第161話 サクラフィナーレと桜花賞 前編

 阪神競馬場で行われる3歳牝馬限定、GⅠ桜花賞が間もなく開催されようとしていた。


 第9レースに出走したプリンセスミカミが無事に忘れな草賞を勝利したのだが、桜花賞を出走するサクラフィナーレに騎乗する長内騎手にとっては、同じサクラハキレイ血統と言う事で逆にプレッシャーが掛かる事となる。


「こっちはGⅠなんだ。比べるのが可笑しいよな。ただ、ミナミベレディーもサクラヒヨリも勝利している・・・・・・」


 まずは桜花賞へ出走出来た事を喜びはした。武藤厩舎としては掲示板内に入ればという依頼であったが、長内騎手としては勿論数少ないチャンスを物にして、GⅠ初勝利を狙っている。


「桜花賞で3着までに入れば、オークス出走も出来る」


 サクラフィナーレの適距離としては、やはり芝2000m以上だろう。そして、3歳牝馬GⅠを考えると、狙い処はやはり芝2400mのオークスだと考えている。


「もっとも、サクラハキレイ産駒は雨が苦手だからなあ」


 今までずっとサクラヒヨリ、サクラフィナーレと調教をしてきた長内騎手であるからこそ、サクラハキレイ産駒の血統の欠点も理解していた。


「フィナーレ、今日の調子は良さそうだな」


 パドックを周回するサクラフィナーレを見て、ここ最近のレースと比較しても今日のサクラフィナーレの状態は非常に良いように感じた。


「止ま~~~れ~~」


 パドックで馬の停止が合図され、一列に並んでいた騎手達が一斉に各自の騎乗予定の馬へと歩み寄る。長内騎手も小走りにサクラフィナーレへと駆け寄り声を掛ける。


「どうだ、フィナーレ。ご機嫌っぽいな」


「キュフフフン」


 気分屋な所のあるサクラフィナーレだが、これであれば今日は何とか勝ち負けに絡めるかと、長内騎手は少し安堵した。


「先日、プリンセスミカミと併せ馬をしてから調子を上げて来ましたよ」


 武藤厩舎の調教助手兼サクラフィナーレの担当厩務員は、そう言って笑顔を浮かべる。


 自分が担当する馬がレースを勝てば通常賞金の5パーセントが、担当厩務員に支払われる。厩舎によって5%そのまま貰えるかは若干ルールに違いがあるが、担当する馬がレースで賞金を稼ぐか稼がないかは、厩務員にとって大きい問題となる。

 この為、世知辛い事ではあるが、それもあって厩務員はお手馬に細心の注意を払って世話をするという現実もある。


「サクラハヒカリの血統は、一族で仲が良いのですかね」


「どうなんだろうね? うちのテキから聞いた話だと、ミナミベレディーは母馬であるサクラハキレイと今一つ相性が悪いそうだよ」


「キュヒヒヒン」


 雑談の中にミナミベレディーの名前が出て来たからなのか、それともサクラハキレイの名前が出て来たからなのか、この時、まるで返事を返すかのようにサクラフィナーレが嘶いた。


「よし、これからレースだぞ」


 長内騎手はサクラフィナーレの首を優しく撫で、厩務員の補助を受けてサクラフィナーレへと騎乗する。そして、高くなった視線の先には、恐らく今日のレースで最大の壁となるであろうライントレースの姿があった。


「あっちも状態は良さそうだな。騎手も蟹江さんだしなあ」


 蟹江騎手はリーディング上位の常連であり、GⅠ通算勝利数も12勝。そんな蟹江騎手は秋華賞の勝利はあっても、未だに桜花賞とオークスの勝利は無い。それ故に気合が入っているであろうし、そもそもこの時期の3歳馬は、まだレースを理解しきれていない馬も多く、実力通りのレースが行えるかが重要なポイントとなってくる。


 そして、そんな長内騎手も通算勝利数523勝、重賞勝利数はGⅢ、GⅡ併せて33勝、昨年度のみの勝利数としては26勝、内2勝が重賞勝利だ。リーディングも40位台を常連としてはいる。そんな長内騎手であっても、未だGⅠ勝利数は0だった。


 それ故に、今回の桜花賞への意気込みは強い。一昨年に騎乗させて貰ったサクラヒヨリでは思うような結果が出せず、乗り替わり後にまさかの桜花賞と秋華賞の勝利。


 当初の乗り替わりとなった時は、所詮は良くてGⅢを勝てるかどうかくらいの馬だと嘯いていた。


 鷹騎手が惨敗した時には、ほら見ろという思いで自分を納得させていた。


 それが、自分より劣ると思っていた鈴村騎手が騎乗して、初レースでまさかの共同通信杯勝利。そして、運命の桜花賞勝利と、その後の秋華賞勝利。その2回の勝利は、決してサクラヒヨリが運だけでGⅠをたまたま勝てた訳では無い事を証明していた。


 長内騎手にとって、それは今まで築いた自信の根底を揺るがすほどの衝撃を与えた。


「フィナーレ、勝ちたいよなあ。思いっきり姉達に自慢したいだろ?」


「キュフフン」


 何を言われたのか理解していないながらも、長内騎手にサクラフィナーレは返事を返す。


 そんなサクラフィナーレの様子に、長内騎手は又もや笑いが込み上げてくる。


「頼みますよ。思いっきり期待しています」


「ああ、最高の騎乗をしてみせるよ」


 サクラフィナーレの引綱を引く厩務員にそう返事を返しながら、サクラフィナーレの様子を、調子をしっかりと確認していく。


「マジで良い感じで集中してますね」


「ええ、やはりプリンセスミカミとの併せ馬の効果かと。残念ながらヒヨリとの併せ馬は出来ませんでしたが、良い感じにレースを意識したみたいです」


 本馬場へと向かいながら、厩務員と幾つか言葉を交わし最後に引綱を外される。


「後は頼みます」


 長内騎手は厩務員の言葉に頷くだけで、言葉を返すことなく本馬場へと入り返し馬を行う。


 そんな中で、自分とサクラフィナーレを取り巻く状況が頭をよぎる。


 自分は、GⅠ初勝利出来るかもしれない馬に騎乗している。もしサクラフィナーレで勝利すれば、3姉妹での桜花賞連続優勝。


 震えが来るほどのプレッシャーだよな。


「それでもさ、サクラヒヨリのGⅠ勝利を見た時ほどじゃない」


「キュフフフン」


 サクラヒヨリの名前に反応してか、サクラフィナーレが嘶く。


 長内騎手は大声で叫びだしたくなる程のプレッシャーを必死で抑え、未だに震える手でサクラフィナーレを宥める為に、首をトントンと叩いた。


「フィナーレ、お前の鞍上を任されたからさ」


 桜花賞、サクラハキレイ産駒、ゲンを担ぐ意味でも、周囲は、競馬ファンは、鈴村騎手への乗り替わりなどを期待していた。そんな中で武藤調教師も、桜川さんも、自分を信頼してサクラフィナーレを任せてくれた。


「さあ、みんなの期待に応えるぞ」


 確かにサクラフィナーレは難しい馬だ。気分屋で、まだまだ精神的にも肉体的にも幼い。


 それでも、かつてのサクラヒヨリに騎乗した時の様に、サクラフィナーレの能力を疑う事はしない。サクラフィナーレなら勝てると信じ、その力は最大限出せるように考える。その為には、鈴村騎手にだって頭を下げて教えを乞うてきた。


 もっとも、ミナミベレディーの嘶きはともかく、あのミナミベレディーやサクラヒヨリが勝った桜花賞の映像をサクラフィナーレに見せるとか、真面目に意味の分からないものもあったのだが。


「お前の姉達の様に勝ちに行こう」


 長内騎手の思いが伝わっているのかいないのか、サクラフィナーレはご機嫌に尻尾を振りながらゲート前の待機所へと向かうのだった。


◆◆◆


 パドックの映像を見ていた香織は、サクラフィナーレの調子が良さそうな事に笑みが浮かぶ。


 香織は、桜花賞の裏開催ともいえる中山競馬場で、この週末に4鞍の騎乗依頼を貰っていた。そして、土曜日に4歳以上1勝クラスで、日曜日の今日は3歳未勝利戦で共に勝利を挙げ今年の勝利数を14勝としていた。


 そんな香織は、すでに本日の騎乗を終えている。その為、騎手控室の外にあるモニターで、桜花賞の観戦をしていた。


「良い感じだな。まるで、ベレディーを見ているみたい」


 パドックを回るサクラフィナーレは、ミナミベレディーと比べれば、まだまだ線が細いように見える。ただ、ミナミベレディーを初めて見た時の姿が思い出されるくらいには、姉妹だけあって似ているような気もした。


 そんな風にモニターに見入っていた香織に、馬見調教師が声を掛けて来た。本日騎乗した3歳未勝利馬は、馬見厩舎の預託馬であった。


 この為、馬見調教師も中山競馬場に来ていたのだった。


「鈴村騎手、改めて今日はお疲れさまでした。御蔭でアシタカオルもどうにか未勝利を脱出です。オーナーの野村さんも馬の名前をアシタカオルではなくキョウカオルにすれば良かったかと悩んでいましたから、今回の勝利には大喜びされていました。表彰式の後の打ち合わせで、ぜひ次走も鈴村騎手に騎乗をお願いしますとの事です」


「あ、ありがとうございます! 日程が合えばぜひ」


 馬見調教師の言葉に喜びながら、即答できないのは1勝馬、2勝馬で主戦となっている馬が多い為に、レースが被る可能性があったからだった。


「そこは此方でも出来る限り調整させて貰いますよ。アシタカオルは先行馬ですから、鈴村騎手とも相性が良さそうです」


「ご期待に沿えるように頑張ります」


 馬見調教師に笑って答えながらも、ついつい視線は桜花賞の映像へと向いてしまう。


「ははは、やはり気になりますか」


「はい、ミナミベレディーとサクラヒヨリの妹ですから、可能であれば騎乗してみたかったと言うのが本音です。長内騎手も必死に頑張ってみえましたし、後輩の私がどうこう言う事では無いんですけど」


「サクラフィナーレは、サクラヒヨリよりベレディーに似ていますからね」


「あ、馬見調教師もやっぱりそう思いますか? ただ、ベレディーほど最後の必死さが無いんですよね。そこが心配です」


 香織と同様の印象を馬見調教師が持っている事で、やはりサクラフィナーレはミナミベレディーに似ているのだと改めて納得する。


「まあ、1レース毎に体調を崩すところなども似ているが、それ故に限界まで走らないのだろうなぁ」


 武藤厩舎に出入りしている香織は、レース後のサクラフィナーレの様子も見ていた。それ故に1レース毎に調子を崩す事を知ってはいたのだが、ミナミベレディー程の体調不良ではない。


「あれ、もしかすると半分くらい仮病かもしれませんよ? もっとも、馬体が出来ていないのは本当なので見極めが難しいと思いますけど」


「・・・・・・」


 香織の意見に馬見調教師はポカンとした表情を浮かべる。


「私達はベレディーの様子を思い浮かべますけど、あそこまでのレースはしていませんから」


「なるほど」


 結局、馬見調教師はそれ以上何か言う事は無く、香織と共に桜花賞へと視線を向けるのだった。

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