04

【ッチ。おい、待て待て待て待て…】


掻きむしりたくなるような感情に駆られた啓司は、泡食って玄関扉をすり抜け後を追いかける。

美形な横顔はポーカーフェイスだったが、ドアが締まるほんの一瞬に垣間見た表情かおは悲しみを含んで歪んでいるようにも見えた。

華奢な背中は、今まさに足早にマンションを出ていこうとしている。

自分が自由に行動できるのは、このマンション敷地内でのみ。

案の定追い付けず、まるで追い風のように足が早いソラを見失った啓司は自身の情けなさにほぞを噛んだ。


【クソ……俺はバカか】


《……これで懲りただろ。もう二度と関わるなよ》


ポーカーフェイスをしていたが、あれは明らかに傷ついた顔だった。

否定され、忌み嫌われることに慣れた冷めた目で、諦めたように儚く目元を弛ませる…あんな顔をさせるつもりじゃなかった。

もしかしたら本当にここから遠く去って、もう二度とあの菫色の瞳をした麗人…彼女には会えないかもしれない。

……いや、可能性の話ではなくて本当に一度縁が切れてしまえば、何億もいる人間の中から探し出すことは不可能だ。

会ってからまだ日が浅いのに、とても、とても彼女が好ましい。なぜかあの華奢な背中を無性に追いかけたい。

自分の内部なかに見知らぬ感情が割り込んで生まれる感覚が妙にくすぐったいのは一体、いつ振りだろう?

晩冬の風に吹かれながら、啓司はみなぎる感情を認めて顔を歪める。

男だとか女だとかの性別もちろん、ましてや人間でなくても関係などない。

ソラが刹那にみせた表情が脳裡から消えなくて… 啓司は堪らなくなった。


【莫迦、だよなぁ…】


手立てなく項垂れてマンション敷地内に立ち尽くす背中に、冷たい突風が吹き付ける

二度と会えないのかと、そんな後悔ばかりが脳裡を占拠しだした頃、


「…貴様の阿呆は今さらではないか。どうした神妙な顔をして。記憶の欠片でも思い出したか?」


ふいにかけられた声に啓司は尋常なく胸が…感情が引き絞られる。


【ソラ…っ】


勢いよく背後を振り返ると、何処かの制服に見えなくもない、全身が黒で統一された少し変わった服を纏う麗人…相変わらず無感情だが、心做しか皮肉げな表情のソラが佇んでいた。

だいぶ遠ざかって影も形も見えなかったのに、いつの間に戻ってきたのだろうか。

まさか、近くに潜んで成り行きを見ていたのではないだろうか…とも一瞬考えたが、いざ本人を前にしてみたら益体もない疑心なんて呆気なく吹き飛んでしまっていた。

また逢えたのが嬉しい。嬉しくて、どうにかなってしまいそうだ。


【ソラ…。すまねえ、俺…お前にヒデェ態度しちまった】


「な…」


きっちり90°に頭を下げた啓司の謝罪に、ソラは虚を突かれて紫灰色アッシュ・モーヴの目を瞠る。

まさか、正面切って謝られるだなんて思いもしなかったのだ。


「なんだ……それを伝えるために、わざわざ追いかけてきたのか」


【お前に、どうしても謝りたかったんだ…】


やや笑いを含んだ口調にほんの少しバツが悪くなった啓司は、ムッと口を尖らせる。


【…ダメだったか?】


イタズラを詫びる仔犬のような、寂しげで不安そうな表情をする青年霊に、ソラは閉口した。

異形にだって感情があって、ちゃんと傷付くのだ。


「断る。……私は執念深いんだ」


忌避されても仕方のないことだと理解しているが、啓司には何故か忌避されたくなかった。

あんな風に、怯えた顔をさせるつもりはなかったのだけれど、そうさせてしまう自分自身が本当に嫌いだ。

こんな性格さがが、本当に腹立たしい。


【怒ってんのか? なあ、さっきは悪かった。頼む……許してくれよ】


お前に嫌われたら生きていけない。そんなことを口吟くちずさまれてしまったソラは、よく分からない熱が背中を這い上がってくる感覚に苛まれて立ち竦んだ。

全身が熱く滾る感情に篭絡され、足元から崩れ去るような錯覚は驚くほどに心地がよかった。

…いや…私事を挟むのは止そう。それよりも、今はこの男をどうにかしなければ。

取り敢えずそんな目、表情で見ないで欲しい、これではまるで、ますます本当に仔犬にしか見えない。


「……クッ、」


なんだか笑えてきてしまって、ソラは堪えきれずついに吹き出して笑ってしまった。


「っ、くくく、くく、くくく……なんだ、その顔は…マヌケにも程がある…あはははっ、ああ可笑おかし…っ」


【ぶっ、なんだよ、笑う事ねーだろが…】


「…まったく、可笑しな奴だな。普通、恐怖を覚えた相手を追いかけようなど、考えないだろうに」


笑ったせいで目尻に浮かんだ涙を細い指先が拭う仕種が…それがとても綺麗で、心惹かれて、啓司はやや暫く棒立ちになった後、熱された薬缶の如く声を荒げた。


【~~~~~~っ! んだよ、お前…ちゃんと笑えるんじゃねえかっ】


鼓動のないハズの心臓が馬鹿みたいに早鐘を打っていて、苦しくて堪らない。


「ん? そうだな、私だって楽しければ笑うし、悲しければ泣くぞ」


【そ、そうかよ…】


「? …ああ。……そんな処に突っ立っていないで、その、座らないか?」


【お、おう。それもそうだな…】


マンションは、小さな公園を挟んで向かい合って建っている。

設置されているベンチにどちらからともなく座った2人は、改めて互いに笑う。


【…わりい。俺、イヤな思いさせちまったろ】


「こっちこそ悪かったな、私もお前を試していたんだ」


啓司の澄んだ茶色の目が、真摯にソラを捉える。

目は心を映す鏡だ、彼の瞳はまじりけのない誠実さを示していた。


「先に試したのは私だ。私こそ…すまない」


【なっ、おい…頭上げろって!……そんならよォ、ちっと歩み寄りとか…してみねえ?】


きっちりと腰を折って謝罪するソラを初めこそ慌てて止めた啓司だったが、すぐに不埒めいた表情を浮かべた。


───きゅ…っ


「っ!」


少しだけ調子に乗った啓司が、隣に座る麗人の腰に腕を回しながら鼻の下を伸ばす。

「ぶん殴られて、逃げられるかもな〜」とドギマギするが、意外にもソラは逃げも怒りもしなかった。


(……ドキドキ、ドキドキ、ドキドキ……)


互いに無言のまま、やけに遅く時間が過ぎていく。

腰を抱かれることを既に予期していたソラだが、意外にも彼の傍らに寄り添うのが心地よくて…数秒後には目を閉じて身体を預けていた。

温もりがないだけで、彼は厚い胸板をしている。包容力というのだろうか、大木のような安心感があって…とても心地がいい。


《ドグ…ッ。ドグッ、ドグッ…ドグッ、ドグッ!》


「…っ、バカな…。私は、なにを…」

(…バカな。こんなこと、起きてよい訳がない!)


未分化でしかないはずの身体の造作が勝手に女性に傾いていく「異変」を察したソラは、薄らと込み上げたよく分からない羞恥に頬を染めた。

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