第7話 握り締めた止まり木
その日、空中庭園を訪れた者の姿を見た途端、身を潜めているカーテンの奥で、アキレアは思わず顔を歪めてしまった。
ストレリチアと同じ新緑の色をした髪、穏やかそうな夕暮れ色の瞳。
整えられた身なりを見なくとも、美しい所作で高貴な存在だと知らしめる、彼は、ストレリチアの兄であるサンカルーナだ。
十歳近く離れた兄妹だけれど、ストレリチアを歌姫という存在以外では関心を示そうとしない国王達とは違い、彼女の境遇を憂い、こうして何かとこの空中庭園まで訪れている。
外に出る事が叶わない彼女の為に、彼はいつも外の話を聞かせたり、たくさんの贈り物を用意してくれるのだそうだ。
国王達は高価なものばかり与えればいいと考えているようだけれど、ストレリチアは特別そういったものを好まず、サンカルーナもそれを重々承知していて、彼女の好きそうな書籍や服などを方舟にめいっぱい詰め込んで届けてくれるという。
先日は草花の図鑑や星座の本、難しそうな歴史や経済とやらの本なども楽しそうに読んでいたっけ、と考えて、アキレアは瞬きを繰り返して小さく息を吐き出した。
『アキレア、もう出てきて大丈夫よ』
カーテンを摘み、緩く揺らしながらストレリチアがそう言うので、アキレアは深く長く息を吐き出しながら、カーテンを開いて彼女の側へと足を向けた。
ストレリチアの向かいにいるのはいつも通りに優しそうな笑顔を絶やさないサンカルーナ。
そして、彼の側に控えている、アキレアと同じ年頃の榛色をした髪の従者は、ぱっと周囲が明るくなるような笑顔が印象的な少年、ティニーユーだ。
二人がいると途端に部屋の中は明るくなり、ストレリチアも嬉しそうではあるのだけれど、アキレアはサンカルーナがとにかく苦手だ。
主人であるストレリチアがお兄様と呼び慕う彼は、常に穏やかそうな笑顔を浮かべているけれど、それが何だかとても鼻につくし、アキレアがどんなに不快そうな顔をしていても、彼はその表情を崩した事はない。
勿論、王族である彼に逆らえばどんな仕打ちが待っているのかも知ってはいるけれど、それでも、アキレアは彼の前に立つ時、自然と眉を寄せて視線を逸らしてしまう。
「小鳥、私はストレリチアと話があるから、その間、ティニーユーと一緒に街へ行っておいで」
そうやって人の事を小鳥と呼ぶ事さえ気に触る。
そう呼んでいいのは姫様だけなのに、とアキレアは思わず青眼をきゅうと細めてしまう。
「ですが、」
「ストレリチアが外の話を聞きたがっているのは知っているだろう? 是非聞かせてやっておくれ」
その言葉に反感を覚えて、アキレアは唇を噛み締めて、睨みつけるように彼へ視線を向けた。
所詮従者であるアキレアには反抗など許されず、ただ命令をすれば幾らでも言う事を聞かせる事が出来る筈なのに、彼はわざわざこうしてお願いをするかのように言ってみせるのだ。
そうした所が余計に気に食わないのだ、とアキレアがあからさまに態度に出してみても、やはり彼が笑顔を崩す事はない。
「失礼ながら、俺の主人は姫様です。姫様が命じない事には従うつもりはありません」
そう言ってなおも引き下がろうとしないアキレアに、サンカルーナの側にいるティニーユーは顔を真っ青にさせて、止めろと言わんばかりに何度も首を振っている。
二人の間に立ち、その表情を交互に見ていたストレリチアは困ったように眉を寄せていて、お兄様にまでそう警戒しなくていいのよ、とでも言いたげにしているけれど、それを手で制したのはサンカルーナだ。
「それでいい」
そう言って、彼は静かに頷いてみせた。
「お前はたとえ私であっても、決して警戒を怠ってはいけないよ。お前の言う通り、お前の主人はストレリチアただひとり。それを忘れてはいけない」
言い聞かせるような、落ち着いていて、穏やかな低い声。
まるで苛立っている自分がただの子供のように思えて、アキレアは思わず吐き捨てるように息を吐き、視線を俯かせた。
「重々承知しております、サンカルーナ様」
「よろしい」
満足げに笑って頷くサンカルーナの様子に、ティニーユーはほっと胸を撫で下ろし、二人の様子を心配そうに見つめていたらしいストレリチアは、密やかにアキレアの名前を呼ぶと、ことりと頭を傾けている。
新緑色の髪が動作に合わせて揺れ、その動きにつられるように見つめたアキレアは、嗜められている気持ちになって、ふい、と顔を背けてしまった。
どうせ自分は何も出来ない子供なのは確かだし、と不貞腐れた気持ちになって部屋の扉の前に足を向けると、サンカルーナから金貨を手渡されたティニーユーが嬉しそうに笑顔を向けて頭を下げている。
すっかり飼い慣らされてるじゃないか、と鼻白んでいると、自分にだけしか届かない空気の震えに気付いて、アキレアは眼を瞬かせた。
『お土産を忘れずに。気をつけてね』
振り返ると、ストレリチアは口元に手を当てて柔らかく笑っているので、アキレアは困ったように眉を下げて「姫様がそう仰るのであれば」と笑って頷いた。
*
方舟に乗って空中庭園を出て、王城から街へと入った所で、ぷは、と大袈裟に息を吐き出したのはティニーユーだ。
彼は身寄りがなく、街の片隅で朽ち果てようとしていた所を偶然視察に出ていたサンカルーナに拾われて以来、小間使いとして側に置かれているらしい。
同じような境遇からか、それとも年齢が近いせいか、サンカルーナはこうして二人が共に街へ行かせる事が多く、アキレアとしても、互いの近況を話し、冗談を言い合える程度には仲良くなっているので、嫌な気分にはならない。
「お前、よくあのお方にあんな事を言えるなあ」
石畳の道を歩きながら、ティニーユーはそう言って肩を竦めた。
サンカルーナを慕っていながら、それでもこうして心酔しない辺りが上手く世渡り出来る秘訣なのだろうか、と深く被った帽子で羽耳を隠しながらアキレアは考えて、ふんと鼻を鳴らした。
城の中でならば王族の道楽で買われた者と見なされ放っておかれていようと、街の中では自身の真っ赤な髪や羽耳といった容姿は目立ってしまい、奇異の視線に晒される。
また人買いの類に攫われるのなどもっての外であるので、気をつけておかなければならないのだ。
「俺の主人はあの人なんかじゃない。姫様だけだ」
「普通、そんな事を言ったら首が飛ぶぞ」
「あの人はそんな事しないよ」
正確には、そんな事をしたくても出来ない、のだろうけれど、とアキレアはその言葉を口の中だけで転がした。
アキレアがストレリチアの声の代わりをしている事は、王族以外に知られてはならない。
ティニーユーでさえ知らされていない事に、ほっとしたような残念のような不思議な気持ちになって、それが今更、ストレリチアが抱えている罪悪感の一端だと理解してしまって、アキレアは深く長く息を吐き出した。
大体、サンカルーアと会った後、ストレリチアは酷く落ち込んでいる事が多いのだ。
一体何を話しているのか、彼女は絶対に教えてはくれないし、それを追求する事すら許さない。
それどころか、「それをあなたに言うくらいなら、この場で舌を噛み切るわ。今すぐにでも」とまで言われている。
たおやかで儚げな印象を持たれているストレリチアの、その苛烈な一面を知っているだけに、何も言えずにいるアキレアは余計にもどかしさや悔しさがが募ってしまう。
姫様は、自分の罪悪感を少しだって分けようとはしないんだ。
それが、悔しくて、悲しくて、堪らない。
「約束は一時間だけど、どうする?」
ティニーユーは言いながら、そばかすの浮いた鼻先をひくひくと動かしている。
城を出て少し行った所にある、中央通りに並ぶ飲食店から届いてくる香りは、甘いのや香ばしいのや様々で、そのどれもが食欲を誘うものだ。
呑気そうなその様子にすっかり毒気を抜かれてしまい、アキレアは大きく息を吐き出すと、帽子越しに耳をそばだてる。
振り向いた先にははちみつ色の石造りの建物が続くだけだが、城からずっと後をついてくる足音がしている。
逃げるつもりなど更々ないのに、こうして見張りを付けられるのは、ストレリチアの声の代わりがいなくなったら困るからだろう。
けれど、アキレアにとってそんな事は瑣末な問題であって、自分が自由でない事に、今更不満などありはしないのだ。
だって、どうせこれ以上の何処にも行けはしないのだから。
彼女は、そんな自分であっても、何処でも行ける力があるのだ、と言ってくれていた、けれど。
「まずは姫様へのお土産を調達しないと」
後ろの見張りにまで声が届くよう、はっきりと言えば、ティニーユーはぱっと顔を輝かせている。
「それなら、最近若い女の子達の間で流行ってるお菓子があるんだ。そこに行ってみようよ!」
「うん」
空中庭園から一度も出る事が叶わないストレリチアが、賑やかな街の様子を知りたがっているのも確かなことだ。
アキレアは息を吐き出すと、はしゃぐティニーユーの後ろを追いかけていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます