければならない。呪詛を見つけること。妖術を使えば、呪詛を燃やせるはずだ。


「呪詛を燃やすのは、人間に関わることじゃない。呪いに関わるっていうだけ。だから、大丈夫。白狐族の掟を破っていない」


 真珠は自分に都合の良いように解釈すると、足を一歩、踏み出した。

 その途端、しゃがれた男の声が響く。


「行ってはならぬ」


 真珠は肩をビクンっと震わせた。振り返ると、背がひょろりと高い、痩せた虚無僧が立っている。深編笠をかぶり、右の袖からは尺八が半分覗いている。手は見えない。

 真珠は虚無僧を、長いこと見つめた。男は目の前にいる。なのに、気配を感じない。

 男はざらざらした低い声で、話を続けた。


「領域を守れ。そなたは人間ではない」

「そういうあなたも、人間じゃない」

「拙者は昔は人間であった。生きていないというだけの話。忠告する。これに関わるな」

「どうして?」

「呪詛が正しく働くかの実験をするために、この村が選ばれた」

「実験? どうしてそんなことをするの?」

「この世界を美しくするためだ」


 真珠は首を捻った。呪詛が正しく働くかの実験をすることと、世界を美しくすることがつながらない。


「意味がわからない」

「わからなくてよい」

「知りたい! 教えて」

 

 深編笠の中で、男がくくっと喉を鳴らして笑った。


「心がまっすぐな白狐だ。鍵を壊して遊んでいる白狐とは違うようだ」

「えっ? 仲間が鍵を壊しているの? なんの鍵?」


 直志を閉じ込めている部屋の鍵が二日間にわたって……そして今日も、壊されていることを、真珠は知らない。


「そなた、消えてほしい者はいるか?」

「あ……それは……」

「花鳥風月。花が咲き、鳥が囀り、風が花を舞い散らせ、夜空に月が輝く。自然の営みは美しい。ならば、人間も美しく生きねばならぬ。有害なものを撒き散らす人間が生きる必要はどこにもない」

「よくわからない。でも、わたしは……」


 真珠は戸惑う。「消えてほしい者はいるか?」そう問われ、真っ先に兄の顔が浮かんだ。それから、父と母。仲間たち。

 会いたくない。関わりたくない。けれど、消えてほしいかと問われると、首肯はできない。


「自然は美しいけれど、大きな地震があったり、嵐があったりする。人間も同じで、美しさと醜さが両方あってもいいと思う」

「そなたは若い。醜さが世を蝕むことを知らぬ。蝕まれた自然が回復するのは時間がかかる。ならば、人間を滅ぼしたほうが早いというもの。拙者は、あるじの理想を叶えるために呪詛を広めし者。この風呂屋の若者は、今宵、怨念の化け物となって、この村を滅ぼす。村は静まり返る。鳥の囀りがよく聞こえ、川の透明さが増し、美しい風景となる」

「そんなの駄目っ!!」


 真珠は白狐の氣玉と呼ばれる、氣を練って球にしたものを放った。真珠の瞳が赤く輝く。

 真珠のてのひら大に練り上げた氣玉は、虚無僧目がけて一直線に進み、男の胸を突き抜けた。


「え……っ!」


 真珠は動揺した。男から気配がしない理由がわかったのだ。

 男には肉体がなかった。がらんどう。黒装束がはらりと舞って、編笠と尺八が地面に落ちた。

 黒装束の着物の間から、白い紙でできた形代かたしろが出てくる。

 三百年前に亡くなった高僧の霊を宿している、形代。

 人の形に切ってある手のひら大の形代は、ひらりと宙に浮いた。

 低いしゃがれ声が響く。


「警告する。拙者の邪魔をするならば、そなたを敵とみなす。あやかしの領域に人間が踏み入ると、あやかしたちは怒ってその人間を殺す。それと同じこと。拙者たちは人間の領域で物事を行なっている。邪魔するでない」

「この家の人たちが、なにをしたっていうの! 村の人たちを、巻き込まないで!!」

「情けはかけた。この家の者も村人たちも、三年間いい思いをさせてやった」

 

 形代が風にぴらぴらと揺れる。男は「さらば」と言い残すと、風が吹く向きとは逆方向に飛んでいく。

 真珠は形代が空に溶けるようして見えなくなっても、その方向をじっと見ていた。

 

「村が、滅びる……」


 どうしたらいいのだろう。自分はなにができるだろう。

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