六章 朧月夜の誓い

第36話 真珠の父と兄

 床支村から小麦峠までは、約八キロ。草世は真珠狐を抱きながら、走り続けた。

 草履が脱げた片方の足裏が痛い。草履を取りに戻れば良かったと悔やまれる。後悔はまだある。水筒を置いてきてしまった。カラカラに渇いた喉が悲鳴をあげている。

 けれど、足を止めることはできない。腕の中にいる真珠狐の体温が下がっているし、呼吸も弱々しい。

 草世は、『小麦峠入り口』と書かれた木杭の前で、大声を張りあげた。

 

白藍はくらん様! 白藍様ーっ!! 草世です。真珠が命の危険にあります。どうか、助けてください!!」


 山を切り開いて作った道を登りながら、名を呼び続ける。


「草世です。白藍様ーーっ!!」


 風がどどっと吹いた。山笹が鳴る。草世は思わず目をつぶった。

 風がしずまって目を開けたとき。人の背丈よりも大きい岩の上に、目の細い男が立っていた。

 男の髪は灰色。顔つきは険しい。眉間の深い皺。目尻の吊り上がった細い目。憮然とした唇が頑固そうだ。

 

「あなたは……」

「真珠の名が聞こえたから、来てみた。真珠は、われの娘だ」

「娘……真珠のお父さん……」


 草世は過ちを犯したことに気づいた。真珠の名前を叫んではいけなかったのだ。真珠は、顔も見たくないと言われて父親から石を投げられたと話していた。そんな男が、真珠を助けてくれるとは思えない。

 草世は腕に抱いている真珠狐を守るために、さりげなく右腕で覆い隠した。


「あの、別な人を探していまして……」

「白藍、とか叫んでおったな。誰だ、それは?」

「えっ……」


 真珠の父親は岩の上から草世を睨みつけると、忌々しげに吐き捨てた。


「われは人間が嫌いでな。本来なら、人間の前には出ない。だが、真珠の最期を見てやろうと思ってな」


 父親は、愉快そうに喉奥で「ククッ!」と笑った。


「息子が言うには、真珠は危険な状態にあるらしいな。なんでも、力のある呪詛師が作った毒を飲んだそうじゃないか。白狐の治癒力では敵わないほどの、強力な毒。ハハッ! 愉快だな!!」

「あなたって人は……」

 

 腐っている──。

 草世は奥歯をぎりっと噛んで、怒りに耐える。やはり、真珠を白狐の村に帰すわけにはいかない。自分が守らなくては……との思いを強くする。

 草世の背後の空気が、微かに動いた。


「遅れてすみません。喧嘩をしていた白狐の仲裁に入っていたものですから」


 凛と響く、男にしてはやや高い声。草世は、地獄で仏に会ったような心持ちになった。


「白藍様!」


 腰まである真っ白な髪。顎の尖った細面。青白い着物を着た美丈夫。

 川辺で会った白藍で間違いない。

 真珠の父親の目も細いが、眼球が見える。しかし白藍は糸のように細くて、眼球がまったく見えない。


「白藍様、助けてください!!」

「私より視線が高い。座ってくれ」

「あ、はい……」


 草世は困惑しながらも、言われたとおりにする。峠を行き来する人たちによって踏み固められた土の上に正座し、太ももの上に真珠狐を下ろした。上着を脱いで、かけてやる。寒さから守るため。それと、真珠の父親から隠すために。

 草世が従ったことに白藍は満足し、威圧的に命じた。 


「何があったのか、話してよい」

「はい……。真珠が誤って毒を飲んでしまいました。助けていただきたいのです」

「無理だ」

「は?」

「無理だと言った。真珠が飲んだのは、呪毒卵じゅどくらんという非常に特殊な毒。この世に存在しない毒だ。毒を作った呪詛師を倒さない限り、解毒できない」

「そんなっ⁉︎ 他に方法はないのですか!」

「ない」

「でしたら、白狐族の長である希魅様のところに連れて行ってもらえませんか?」

「土下座して頼むなら、考えてやらんでもない」


 草世は白藍の顔をまじまじと見た。川辺で話したときの、親しみある雰囲気はない。口元に微笑をたたえているものの、温かみを少しも感じない。

 この男を見ていると、心が冷えていく。


(僕は選択を間違えたのではないか? この人は、腹の中で思っていることと話すことが違う男だ。信用してはいけない気がする。だが……希魅様に会うためには、この人を頼るしか……)


 白藍は草世を見下ろしながら、口元を醜く歪めた。


「真珠の体内にある呪いは、まだ卵。これが孵化し、成長したら、魂を喰ってしまう。さっさと土下座せぬと、手遅れになるかもしれんぞ?」

 

 だったら、早く希魅様のところに案内しろ!! そう、言ってやりたい。だが、草世は煮えたぎるほどの怒りに耐える。

 ここは、小麦峠。都から床支村にやってきた際に通った風景だ。つまりここは、異界ではない。白藍の機嫌を損ねてしまっては、白狐村に通じる異界の扉を開けてもらえない。

 草世は藁にもすがる思いで、額を地面につけた。

 力を入れた指先で土をえぐる。白藍が「座ってくれ」と言った意味を知る。最初から、土下座させるつもりだったのだ。


「希魅様に会わせてください」

「断る」


 白藍は、馬鹿にしたようにケタケタと笑った。真珠の父親も、膝を叩いて笑った。


「おまえは良くできた息子だ。人間を簡単に屈服させた。愉快だ!」


 息子という言葉に衝撃を受け、草世は体を震わせた。

 

(息子? ということは……白藍は、真珠の兄? 幼馴染ではない……? 許嫁というのも、嘘なのか? 僕は騙されたのでは⁉︎ 悩みすぎて脳が疲弊していたとはいえ、やさしい言葉に騙され、この人の本質を見抜けなかった。僕は大馬鹿野郎だっ!!)


 膝の上に感じる、真珠狐の重みと体温。小さな心臓がトクトクと脈打っている。

 この命を消すわけにはいかない。諦めるわけにはいかない。逃げてもどうにもならない。この場に留まって、真珠を救う道を探すしかない。


 

 

 



 

 


 


 

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