第8話 抱きしめたいけど……

 精霊が見えるアレイシアでも、精霊の声を聞いたのは初めてのことだった。

 こんな奇跡みたいなことは神殿の中だから特別な事態であって、外に出たら聞こえなくなると思っていたけど……。『智の精霊』は神殿を出ても、『精霊の宿りし森』を出てもずっと喋り続けている……。

 正直もう何が何だか訳が分からな過ぎて、オレンジのエプロンをなびかせて目の前をふわふわと浮遊する『智の精霊』を呆然と見ているしかできない。


「……黒目、黒髪? 変な服? オレンジ……?」


 見たまんまを呟いたアレイシアが何かを思い出して、こぼれ落ちんばかりに目を見張っている。

 その様子を見ていた『智の精霊』は、「やっと思い出してくれた?」と言って笑った。


 目の前にいる黒目黒髪でオレンジ色の服を着た人は、崖から川に落ちたアレイシアに「諦めるな!」と励まし続けてくれた人だ。

 初めて誰かに心配され励まされた記憶が、アレイシアに蘇る。


「貴方が崖から落ちた瞬間に、何で私が居合わせたのかは分からない。まぁ、偶然かな?」

「…………」

「運よく滝の裏側に入り込めたし、男の子に何度も何度も何度も声をかけ続けたら精霊が反応してくれたのよ。息もあったしホッとしてたら、急に精霊たちの所に転移させられちゃって……」 

「…………」

「ずっと大丈夫だったかは心配してたんだけど、全然身動き取れなくて。でも、まさか私が精霊になって貴方が私の愛し子になるなんて、あの時は想像もしなかったなぁ」

「……あ、あの、助けてもらったのに記憶らか消えていて、ごめんなさい。本当にありがとうございました……」


 ずっと励ましてくれていたことを、アレイシアは思い出した。おまけにヒューライルを連れてきてくれたなんて、間違いなく命の恩人だ。

 ただ、色々と急な展開過ぎて、ついていけない……。

 そんなアレイシアに対して、この『智の精霊』は順応性が高いのか……。


「私は、紗和子。年齢は四十二歳だから、紗和子さんって呼んで!」

「……アレイシア・オンズローです。五歳です。……シアって呼んでください……?」

「いやいや、参ったわぁ~。異世界転移で聖女とか悪役令嬢とかって聞いたことあるけど、日本人のおばちゃんのまま精霊になるなんてね~。あり得ないでしょう」


 紗和子の言っていることは、聞いたこともない単語ばかりでアレイシアには理解ができない。


(人間の姿な精霊があり得ないと言いたいのかな?)


「……ごめんなさい。「いせかいてんい」とか、「あくやくれいじょう」とか、精霊語? の意味がよく分からないです……」

「ごめんごめん。ちなみに精霊語じゃなくて、日本語ね」

「日本語? 古代語ですか?」

「うーん、日本語は異世界の言葉だね」


(精霊と話ができることが普通じゃないんだから、言葉が分からなくて当然だよね)


「神官様は初めて見る精霊だって言ってましたけど、『智の精霊』である紗和子さんはどんな精霊なんですか?」

「……うーん、実は私もよく知らないんだよね~」

「えっ?」

「知らないよ~! だって、私、精霊としては産まれたてだよ? まだ産まれて間もない訳だから、シアの方がお姉さんってことになるね!」


 紗和子はあははと笑ってそう言うと、少しボヨンとした自分のお腹を叩いた。そこから産まれてきたはずはないのに……。


(精霊って、元から精霊なんじゃないの? 四十二歳で産まれたてって、何?)


「私の記憶の中では、つい最近までは日本で十一歳と九歳の男の子の母さんだった。プラス旦那との四人家族で、九時四時でパートしてた普通の主婦。家族でご飯を食べに行った帰りに、車に突っ込まれて死んだんだと思う。そしたらこの世界でシアと一緒に川に落ちて、気付いたら精霊になってた。だから、精霊としての経験値ゼロです!」

「………………」

「まぁまぁ、そんな心配そうな顔しないで! なぜかスマホは常にフル充電で使えるから、きっと役に立てると思う!」


 そう言った紗和子は、スマホをアレイシアの目の前に突きつけた。

 紗和子にとっては便利な文明の利器だけど、アレイシアにとっては長方形の光る板だ。分かったことと言えば、『スマホ』という名前だということのみ。

 紗和子自身ことだって、分からない言葉が多過ぎて理解できない。

 ヒューライル達も精霊は見えないと言っていた。精霊が見えて、自分の精霊である紗和子とは会話ができてしまうのはおかしいのだろうか?


(精霊が見えることだって、言わない方がいいと言われた。話ができるなんて、多分もっと秘密にした方がいいに決まっている)





 紗和子は何もかもが規格外の精霊だけど、命の恩人だ。愛し子でも何でもないアレイシアだって助けてくれた。

 分からないことだらけでも、アレイシアは紗和子を信頼し受け入れた。

 それでも相互理解は必要だと紗和子が言い、お互いに同じことを何度も聞き返しながら理解し合ったことは……。


 紗和子は別世界からやって来たばかりで、仙人? みたいなおじいちゃんに「うーん、智の精霊?」と言われたら、大事なスマホがアレイシアの手の中にあったそうだ。

 ならば当然何も知らないのかと思いきや、この世界の概要やアレイシアのことは知っているという。

 自分でも首を傾げながら、「あの仙人が予備知識で情報を入れてくれたんだと思う。もちろん知っているのは過去で、未来は知らないよ」と言った。

 でも、何を思ったのか、てのひらを顔の前で合わせて「未来、未来、未来見えろ!」と念じ始めた……。眉間に皺寄せて、紗和子は真剣だ。

 眉間の皺が消えて眉が下がると、「やっぱり、未来は見えない。ごめんね」と残念そうに謝ってくれた。

 アレイシアは「全然期待してなかった」とは言えず、曖昧に笑った。


「私に何かしらの力があれば、間違いなくシアの両親を苦しめてやったのに! それができないのが、一番悔しい!」


 紗和子は何の力も持たない自分の両手を見て、本当に悔しそうにギュッと握りしめると「いや、一番はそれじゃないな」と呟いた。

「精霊って実体がないから、シアを抱きしめてあげられないのが一番悔しい!」


 そんなことを言われたことがないアレイシアはポカンとしながらも、ヒューライルに抱きしめてもらったことを思い出した。


(ヒューに抱きしめてもらうと、温かくて優しくて安心できた)


「抱きしめるって、当たり前のこと? みんなするの?」

「うーん、この世界がどうなのかは分からなけど、私は日本人だからな~。やっぱり好きな人、だけかな? 家族とか? 子供のことはいっぱい抱きしめたよ?」

「なら、抱きしめられなくなって、悲しいね?」


 出会ってからずっと元気が溢れていた紗和子が、急に泣き出しそうに顔を歪ませた。でもそれは一瞬のことで、スマホが入ったポケットに視線を落とすとすぐに、元の笑顔に戻っていた。


「あはは、私にはシアがいるもの。私は精霊だけど、気持ちの上ではシアのお母さんよ!」


 「あー、触れられないのがもどかしい!」と言って、紗和子はアレイシアの頭の上に手を置いて撫でるように手を動かした。

 もちろん何の感触もない。だけど、アレイシアは胸が締め付けられるような、紗和子に抱きつきたいような気持になる。


「私も何だか、紗和子さんを抱きしめたい気分」

「ってことは、シアはもう私のことが好きだね? 私もシアが好きだから、もう私達は家族だ!」


 初めて得た家族である紗和子に一歩近づいたアレイシアは、抱きしめようとして上手くいかず「あれ? おかしいな?」と言って悪戦苦闘している。


「……なに、してるの?」

「紗和子さんを抱きしめたいんだけど、腕とか通り抜けちゃうから難しいね」

「……そうだね、難しいね……。でも、嬉しいよ! 本当に嬉しい!」


 紗和子も抱きしめるようにアレイシアの背中に手を回した。

 五歳にしては、小さく細い体。まともな食事も与えられず、運動もしていない。骨と皮だけの、病人のように青白い顔をしたアレイシア。

 五歳だというのに人から抱きしめられた記憶もなければ、甘えたこともない。それなのに、紗和子の悲しみに気付いて慰めようとしてくれている。そんなアレイシア

を、紗和子は心でギュッと抱きしめた。


「……ありがとう。ありがとう、シア。これからは、ずっと私がシアを守るからね。ずっと一緒にいるからね。いっぱい一緒に笑おうね」


 実体がないから、本当に抱きしめることはできない。心臓の音も身体の温もりも感じられない。だけど、アレイシアも紗和子も心が温かくなった。

 アレイシアも何だか涙が出そうになったけど、悲しくないのに涙が出る意味が分からなくて頭を振ってひっこめた。







◆◇◆◇◆◇◆◇◆


読んでいただき、ありがとうございました。

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