第243話 有馬記念後の北川ファミリーと十勝川

 一般指定席で有馬記念を観戦していた桜花は、真剣な眼差しで電光掲示板を見つめていた。そして、何やらブツブツと呟いているのが横にいる恵美子に迄聞こえて来る。


「勝ったよね? 勝ったよね? 勝ったはず? 最後まで頑張ったし、トッコ勝ったよね」


 その様子を横で呆れた様な、どこか諦めた様な、何とも言えない眼差しで眺めている恵美子は、視線を桜花とは反対の方向へと向けて又もや小さく溜息を吐く。


 早く決まってくれないかしら?


 もはや勝敗よりも周囲の視線を気にする恵美子であるが、そんな恵美子の思いを思いっきり裏切る様に桜花の叫び声が周囲に響き渡る。


「うっきゃ~~~! やった! お母さんやったよ! トッコが勝ったよ! お母さん! トッコが勝った!」


 電光掲示板の1着に16番の番号が表示された瞬間、桜花は溜め込んだエネルギーを爆発させるように立ち上がって大騒ぎである。


「こら、桜花! ちょっと静かにしなさい! 判ったから! ほら、ちょっと!」


 真横の席に座っている母の恵美子は、桜花の腕を引っ張りながらやはり一般指定席にして良かったと内心で安堵する。


「お母さん、駄目だよ! もっと喜ばないと! トッコの引退レースなんだよ! GⅠ10勝なんだよ! 有馬記念連覇だよ! グランプリレース4連勝だよ!」


 まさにテンションマックス! もはや無敵状態の桜花に対し、恵美子は溜息を吐きながらボソリと呟く。


「お小遣い減額するわよ?」


「い、いいもん! トッコの引退レースだもん! 喜んであげなきゃ、あ、トッコ~~~! おめでとう~~~~! 頑張った、頑張ったね~~~! 鈴村さんありがとう~~~!」


 伝家の宝刀何のその、観客席の前へとやって来たミナミベレディーと鈴村騎手に桜花は大声で声をかけるが、その声も周囲の歓声に打ち消されている。


「はあ、まあ、最後だし仕方が無いわね」


 この後の表彰式、そして引退式までこの子は体力が持つのかしらと思いながら、反対の席に座る夫の峰尾へと視線を向けて又もや溜息が出そうになる。


「なあ、どうだ? ちょっと騒がしいっぽいがレースは終わったのか?」


 恵美子の視線の先には、座席に座りながらもアイマスクをつけ、耳栓を填めた夫がいる。


「貴方、終わりましたよ」


 夫の腕を取って数回揺らすと、漸く夫がアイマスクと耳栓を外した。


「おお、それで、どうなった。トッコとヒヨリは勝ったのか?」


 今回の有馬記念は何と言ってもミナミベレディーの引退式を控えている。それ故にミナミベレディーが勝とうが負けようがレース後には式典が行われる。しかも、もしミナミベレディーかサクラヒヨリがこの有馬記念を勝てば表彰式だってあるのだ。


「俺はレース結果だけ判ればいいんだがなあ」


 トッコの引退レースへ向け桜花が盛り上がっている中、思わず峰尾がつぶやいたこの一言。それを聞いていた恵美子と桜花が、何時も胃痛で倒れる峰尾に対しレースを見せずに結果のみを知らせるという決断をしたのだった。


「もうレースは終わりましたよ。ほら、見てください」


 電光掲示板に輝く1着16番。そして、眼下では挨拶をしているミナミベレディーの姿がある。その姿を見た峰尾は、思わず顔をクシャリと歪ませる。


「そっか、トッコが勝ったのか。よかったな、本当に良かった」


 目に涙を溜めてミナミベレディーの姿を見る峰尾の姿に、呆れ顔から一変、知らず知らずに恵美子の顔にも微笑みが浮かんでくる。


「初のGⅠ表彰式ですね。いっつも出たくても出れていませんでしたし、良かったわ」


「お、おう! そうか、ベレディーの表彰式か!」


 峰尾は思わず驚きの声をあげると共に、若干顔を引き攣らせる。


「ええ、ベレディー最後のレースですよ。生産牧場の責任者なんですから、堂々としていてくださいね」


「お、おお、任せろ!」


 大観衆の中で、しかも、有馬記念の表彰式。思わず胃の当たりを手で押さえている峰尾の姿に、恵美子は全然任せられないわと思いながらも今度は未だに騒いでいる桜花へと声をかける。


「ほら、桜花も移動するわよ。表彰式があるでしょ」


「うえ? あ、うん! 判った」


 検量室へと去っていくミナミベレディーの後ろ姿に大きく手を振り続けていた桜花だが、漸く此処で正気に返る。


「ほら、二人とも行くわよ」


「うん、と、ところでお母さん、お小遣いは? 本当に減る?」


 恐る恐るお伺いを立てる桜花に返事をする事無く、恵美子は澄まし顔で立ち上がって表彰式へと向かおうとする。すると、今度は一般指定席で観戦していた観客達から一斉に祝福の声が掛かった。


「ミナミベレディー、GⅠ10勝おめでと~!」


「桜花ちゃんおめでとう!」


「ベレディー、勝利おめでとう~~!」


「北川牧場さん、応援しているからね!」


 次々にかけられる声に対し、恵美子は吃驚しながらも慌てて会釈をする。桜花もペコペコとお辞儀をして祝福の輪を通り抜けて行く。その後を少し遅れて付いて来る峰尾には、何故か祝福の声が掛からない。


「お、俺は?」


 峰尾は胃のあたりを擦りながら、何か承服できない表情で前を行く二人を追いかけて行くのだった。


◆◆◆


 十勝川は馬主席でジッとミナミベレディーのウイニングランを見詰めていた。


 ミナミベレディー最後のレース。そして、この有馬記念は同じく引退するトカチマジックにとっても最後のレースであった。

 十勝川としては、何とか此処でミナミベレディーを抑え勝利を迎えて欲しい。この後に続く種牡馬としての未来をより明るくして欲しいと願ってはいたが、ハナ差でその勝利を逃す事となった。


「そう思い通りにはいかないものね。競馬は本当に難しいわ」


 トカチマジックはダービー馬であり、安田記念を勝利し更には大阪杯を連覇、GⅠ4勝ながら天皇賞秋など多くのGⅠで2着と実力を示してはいる。特に昨年の大阪杯ではタンポポチャを抑えての勝利。GⅡではあるが金鯱賞ではミナミベレディーを抑えて勝利もしている。


 ただ、ミナミベレディーとのGⅠ直接対決では、悔しい事に悉く敗れ去っていた。トカチマジックの所有馬主としては、それ故に何とも言えない思いがある。


「まあ、ミナミベレディーが無事に引退出来た事は僥倖よね。何時故障してしまうのか心配しか無かったもの。それでも、GⅠ10勝は凄いわねえ。やっぱりチューブキングの血かしら?」


 十勝川の世代としては、やはりチューブキングの血が入っているだけで色々と不安を感じてしまう。奇跡の復活と語り継がれながらも、誰もがもし故障しなかったら、そんな思いが常に付きまとう。それ故にミナミベレディーが無事に引退出来た事で、関係ないながらも何となく肩の荷が下りた様な気すらしてくるのだ。


「でも問題は此処からよね。まずはミナミベレディーへの種付け権を獲得しないと、獲得できてもそれはそれで難しいのだけど」


 北川牧場と交流する機会が増えたからこそ、ミナミベレディーの気難しさを知る事となる。それ故に、容易にミナミベレディーが種付けを受け入れるかどうかは判らない。種付けは中々に危険な事が多く、場合によってはパニックを起こしたり、激怒した牝馬によって種牡馬が怪我を負い、最悪は死亡した事すらある。


「そもそも、発情するか判らないって恵美子さんが言ってたわねえ。ほんと規格外の馬ね。上がり馬だし、そう考えると今年は諦めた方が良いわよね」


 競走馬を引退したばかりの牝馬は、初めての交配に恐怖を覚え暴れるケースが割とある。その為、種牡馬としても経験のあるベテランの馬が選ばれる事が多い。


 多くの競馬関係者、競馬ファンの中で早くもミナミベレディー産駒への期待が膨らんでいるが、北川牧場では1年目に種付けできるかは五分五分と言っていたのを思い出す。


「ライトコントロールで排卵の誘発をする予定なんですけど、トッコは明るさに関係なくグーグーと寝そうですから。場合によっては寝藁に顔を突っ込みそうなんです」


 そう言って笑っていた恵美子の印象が強い。


「まずは今いる幼駒と、次のサクラハキレイ血統の産駒に期待かしら?」


 今年生まれたサクラハキレイ血統の幼駒は、今現在も北川牧場で育成されている。そして、4頭共に牝馬である事から引退後のミナミベレディーと同じ場所で放牧される事となる。その事から十勝川としては4頭の幼駒達が育成牧場へと移動するまでの間に、どれだけミナミベレディーから良い影響を受けてくれるかにも期待していた。


「最初の年は、ミナミベレディーが他の幼駒達へどうやって走り方を伝えるかに注目するべき? あと、うちの牝馬も一緒にしたいわね。流石に無理かしら?」


 そう言いながらも、心の何処かでミナミベレディーの産駒へと期待してしまう自分がいる。


「はあ、儘ならないものねぇ」


 すべては自分の頭の中での想定でしかない。そして、競馬に携わる者として想定通りに行く事などまず無い事を実感しているだけにミナミベレディーが無事に引退を迎えても心配事だらけであった。


「タンポポチャの兄弟も候補に入れていた方が良いかしら? タンポポチャはその逆で上手く行ったのだから、当て馬候補としても悪くは無いのよね?」


 レースは既に終わりミナミベレディーの表彰式が間もなく始まろうとしているのだが、十勝川は馬主席に座ったまま今後の方向性を考えているのだった。

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