第241話 有馬記念 直後
電光掲示板の1着に16番が点灯した。ゴールを駆け抜けた時も、勝てた手応えを感じ取る事が出来なかった鈴村騎手は、歩みを止めたミナミベレディーの鞍上でじっと電光掲示板を注視していたのだ。
「勝った、勝てた! やったよ! ベレディー、がったよ!」
「ブルルルン」(うん、勝てた~)
ゴール前で何とかヒヨリに負けないようにと思って頑張ったけど、ストーカーさんが出て来て吃驚したんです。でも、何かあっちのお馬さんも私を見て吃驚した? 一瞬目があった気がしたんですよね。
でも、無事に勝てて良かった? 良く考えたら引退レースでしたよ。すっかり忘れていましたけど。
「ぐす、か、勝てて、良かったよ」
「ブフフフン」(ストーカーさんがいて吃驚したよね)
さっきから鈴村さんはグスグスと泣いています。うん、何時もだと大喜びするんですけど、今日は何時もと違いますね。私は鞍上の鈴村さんを見る為に頭をぐにっと上げてみました。
「ブヒヒヒン」(鈴村さん大丈夫?)
何かゴーグルを上げて袖でお顔をゴシゴシしていますけど、そもそも泥? 土? でお顔が汚れているからあんまり綺麗になっていないですよ。
「ご、ごめんね。ベレディー、ウイニングランしようか、大丈夫? 何処もいたくない? 出来る?」
「ブフフフン」(疲れてるけど、何処もいたくは無いですよ?)
足をちょこちょこ上げ下げして、状態を確認します。うん、今は大丈夫っぽいですが、明日はやっぱり筋肉痛になりそうな怠さはあります。
「よし、良く考えたらベレディーとウイニングランって初めてだね」
「ブヒヒヒン」(う~んと、観客席へ走れば良いの?)
鈴村さんに手綱をチョンチョンされて、観客席の前へと導かれました。
「ブルルルン」(凄い人ですね)
良く考えたら、今まではレースが終わったらタンポポチャさんやヒヨリとハムハムしていて観客席? の前に来ることは無かったですね。ただ、何か凄い歓声です。
一つ一つの言葉が全然聞き取れません。もう、うわ~~~っていう声の唸りみたいな感じですね。
そんな声の中を、トコトコと小走りに観客席の前を通って途中で立ち止まります。
「ベレディーーー!!!」
「鈴村騎手~~~~!」
「GⅠ10勝おめでとう~~~!」
「ベレディー、引退しないで~~~~!」
大勢の人が叫んでいて、まったく何を言っているのかよく聞き取れません。お馬さんのお耳は優秀なんですが、そのせいで全体的に音がワアワア言っている感じに聞こえちゃいます。
凄い人ですね。ギュウギュウ詰め? 何か気温が低いせいで湯気が立って見えませんか? こんな中に桜花ちゃんが居るのかなあ? 潰れちゃいそうだなあ。そう思って見渡すんですが、人人人で全然判りません。
「ありがとうございました」
さっきから鈴村さんが観客の人達にお礼を言っています。応援してくれたのかな? 良く判んないですけど。
「ブフフフン」(ピョンピョンダンスした方が良い?)
ちょっと疲れているので、やりたくは無いんですが応援してくれたなら踊るよ?
そう思って鈴村さんに尋ねるんですが、鈴村さんが手綱を引きました。
「うん、ベレディー、戻ろうか」
「ブルルルン」(良く判んないけどいいよ?)
鈴村さんの指示に従って今度は検量室へと向かいます。すると、検量室の前ではヒヨリが何かご機嫌斜めで私を待ってますね。
「キュフフフン」
「ブフフフフン」(ヒヨリ、どうしたのですか?)
「ヒヨリ、ちょっと待て! こら! 待てって」
私が近づいていくと、引綱を持ったおじさんを引き摺る様にしてヒヨリがこっちにやって来ます。うん、おじさんが引綱を引っ張っていますが駄目そうです。
「レース後のグルーミングが出来ていませんから、グルーミングしたいのかな?」
鈴村さんは私から下馬すると、うちの厩務員さんがやって来て私に引綱をつけました。
「ベレディー、この後は表彰式だからな。程々で切り上げてくれよ?」
「ブヒヒヒン」(私に言われても困ると思いますよ?)
そもそも、私の意思でハムハムを終了出来た記憶がないですよね。
「蠣崎さん、あとはお願いします」
「鈴村騎手、お疲れさまでした。引退レースで無事に勝利できて、本当にありがとうございます」
「勝ててホッとしました。最後は順位が確定するまでヒヤヒヤしましたけど、ベレディーのレースは何時もこんな感じなので」
何やら鈴村さんが失礼な事を言っています? ただ、鈴村さんは私から外した鞍を手に検量へと向かっちゃいました。
ハムハムハム
鈴村さんの後ろ姿を眺めていたら、ヒヨリが私の所まで来てハムハムし始めました。仕方が無いので私もヒヨリをハムハムしてあげます。
ただ、ヒヨリは後でお説教ですよ? あんなレースをしたら怪我しちゃいますからね。今後の事も考えて、心を鬼にして怒らないとなのです!
ハムハムハムハム
何となくヒヨリも私が怒っている事に気が付いているのか、私の目を見ずにハムハムしています。
「ブヒヒヒヒン」(ヒヨリ、無理したら怪我しちゃうのですよ?)
ハムハムハム
「ブルルルルン」(怪我したらお肉街道ですよ? 判ってますか?)
「キュフン」
どうやら、悪い事をしたと言う事には気が付いているみたいです。でも、この様子だと帰りの車の中でもキチンと言い聞かせないと駄目そうですね。何と言っても無理をして怪我をしちゃったら終わりですもんね。
◆◆◆
ミナミベレディーから下馬した香織は、引綱を手にする蠣崎調教助手に会釈をすると外した鞍を手にして検量へと向かう。その間にも、周囲から祝福の声が掛かる。
「鈴村騎手、おめでとう!」
「有馬記念連覇、おめでとう!」
騎手仲間だけでなく、その場に居る競馬関係者からも途切れなく祝福の声が掛けられる。その声に香織はペコペコとお辞儀をしながら検量を受ける。
「はい、問題ありません。お疲れさまでした。そして、おめでとうございます」
「あ、ありがとうございます」
係員に迄祝福の声を掛けて貰いながら、香織は騎手控室へと向かい騎乗服を着替える。その後、騎手控室に設置されているウォーターサーバーから冷たく冷えた水を汲み、ゆっくりと飲み干して行く。
はあ、漸く一息ついたかな?
この後には表彰式と引退式が待ち受けているとはいえ、研ぎ澄まされていた緊張の糸がプッツリと切れたような気もする。ゆっくりと椅子へと腰掛、大きく息を吐く。
「鈴村騎手、おめでとう。いやあ、サクラヒヨリが掛かるとは思っていなかったよ。ミナミベレディーの御蔭で勝ち負けには絡めたけど、やっぱり難しい馬だね。最後にミナミベレディーが勝ち切ったのも騎手と馬との絆の差かな」
香織が一息つくのを待ち構えていたかの様に鷹騎手が声をかけて来る。鷹騎手も明らかに疲れた様子であるが、表情には笑顔を浮かべている。
「ありがとうございます。勝ててホッとしていますが、私も向こう正面でベレディーがスパートした時には焦りました。勝てたのはベレディーが最後まで頑張ってくれた御蔭だと思います」
レース自体は結果が示すように正にハナ一つの差だった。あと少し距離があればトカチマジックが勝っただろうし、短ければこれもまた結果は違ったかもしれない。ただ、それも全てはタラレバの話であり、実際に距離が違えばレース自体も変わって来る。
「あわよくばサクラヒヨリで勝利を飾って主戦騎手を鈴村騎手から奪おうと思ったんだがなあ」
本気か冗談か判らない調子でそう告げる鷹騎手であったが、もしここでサクラヒヨリが勝っていたなら実際に有り得た未来だったかもしれない。
「ヒヨリはちょっとプリンセスフラウに対抗心を持ってますから、ついつい競り合っちゃったんですね。私が騎乗していても掛かったかもしれません」
「しまったなあ、その情報は無かったよ」
香織の言葉に苦笑を浮かべる鷹騎手である。そんな鷹騎手へ軽くお辞儀をすると、香織は急いで勝利騎手インタビューへと向かった。
「鈴村騎手、まずはミナミベレディーの勝利おめでとうございます!」
「ありがとうございます。道中ヒヤッとした所もあったのですが、無事に勝ててホッとしています」
レースを振り返っても、16番と大外枠であり有馬記念で勝利するには厳しい条件であった。その中で可能な限り最適なレース展開へと持ち込めるように香織としては騎乗していたのだが、何と言っても向こう正面でのミナミベレディーの暴走には驚かされた。
「向こう正面の直線では、ミナミベレディーが掛かっていたように見えたのですが、騎乗していた鈴村騎手としてはどの様な状況だったのでしょう?」
レースを見ていた人達なら皆が気になる所だろうなあ。
そう思いながら、香織は素直に騎乗していた時の感想を述べる。
「あれは、ベレディーが掛かっていたというより、サクラヒヨリを落ち着かせる為にベレディーが前に出たような気がします。実際に、サクラヒヨリが息を入れた途端にベレディーも速度を落としましたから。恐らくですが、サクラヒヨリが怪我などをする事を気にしたんだと。ただ手綱を引いてもスピードを落としてくれなかったときは焦りました」
苦笑をうかべて答える香織であるが、あの時は実際に一瞬パニックになりかけた。もっとも、ミナミベレディーがその後に息を入れてからは、最後の直線でのスタミナなどを考慮し、勝ち筋を見つけようと必死に思考を巡らしていたのだが。
「通常はスローペースになり易い有馬記念ですが、今年はコースレコードに僅か0.1秒というハイペースな展開になりました。後続馬の末脚を向こう正面で使わせた事も大きいのでは?」
「レース前にイメージしていない展開になったので、ベレディーが最後まで本当に頑張ってくれたと思います。ただ、何と言ってもベレディーの引退レースです。しかも記録ずくめのレースなので、無事に勝ててホッとしました」
嘘偽りなく安堵の笑みを浮かべる鈴村騎手に、周りにいる人達からも笑い声が上がる。
「惜しまれながらも引退するミナミベレディーですが、主戦騎手として騎乗されてきた鈴村騎手から最後にファンに一言頂けますか?」
「えっと、ミナミベレディーは引退となりますが、ベレディーの産駒が数年後にはデビューする事になると思います。その際には、ぜひ応援を宜しくお願い致します」
ぺこりと大きくお辞儀をする香織に、周りから一斉に祝福の拍手が浴びせられる。
「見事に有馬記念を連覇し、有終の美を飾りましたミナミベレディー、そして見事な騎乗を見せてくれました鈴村騎手の勝利者インタビューでした。ありがとうございました」
無事に苦手なインタビューを終えた香織は、今度は表彰式へと駆け足で向かう。その途中で香織を待ち構えていたのだろう、パタパタと手を振る美佳の姿があった。
「香織ちゃんおめでと~~! やったね! 記録ずくめだね!」
「ありがとう。でも、表彰式があるから急がないと。歩きながらでいい?」
「全然問題無いよ! この後にあるミナミベレディーの引退式で司会をさせて貰えるし、私のメインはそこだからね!」
美佳は持ち得るコネを最大限に利用して、ミナミベレディー引退式の司会をもぎ取っていた。
「ベレディーの引退式にはヒヨリも一緒に出るんでしょ? 大丈夫かなあ」
タンポポチャの引退式の時のように、大南辺は仲の良いサクラヒヨリを引退式に連れ立って登場させる事にした。もっとも、同じ有馬記念を走っているが故に同じ競馬場にいると言うのが理由の一つではあるが。
「香織ちゃんは、感極まって泣かないように気をつけないとだね。大南辺さんは大泣きしそうだけど」
笑いながら美佳が揶揄うが、香織も大南辺は泣くだろうなと思う。そして、自分はと言うと既に一泣きしている為、笑い飛ばす事が出来ない。
「まずは表彰式よ。でも、本当に勝ててホッとした。走り終わってから、改めてズンって胃に来たわ。出走前は其処迄意識してないつもりだったんだけどな」
そう言って苦笑いをする香織を見て、美佳も同様に苦笑を浮かべる。
「何と言っても最後のレースだし。実はレース前にテンパらないか心配してたんだよね。よし、では引退式でね」
「ええ、貴方こそ司会なのに泣かないでね?」
「うわ~~~、ありそう」
そう言って笑う美佳に小さく手を振って、香織は駆け足で表彰台へと向かうのだった。
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