第32話 ミナミベレディーという馬は?

 桜花賞の勝利、それは馬見厩舎に初のGⅠ勝利を齎してくれた。それに合わせて馬見の調教師としての評価が一気に爆上がりする。


 そもそも、ミナミベレディーという馬は、血統的にも今や零細血統となり、馬自体も馬体は良いがGⅠを勝つほどの馬かと問われると首を傾げる。

 重賞、それもGⅢであれば勝つかもしれない。ただGⅡとなると運が良ければ? デビュー当時から競馬関係者達が、それこそ馬見調教師ですらそう思っていた。


 そんな馬がまさかの桜花賞、GⅠを勝利したのだ。


 そこにはきっと調教師の何らかの手腕が隠されている。そう思う者はある一定数以上いた。


「馬見調教師、GⅠ初勝利おめでとうございます! レース前の人気では12番人気と低人気での勝利、馬見調教師として・・・・・・」


 ここ最近、何度も質問される内容に馬見調教師は無難な回答をするのみ。そもそも、掲示板に載れば御の字と思っていた馬見調教師にとって、ミナミベレディー本来の目標はオークスであった。


「次走は未定とのお話ですが、実際の所、オークスへの出走は本当に取り止めですか? ファン達にとって桜花賞を勝利したミナミベレディーが、オークスではどう走るのか、2冠をとり、秋の秋華賞で3冠馬となる。そんな期待は大きいと思うのですが」


「走らせてみたいのは私達も同様ですが、桜花賞の疲労が思いの外に大きくてね。やはりフラワーCから桜花賞は、ベレディーには間隔が短すぎたようです。毎レース本当に一生懸命に走ってくれる馬なので、今回は疲労回復を最優先にしたいですね。何と言っても牝馬ですから」


 馬というのはレースで活躍して終わりではない。子孫へと血を繋いでいく生き物であり、ある意味、引退後の成績の方が重視されると言っても良い。


 実績を残した馬であれば、次はその産駒へと、そして更にその先へ、未来の産駒に望みをつないでいく。GⅠ馬であれば、猶更に無理をさせる事は出来ない。


「ミナミベレディーの母馬であるサクラハキレイですが、すでに肌馬からは引退しています。ですから、ぜひ無事な姿でミナミベレディーには牧場に戻り、良い産駒を産んで欲しいですね」


「という事は、本当にオークスは回避という事でしょうか?」


「残念ながらそうなるでしょう」


 その後もしばらく対談を続け、漸く雑誌の取材を終えた馬見調教師は厩舎へと向かう。


 そして、ここ最近の日課となったミナミベレディーの馬房を覗く。そこでは、ミナミベレディーが寝藁に横たわって眠っていた。


ブルル、ブルルル、ピスー、ブルル


 寝息を立てて寝ているミナミベレディー、桜花賞が終わり間もなく5日が経とうとしているが、その馬体は見るからに艶を失いガレてきているのが判る。


「テキ、取材は終わったんですか」


 蠣崎調教助手が、ミナミベレディーの馬房を覗き込んでいる馬見調教師を見つけ声を掛けて来た。


「どうだ、飼葉の喰いは戻って来たか?」


「まだですね。疲労がまだ蓄積してますから、この食いしん坊がリンゴやニンジンを混ぜてても申し訳程度にしか食いません。もっとも、リンゴとニンジンを器用に食べて飼葉を残すんですがね」


 そう言って笑う蠣崎調教助手ではあるが、リンゴやニンジンであれば食べるならと細目刻んで飼料に混ぜて食べさせていたりする。


「診断の限りでは、恐らく軽い肉離れでは無いかって事です。とにかく注意して見ていますよ。鈴村騎手が見た動きから言って、恐らく右後ろ脚だと思われますが、幸い他の部分で大きな問題がありそうには見えません」


「そうだな、当初は骨折でもしたのかと焦ったが、レントゲンでも異常なしだったしな。ああ、それと秋から新たに1歳馬を2頭ほど預かる事となった」


「おや、おめでとうございます」


「これもベレディーの御蔭だ。ただ、普段回復が早いベレディーが此処まで回復しないとは」


 ここ数日ぐっすりと眠ってばかりのミナミベレディーだが、獣医も馬見調教師も無理して動こうとしない事に安心していたりする。


「あと気になるのは、鈴村騎手が言っていたレース終盤での走りですね。映像でも見ましたが、ストライド走法のベレディーがピッチ走法に近い走りをしているように見えます」


 鈴村騎手からレース後に受けた報告では、ミナミベレディーの走り方が最後の坂付近で明らかに変化したとの事だった。馬見調教師は、ターフビジョンの映像ではそこまで気が付いていなかったが、その後の映像でその異変は確認できた。


「勝つために走り方を変えた、そう考えても良いのか? そもそも馬がそんなことするのか?」


「さあ? ただベレディーですし」


 馬らしからぬ様子でスピースピーと寝息を立てて寝ているベレディーを見ていると、それもあり得る気がして来るから不思議だ。


「横になって寝るからな、足への負担が少なくて済む。それは良いのだが、馬の常識を覆すな」


「そのうち寝違えでも起こさないか心配になりますよ」


 そう言って笑う蠣崎調教助手を見ながら、移動が問題無い程度に回復したら、北川牧場へと放牧に出す事を決断する馬見調教師であった。


◆◆◆


「鈴村騎手、良い騎乗だった」


 本日の中山3歳未勝利戦、芝1800mで、香織は4番人気の馬で見事勝利を勝ち取っていた。1勝馬、良くて2勝馬クラスでの騎乗依頼ではあるが、桜花賞を勝った以降において確実に騎乗依頼が増えていた。


 今週末の土日では、なんと9鞍もの騎乗依頼を貰う。


「ありがとうございます。何とか勝ててホッとしています」


 声を掛けて来たのは先程勝利した馬の調教師であり、新人時代からお世話になっている高階調教師である。自身の勝鞍のうち実に4割は高階調教師の馬や、紹介して貰った馬である。

 その為、無下にできる人では無いが、オープン戦などになるとあっさりと乗り替わりをされて、幾度も悔しい思いをしていたりもする。


 そんな香織を取り巻く状況は、桜花賞勝利から怒涛の様に変化した。


 日本における女性騎手初のGⅠ勝利、しかも3歳牝馬が競う桜花賞という事で、連日雑誌などの取材攻勢を受けている。更にテレビなどでも出演依頼が飛び込んでくる。


 競馬雑誌のインタビューくらいであれば、前にGⅢを勝利の時にも受けてはいたが、桜花賞勝利となれば扱いはGⅢの比では無かった。


 この為、香織は時間があれば逃げるように馬見厩舎へとやってきてミナミベレディーの様子を見る日々が続いていた。


「最近は目に見えて騎乗が良くなってきたな。ミナミベレディーとのレースで何か掴んだかな?」


「そうだと嬉しいのですが。ただ、ベレディーで重賞を、そして桜花賞を騎乗させていただいて、そこで経験を積めたのは貴重だったと思います。もっとも、阪神ジュベナイルフィリーズではGⅠのプレッシャーに負けて失敗してしまいましたが」


 そう言って苦笑を浮かべる香織ではあったが、この桜花賞勝利で漸く以前の失敗に対し多少の折り合いをつけることが出来ていた。それでも、未だ時折夢で魘され飛び起きる事もあるのだが。


「初のGⅠ挑戦であれば仕方がない。しかし、馬見調教師はチャレンジャーだな、鈴村騎手には悪いが私だったら乗り替わりになってただろう。私が言うのも変だが、恩を忘れない事だよ」


「はい、馬見調教師のみならず、今まで支えて来てくださった皆さんに少しでも勝利でお返しできるように頑張ります」


 今年に入って通算勝ち星100勝を超えた。まだまだ未熟な騎乗もあり、自分の不甲斐なさにのた打ち回りたくなる事もあるが、それでも頑張ってこれたのだ。


「それにしても、ミナミベレディーの様子はどうなんだ? せっかく桜花賞に勝利したのにオークスは回避とは実に残念だが、重賞勝ち、ましてやGⅠ馬の牝馬は大事にしないとならんからな」


「少しずつですが食欲も戻り始めています。大きな怪我は無かったのですが、相変わらずレース後にコズミが出ましたし、それ以上に軽い肉離れを起こしているようなので復帰戦は秋になるかと」


「そうか、うん、元気ならよい」


 そう言って帰っていく高階調教師を見ながら、そういえば高階調教師はオークスに自厩舎の馬を出走させるんだったと今更ながらに思い出した。


「思いっきり偵察されてました? まあ出走回避は既に公になってるから良いんだけど」


 流石にオークスでの騎乗依頼など香織に来るわけもなく、完全に蚊帳の外である。


「ベレディーに会いたいなぁ」


 自分にGⅠ勝利を齎してくれたミナミベレディーへの思いは強い。その為、平日は他の馬の調教ついでに馬房へとノートパソコン片手に遊びに行くのが香織の楽しみになっていたりする。


 この桜花賞の勝利で香織が多少傲慢になっても可笑しくはない。しかし、その様な態度をとる事の無い香織は、騎手仲間などからも好意的にみられている。


 本人としては、確かに桜花賞勝利は嬉しいのだが、今はそれ以上にミナミベレディーの様子が気になって仕方が無いだけなのだ。併せて自分の周りで起きている騒動に、今一つ実感が湧いていないだけだった。


 これを良い機会ととらえて香織に遠回しにアプローチをした男性が数人いたりもしたのだが、残念な事に香織自身はまったく気が付いていなかった。


 それ故に一部の既婚者からは、寂しい女性と言われ始めているのを香織自身は気が付いていない。30歳独身、桜花賞を勝てども、いまだ春は遠かった。


◆◆◆


 北川牧場では春の出産ラッシュが一段落して、これから5月に向けての種付けシーズンに入る。


 しかし、ここで問題となって来たのがミナミベレディーの全姉であるサクラハヒカリへどの牡馬を種付けるかであった。


「ヒカリの産駒でも重賞は狙えると思うんだが、悩みどころだよな」


「トッコの御蔭で、少し資金的には余裕がありますけど」


 桜花賞の勝利によって生産牧場賞と繁殖牝馬所有者賞が入り、更には応援馬券による臨時収入も馬鹿にならない。その為、北川牧場としては、今年の種付けは少しお高めの馬も視野に入れて考えることが出来る。


「出来れば末脚が強い馬が良いのだがなあ。余裕があるとは言っても、出せて150万までだよな」


「そうねぇ、トッコちゃんが帰って来た時の為に貯金もしておかないと」


 ミナミベレディーを大南辺へと販売した際、キレイの後継馬である全姉達の産駒の成績が今一つ振るわない事から、現役を引退後は北川牧場へと戻して貰う事が契約に含まれていた。


 そのミナミベレディーがまさかGⅠを勝利するなど北川牧場の面々も、大南辺自身も頭の片隅ですら思いもしなかった。そのミナミベレディーが帰ってきた時にお金が無くて余所に売る事になるなど、大いにありそうで怖いと思う恵美子である。


 高い馬を掛け合わせても、その馬が走るとは限らない。それ故に無駄にお金を掛けることは出来ない。


 それでも、生産牧場であるが故に、肝心の産駒が売れる為には結果を出さなければならない。その結果を出してくれる馬を生産する為に、どの馬を掛け合わせるかは牧場の命運を握っていると言っても過言ではない。


「そういえばサクラヒヨリも順調に育っているみたいだな。あの子も走ってくれそうで桜川さんも結構期待してくれているみたいだ」


 全姉であるトッコが、まさかの桜花賞勝利。実の所、一番大騒ぎをしたのは北川牧場の常連客である桜川だったりする。


 出走馬もいない為に偶々北海道へ来ていた桜川は、桜花賞の翌日にわざわざお祝いのお酒やお肉をいっぱい持って北川牧場へと来てくれた。


「桜川さん好き! あんなにお肉たっぷりのすき焼き食べたの初めて!」


 桜花は日頃は滅多に食べられないすき焼きを食べられて大満足。しかし、峰尾は阪神競馬場との往復疲れや何やらで、お酒を飲み過ぎて翌日は二日酔いでグロッキーになっていた。


「しかし、わが牧場もGⅠ馬生産牧場になったんだなあ」


 思わず感慨深く思うのだが、そもそもよく考えたらミナミベレディーに対し、何か特別なことをした記憶はない。


「・・・・・・なあ、トッコは何で桜花賞勝てたんだ?」


 思わず考えていたことが口から零れる。しかし、峰尾からすると他の姉妹達と比べて取り立てて何かをしたと言う事は無いのだ。


 ましてやミナミベレディー自体も、そんなに優れた馬だとは思ってもいなかった。


「え? そうねぇ、何でかしら? ちょっと変わった子でしたから」


「トッコはね、すっごく頭が良いの。だって、鈴村さん達は桜花賞前に動画でトッコに見せて桜花賞を教えてたんでしょ? そのお陰だよ!」


 自信満々に告げる娘だが、流石に馬が動画で勉強出来るとか有り得ないだろう。


 ただ、ミナミベレディーが頭の良い馬である事は確かだし、気性も非常に良いから乗りやすいとかあるのかもしれない。


 何せ、6戦して4勝、内GⅠとGⅢを各1勝。更には負けたレースでもGⅢ2着とGⅠ6着だ。


 これだけを見れば非常に強い馬だと思う。しかし、関係者の評価は決して高くないように思う。


「なあ、トッコって実はすごく強い馬だとか、そんな事ありうるのかな?」


「どうなのかしら?」


「きっと強いよ! そうじゃなきゃ桜花賞なんて勝てないよ!」


 桜花はそう言い切るのではあるが、今一つ実感が持てない面々であった。


 良く判らない馬、関係者が抱いているミナミベレディーに対する評価は、これが一番近いのではと峰尾は思う。なぜなら、自分もまったく同様なのだから。


「話がズレたな、さて、ヒカリのお相手はどうするか」


 結局の所、また種牡馬リストを睨みながら、峰尾は悩み始めるのだった。

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