瀬戸内文化船物語

しおじり ゆうすけ

第1話

瀬戸内文化船物語  


この物語は、時代背景を除き、地名、学校、人物などは、すべて架空でありますが、舞台の中心となります瀬戸内文化船は、昭和三十七年から十九年の間実際に沢山の図書、映画フィルムを乗せ、広島県沖合の島々を、巡回した日本で唯一の公営移動図書館船事業を参考にさせていただきました。

文化船は昭和五六年の事業終了後、広島県瀬戸田町、生口島の海洋スポーツ施設の敷地内に於いて、外部や内部の図書も当時そのままに大切に保存され、戦後の図書館史の一端を現在に残しております。

※作中、文化船は旧日本海軍魚雷艇を改造した設定にしておりますが、そのような事実はありません。


―――――――――――――――――――――――――――――――――



昭和三十二年 八月八日  岡山県 笠原港 


国鉄岡山駅から山陽本線下り三原行きに乗り、一時間弱揺れて到着した笠原駅、二番線乗り場に降り立つと、誰でもが子供の頃に嗅いだであろう夏の日の夕立が来る前の湿気た匂いがしていた。遥か西の空は雲っている。早ければこちらは昼過ぎに、ひと雨降りそうである。「ひと雨来そうじゃのお」「早よおに降らにゃ、えんじゃけど」「船は時間通りに出よるかのぉ」、、と、瀬戸内海上空の入道雲を気にしながら跨線橋の階段に向かって歩廊(プラットホーム)を歩く乗客たちの声や貨物列車専用停車場の貨車のドアを開け沢山の荷物を降ろす作業員たちの掛け声が同時に聴こえている。 

改札口の切符切りの駅員の笑顔の後ろに “笠原港方面↓” と、そっけない字で書かれた看板を見つつ駅舎ら出ると磯の香りの塊のような海風にいきなり体を扇がれた。海に近い地域は昼は陸地で温められた空気が上昇気流となり、海から平野に風が上がってくる。 その風が米軍の空爆を免れた戦前からの駅前商店街の中を通りすぎたとたん、向かい合う商店二階上の屋根の両脇から連続して張られた数十本のワイヤーの間に短い幅の白い布の日避けをパタパタと音をさせ波のように揺らしている。その布と布の隙間から射した小さな光が木漏れ日の様に日陰の地面に映っているのを見つけた子供たちが面白がって踏んで歩いているのを避けつつ、“港への近道はこちら” と書かれた小さな看板の示す先の細道を右へ曲がると、戦後に出来た闇屋の屋台街の、先に見えてきたのが笠原港である。

近代の岡山と香川を行き交う人々には宇野港と高松港を結ぶ国鉄宇高連絡船が有名だが、岡山県南西部にあるこの笠原港も江戸時代以前からこの海域を結ぶ重要な港だ。 明治期の国産煉瓦でつくられた巨大な建物の連絡船待合室に入るとすぐに乗客の眼に飛び込んでくるのは、船乗り場改札口の上に、航空写真を元に描いた備讃瀬戸と沢山の島々の巨大な壁画である。初めてここにやって来た人にもよくわかるように、港から島々まで島への航路を青い線や赤い線で表している。

備讃瀬戸の“備讃”とは、岡山が備前備中の国、香川が讃岐の国であった時代に挟まれた海域に、いつの頃からか名づけられ、現代まで使用されている。

その待合室、沢山並んだ木製の背もたれのある長椅子の列の奥には岡山特産のイ草で織られた緞通が敷れた仕切りの無い広い休憩場があり、ラジオの大きな音が響く売店の向かいの壁には銀行窓口のそれに似た古風なデザインの黒い鉄格子窓がある三つの切符売り場が少し間隔を置かれて並んで作られ、その横には航路別に時刻表、船賃表が貼られてある。 

そこで切符を買い求め、改札口をくぐり波止場に出る乗船客たちは、各数十メートル沖にまで延びた四本の石造りの埠頭まで、それぞれ乗船する連絡船を目指して歩くのだが、その一番左の埠頭の突端に、いつもの笠原港には見慣れない一隻の中型船が錨を降ろして停泊している。

連絡船でも貨物船でも漁船でもない型式の、湖に浮かばせる中型の遊覧船のようにも見える船の両横には、大きく向日葵の絵が描かれ、船首両舷と船尾には遠くから見えるよう大きな文字で『岡山瀬戸内文化船 ひまわり号』と表記されてある。 甲板上の船室の外壁は白色とオレンジ色で明るく塗装されている。 

そんな船に興味を示した通りすがりの客や港湾関係者が近寄り、横に連続した小さな丸い船窓から、少しだけ見える船室の中を覗くとぎっしりと本が書架に並べられているのが見えている。 この船は、瀬戸内の離島に住む住民や子供たちに本を読んでもらおうと昭和三十年から広島で始まった移動図書館が催す瀬戸内文化事業の船で。過去2年間で広島県沖の島の住民達から好評を博したことで、今年の夏から岡山県の離島でも開始することになり、昨日からこの港に停泊し、今日の午前中、関係者のみで就航式典を終えた後に出港するはずであったが、昨日夜に届く予定の残りの書籍と、島で上映するための映画フィルムが貨物列車の遅れで今日の昼すぎにやっと到着し、その積み込み作業が終わり次第、最初の寄港地、笠原諸島の臼石(うすいし)島へ出航することになっている。

その作業中の時間、待合室の外、細い杖を持って立ち、笠原港と島の歴史が書かれた観光用看板を眺めている中年の男こそ、この文化船の船長及び船内の図書館長を任された、百目鬼 (どうめき) 弘一、この物語の主人公である。 

百目鬼が人の気配で後ろを振り返ると虫捕り網を持った子供たちが数人立ってこっちを見ている、おっ?と思った百目鬼だったが、観ている子供の視線の先から自分ではないことにすぐ気が付いた、その看板の縁に止まって居た一匹の蝉を捕まえようとしているのだった。大きく鳴き出した途端、一番長く手大きな虫とり網を持っている子が、急いでかぶせようとしたが惜しくも逃げられた、、子供たちの勢いのいい声が飛ぶ、

「ありゃあクマゼミみてえじゃったのぉ?」「どっちに飛んでいったかのぉ?」「どこなら?」「観てみい、あそこじゃ、あの木んとけぇおる!」「なんか水が散って顔にかかったで?」「そりゃあ蝉の小便じゃ、おめえションベン掛けられたんじゃ、」、ワイワイとしゃべりなら看板と自分の間を走り抜けていった子供たちのまだあどけない走り方の後ろ姿に笑顔を見せた百目鬼、船長帽をかぶり直し杖をつきながらゆっくりと歩く道の先には、船舶修理ドッグの社屋の日蔭で座ったり横になって休んでいる数人の荷役さんたち、古参の男と若い者たちとが、綺麗に交互に座って休憩していることに気づく。 各自、手に団扇や扇子を使い粗塩の入った小さな布袋の中に指を入れ、塩を舐めつつ、、水筒の水を飲みながら、広島の備後弁も混じる岡山弁が、杖を使ってゆっくりと歩く百目鬼の耳にもよく聴こえてきた。

「三宅さん、どけえいったんなら?」「裏の売店に皆のアイスクリン買えに行きょおった。」「坂本さん、お盆はどうすんなぁ?こけえ、おるんか?」「どけぇも、行きゃあせん。わしゃあ、ずうっと作業するでぇ、お盆が済んだら休まあ。そっちゃあ、どうするんなら?」「わしゃ、どぉしょうかと思よんじゃけど、まあ、明日と次の日は休んで寄島に、いんどかァ。」「おめえの美人の嫁さん元気にしとるんか?」「おう、元気じゃ。」「けぇえつの嫁さんのぉ、七つも年下なんでェ。」

「会社の事務室に、ク、クーラァ、言うのがはいっとってのぉ、」

「なんなあそりゃ?」「冷てえ風が出る機械じゃ。」

「運びょうるの観たけど、ありゃあぼっけえ(凄く)大きかったでぇ、嫁入り箪笥二つくれえの大きさじゃったかのォ。値もぼっけえ高けぇよおったで。」「来年にゃァ待合室にも入れるいう話じゃ。」

「儲けとんじゃのォ。」「涼みに行こうかのぉ」「汗臭えわしらは、いれてくれまあ」「クーラーみてえなもん買うより、わしらに、ちいたあ(少しは)金、廻してほしいけどのぉ。」「そうじゃそうじゃ」「ぎょうさんとは言やあせん、なんぼか給料あげてくれりゃあのぉ」「物価がどんどん上がりょうるしのぉ」

「あがあな、くそ爺いの社長だけ、ええ目してからが」「くそ爺は、言いすぎでぇ、イセキさん。」「聴こえたらどうするんで」「せえでものぉ、しめえにゃァ皆、怒るで。」「のォ、」「そうじゃそうじゃ。」「じゃ。」

「横尾さん、あの文化船とかいう船の荷はもう終えたんか?」「終えたけどのぉ、、もお、紙は重てえけえ嫌れえじゃァ。」「この港はべトンで出来とるいうて、去年死んだ爺様がいうとたけどの、べトン、ってなんなら?佐分利さん、、」

「なんかのお、」「わからんのぉ。」「知らんのぉ、、」

この暑いのにまったく良くしゃべる荷役さんたちである。岡山弁は、ほどよくわかる百目鬼だが意味不明の言い回しもまだたくさんある。べトンと言うのも岡山弁だろうか?と思っている。


沖のほうから、とても低い大きな音の汽笛が聴こえてきた、、笠岡湾内に大きな船が入ってきたことがわかる。

「おお貨物船が着いたでえ、仕事しょおかのぉ」「じゃのお」荷役さんが動き出した、

、船の汽笛は大きな船になればなるほど低音にするように船舶法で決められている。 港の仕事や船乗りの経験がある者は夜や霧の中で船が肉眼で観えなくとも船の汽笛を聴くだけでその大きさを判断できる。 今の音は荷役がいつも聴いている連絡船や漁船の音では無く、そこそこ大きな貨物船の到着する音である。


文化船の後甲板、屋根の日蔭になった長椅子の前に積まれた“学校図書運搬専用箱”と書かれた木箱の荷札を、薄青色の開襟シャツを着た精悍な顔立ちの青年が腕時計を観ながら確認している。百目鬼の部下、文化船専属の図書館司書を任されている澤村靖夫だ。正午の時報のサイレンが聴こえてきた。出港が出来たが、まだ来ない自分の上司の百目鬼を探しに、書類カバンを持って船を降り、待合室に行こうとしている。 

待合室の中、切符売り場の行列の横に見えるよう、煉瓦壁に貼られた貼り紙には、「忘れ物にご注意」 「荷物の置き引き、掏摸、かっぱらい、に注意」の文字、

赤い色で周りを囲まれた全国指名手配犯の貼り紙に混ざり、戦争末期に米軍爆撃機から日本近海に大量に投下された機雷を「危険浮遊物」という名前をつけ、モノクロ写真と繊細に描かれた絵、その両方で海の民に注意喚起をしている。終戦後、かなりの機雷が掃海艇によって処理されたが、十二年経ても、日本近海では浮遊している残留機雷に触れ、何度も海難事故が起こっていた時代である。

そして年月が経ったとわかる茶色になった貼り紙がもう一枚、戦後の重要な報せを記してある。


『 外地からの復員、引揚者の皆様がた へ  

ご帰郷の際には、まず地元の役所へ届出をお願いいたします

復員省 昭和二十年 十月六日 』


戦後、日本の陸軍省、海軍省は進駐軍によって解体された後、二つの省は併合し、国外からの帰還兵と民間人のための復員省となった。その後、復員局になり、厚生省の一部局になっているが、十二年経ったこの時代でも復員及び日本人引揚者事業はまだ終わってはいない。


その頃、百目鬼は闇市を見物していた。 戦後、大都市の空襲の焼け跡や小都市の駅周辺の空き地など、いたるところに出来た闇市であるが、その闇市も落ち着いた世間はそぐわなくなったため、各自治体が商売を許可した小さな市場、、“公設市場“を建設しそちらに移動させる手筈にしているが、市場に移動する資金も無い小さな商人は拒んでいる。 

お盆の帰省客目当てに、いつもより数多く並んだ屋台の列には売り声が飛び交い、街の商店街のように賑やかである。野菜売りの屋台で黄色いマクワ瓜が山になって積まれている横を百目鬼、計り売りの駄菓子屋、一抱えもある太いブリキの筒を地面に置いてのアイスクリン屋、、赤、黄、青色のシロップを透明なガラス瓶に入れて綺麗に見せているカキ氷屋、、雑貨屋、、道具屋、下駄、草履、地下足袋、サンダルを所狭しと履物を置いている屋台、おもちゃ屋、細い竹で作った笛屋、海水浴客用の浮き輪、釣竿屋、魚の干物屋、魚すり身の揚げ物屋、、十台ほど設置させて男客を遊ばせているパチンコとスマートボールの屋台、男たちが集っている賭け将棋の縁台も見える。駅に近づき屋台街の端まで来たので、もう一度港の方向に帰ろうとすると、パチンコに夢中になっている夫を見つけて「あんた、もう、なにゅうしょうんで、ええ加減にしねえ!」と奥さんが罵る声も聴きながら、歩く船長帽の百目鬼を呼び止めようとする店の女性たちの声が聴こえる。

「旦那さんょ、そこの切っとるスイカ、味見すりゃあええけぇ、まあ食べてみりゃええけぇ、美味しいスイカじゃけぇ、買おてちょうでえ。」

「そこのお兄さん、船長さん、あんたじゃが、あんた男前じゃあ、まくわ瓜―、よお熟れとるでー、買うていきねえ、勉強しとくけ、な、どう?なあ、隣のスイカより美味しいけェ、」「うちのほうがそっちより甘えでえ。」「♪アイスキャンデー、アイスキャンデーはいらんかのぉー」テントの中“ウナギ釣り”と書かれた看板を掛けて、大きな桶の中に五、六匹の鰻を泳がせている釣り屋の前では若い父が小さな釣竿を自分の子供に持たせて釣らせている、、が、なかなか釣れない子供、

「ぜんぜん釣れんでぇ、父ちゃん、」父「おっさん、これ、釣針、もうちょっと、小せえのねぇんか?わざと大きい針にしとるじゃろ?」いちゃもんつける親の声に、カンカン帽を斜にかぶって鯉口シャツを着たテキヤの若者が自分専用の良く釣れる釣り針がついた竿を取り出して、釣り方の見本を見せる、「口の先じゃのおて、頭の後ろの、エラをひっかけるんですりゃ、こうやって、ほれ、ほれ釣れた、ぼく、やってみィや。」子供の釣竿を親が取りあげ、

「ちょ、わしがやったらァ。おまえはちょっと見とけ。」元を取ろうと親のほうが夢中になって父、子供、テキヤの若者、の会話が聴こえている。百目鬼はこういう賑やかさが大好きである。次は海で獲れた物の土産物屋を見物している。古い帆で作られた簡易屋根の上と横の支柱に大小六つ吊られた河豚提灯、漂白され真っ白になった大きなサメの顎の標本、サンゴ、そして宝貝や桜貝など瀬戸内の海には居ない貝類も混ぜてある綺麗な色の貝殻を上に置きその下は何の変哲もないその辺で拾った貝殻で埋めている、沢山の貝盛り籠の土産物の中、ひときわ目立つように大きなカブトガニの剥製を置いている。立ち止まって眺めていた百目鬼に、屋台の後ろで盛り籠を器用に作っていたテキヤの男が麦わら帽の端を指先でちょいと揚げ、勢いのある岡山弁で声をかけてきた、

「ほれ、船長さん、こりゃあ、カブトガニ言いよりましてのォ、この後ろ海の、笠原湾にしかおらんカニですりゃあ、百万年前から形は変わってねぇ珍しい生き物で、ホンマは、、ホンマは、捕っちゃァいけんのですけど、死んだのを綺麗にして標本として売るんは問題ねえですけぇ、骨董品ですけえ、裏側にひっかける紐がありますけ壁に飾れますけェ、こねえに大きゅうなったのは、珍いけですえ、ぼっけえ、めずら、」

と説明している最中に、さっきの蝉取りしていた小さな子供たちが通りすがりに虫捕り網の柄の先でカブトガニの甲羅を叩いてきたのを怒鳴り散らすテキヤの男、「、、めずらし、、こりゃあ!叩くな!割れるじゃろうが!こりゃあ!」振り返って、一番マセた子供が叫ぶ、「わははー!おっさん、ここまであ、来てみィ!」怒ったテキヤの男が投げる小さな巻貝が、その顔の横を飛んでいく

「おどりゃあ、くそガキゃー、こらえんでェ!あんごうが!」

笑いながら逃げていく子供たち。


港 待合室


連絡船の出港時間前に叩かれる銅鑼の音が待合室の外まで聞え、その後に通りの良い係員の案内する声が待合室全体に響き渡る。「塩飽(しわく)諸島行き、出港します~、出港、出港~!」室内、背もたれに民芸調の彫刻の付いた年代物の木製長椅子には多種多様な人たちが座って待っている。 浮き輪を持っている子供が混じる家族連れ、、沢山の土産物を持っているお盆の帰省客に混じり、島のお年寄りが笠原港まで迎えに来て孫を抱きしめ喜んでいる姿、、皆で揃って小声で御経を唱えている四国八十八か所巡礼の団体、、大きな背負子(しょいこ)を降ろして椅子に座っている町から島へ、島から町へ、荷物運びをしている婆様たちは皆が皆、自分の旦那の悪口を吐露しつつ船出の時間を待っている。 

待合室の売店すぐ近くの長椅子に座って、アイス最中を食べながら難しい顔をして新聞を読んでいる大男の客は、この物語の前半の舞台になる臼石島にある旅館の調理場主任、大河内新太郎である。足元には一升瓶が六本入りの持ち手の付いた木箱と醤油の一斗樽、カーキ色の軍用リュックの上の口から見えているのは新聞紙で別々に撒かれた新牛蒡、自然薯、、赤芋茎(あかずいき)の束、観えてはいないがその底には緩衝剤代わりに入れた大量の干瓢の束、、午前中に島から渡り、笠原の野菜市場で仕入れたばかりのどれも瀬戸内沿岸地方の夏の旬の食材である。 

その大河内の横の席には、島の海水浴場に遊びに行くのであろう、若い女性客三人がずっと会話している。「お茶ちょうだい、、モナカの皮が口の裏に引っ付いた。」「私もちょうだい。」「水筒のフタきついわ、」「開けようか?」「他、何か買っとく?」「も一回、売店見てくるわ。」「私も行く。」「あ、それどしたん?」「あ、この前買った新しい財布。」「ええなあ。」「高かったん?」 「成人式のお祝いで買ってもらってね。」 綺麗な花柄がある革財布を見せびらかす女。 

売店近くで座っている客たちには据え付けの時代古めの大型ラジオからは、正午のNHKラジオニュースと天気予報が終わり、次の番組が始まったのが聴こえている。ローカルニュースは、笠原沖海上を今日1日横切る大きな船舶名を放送している。その中に、米海軍の調査船が瀬戸内海を航行しているとの報告中、軍艦ではないので安心してくださいとの断りを伝えている。その後は、戦後間もなく始まった「尋ね人の時間」である。前戦前から戦後の混乱中に行方が分からなくなった、親子、兄弟、、親せき、知人、友人の名前をラジオで放送して聴いた本人か一般人から報告を待っている、と、チャイムが鳴り、抑揚のない、つやのある声の男性アナウンサーの声が聴こえてきた。


『暑い日が続いております。皆さま、お元気でお暮らしで御座いましょうか、こんにちは。尋ね人の時間でございます。ラジオの前の皆様、メモのご用意はよろしいでしょうか、、では申し上げます。今日は、昭和二十年まで東京深川に住んでいた上川俊一さんご一家を京都市洛東にお住まいの大橋英二さんが探しています。 上川さんと大橋さんは岡山県倉敷市、藤戸村出身で家がお隣同士でした。藤戸村は、能の謡曲、”藤戸“で有名な場所であります。上川さんは昭和十四年冬、東京深川に移り住み、戦後の混乱中に連絡がつかなくなり探しておられます。上川さん、そのご家族、もしお聴きの皆様の中で、お近くに上川という苗字の人物がおられましたら、尋ね人の話をしてみてください。 そして、ご情報をN、H、K、日本放送協会まで手紙でお知らせ下さい、手紙の宛先は、、』


その後に続く言葉で伝える住所は、この番組が開始された頃からの決まり文句なので当時の日本国民は皆、憶えている。そのラジオアナウンサーの声を真似つつ、一緒に呟いているのは、角刈りの着流しの男、東京からやって来た落語家、三遊亭笑ん馬である。

「、、手紙の宛先は、東京都、千代田区、内幸町、内外の内、幸いと書いて“うちさいわいちょう”です、、つぁー、久しぶりにじっと聴いたねぇ、、尋ね人の時間。」

「まだ、しょーったんじゃ、戦争終わって、ぼっけえ経つのに、」その落語家の隣に座っている着物姿の女も呟く、、女は篠山桃花、と言う曲師である。曲師(きょくし)とは、当時流行していた浪曲の、浪曲師の後ろで三味線を弾く奏者の事である。

意味不明の方言をきいて面食らう関東生まれの笑ん馬、

「しょー、ったん?、、ぼっけえ?、、え、それ、岡山の方言か?」

篠山桃花、とうぜんの顔。「そうじゃ、せーが、どがぁしたん?」「せー、、どがあ?、、お前と一緒になって、初めて聞いたわ、そんな言い方、、」それを聴き、フンっ、という顔をし、故郷の方言を自慢するように偉そうに言い返す桃花、「えかろぉ!これが岡山弁じゃけぇ。これから、島に行ったら、なーんぼでも聞けるけえ、楽しみに、し、と、かれ。」

二人の足元には、年代物の革製の旅行鞄が二つ、桃花の膝の上には白い日傘と、少し分厚い布の風呂敷に上手に包まれた三味線が見えている。

壁の時計を見る板前大河内、そろそろ臼石島への連絡船の出発時刻と気付き、木箱と一升瓶の隙間に、船の揺れで割れないように、木と瓶の間に読んでいた新聞紙を捩って詰めたあと、もう一度売店で雑誌を数冊買い求め、リュックに詰める。 

若い女性観光客三人の会話、「あの番組でさあ、あんたの結婚相手探したら?」「あの番組、そういうことじゃないのよ!」「知ってるわよ。」「戦争で生き別れになった人を捜してんの。あれってさ、けっこう見つかる人多いんじゃって。」

「そうなん、、ふーん、、」

番組は続いているが、もう後を聴かずに別の話題に移っている三人、話しが尽きない。

「、、では、次の尋ね人です。戦時中の大阪大空襲後、船場で生き別れになった、、」

銅鑼の音が響いて、ラジオの音声が聴こえなくなる、「小豆島~豊島行き、、出港~、お急ぎをーー」

入り口の外れに佇んでいる傷痍軍人の足元に置かれた小型蓄音機から聴こえてくる軍歌を気にしながら、チラシを渡されて読んでみる百目鬼、


『    笠原署からのお願い


大阪府内で銀行強盗を犯し全国に指名手配されている若い男女二人組が逃走中、

今年の七月にこの地域に立ち寄った形跡があります 男は小型拳銃所持です、お気を付けください。手配写真及び年齢身長など詳しい事は、もよりの警察署、派出所、駐在所前の掲示板に貼りだしております  お気づきの方は情報をお寄せください

笠原署 電話××―××××』


「ふぅーん、、」チラシを折り無造作にポケットに入れる百目鬼、あまり関心が無い様子である、、と待合室の受付に困った顔でやってきた二人の船員が、これから掛けようとした出港時刻の札を持っている受付嬢と話をしているのが百目鬼の耳に聴こえてきた、、

「臼石行きの便、エンジン故障で出航できんようになってしもうてのぉ、予備の船もお盆前の増便で出払っとるし、今日は出港停止じゃあ言うてくれえ、整備士、呼んでくれんかのぉ、、」

近くで聴いている着物の男女

「ありゃあ、」「どおぉしょーか?」「どこか泊まる所を見つけるか、、」

「うーん、そうじゃなあ、、」

小さな黒板を壁に急いで掛けて予定変更を知らせようとする受付嬢、

『今日の 臼石島行  欠航 』

待合室のスピーカーでも欠航の案内が聴こえ、近くで待っている別の客たちも困った顔。「しょうがねえのお、」「ありゃりゃあ」「どねえしょうか」「やっぱり前の便に乗っときゃよかったんじゃ、、」「泊まらにゃあおえんかのぉ?三洋旅館、空いとるかのぉ、」「ここの二階にぁ、雑魚寝できる広い部屋があるけえ。そこで寝とこうかのぉ、、」待合室、困った顔をしているセーラー服の女子高校生がひとり居る、胸には 『鴨女高 二年 瀬島』 という名札、島から本土の鴨方女子高校に通っている臼石島の高校生だ。 待合室に入ってきた百目鬼を見つけて澤村司書、近づいて伝える、「百目鬼さん、積み込み終わりました、臼石島へ出港します。」それに気づく笑顔の百目鬼。「はい。わかりました。村上君は?」「操舵室で待っています。」 その二人の会話を聴いていた受付嬢、切符売り場に臼石島行の切符の払い戻しに集まっている残りの客たちに伝えにやってきた。

「あのお、あの船に頼んでみましょう、臼石島へ出港する文化船という移動図書館の船で、これから私が頼んでみますからここで待ってくださいませんか。」

船便の切符の払い戻しを待っていた着物の男女、大男、女子高生、観光客たち、次々に礼を言う。「、そ、そうですか、」「どうもすいません、」受付嬢が百目鬼に近づく、「あのお、、ちょっと、お願いが、、」 

説明を聞いた百目鬼、明るい顔で答える。

「ええ、大丈夫ですよ、沢山でなければ。何人でしょう?」

「ありがとうございます、あの、ちょっと多いの、七人、ですが、よろしいでしょうか、、」

「はっ、それくらいでしたら大丈夫ですよ。中には狭いですが読書できる部屋と甲板には十人ほど座れる椅子も付けてありますから。」知らせに行く受付嬢「え、行ける?」「うん、切符、まだ払い戻しする前だったから。」「やった~!」 受付の別の男から教えてもらった埠頭を七人が歩いていくと船の脇に別の乗組員が立っている。機関士の村上である。「あ、あれね!ほら、『文化船、ひまわり』号って書いている船!」若い女三人組、着物の男女二人、女子高生、大量の荷物を背に手に持った大男が続く。

待合室では、いらない、と、断っているのに案内嬢からお金を入れた茶封筒を無理やり渡された百目鬼、思いついて待合室の外に歩く。そこにはさっき見た、ぼろぼろの陸軍帽をかぶり右目に眼帯をし、白い入院服を着ている傷痍軍人が立っている。靴の傍に置かれた募金箱に立て掛けた木の看板には、墨で書かれた文章、


『 昭和二十年、比島戦線へ従軍、マニラ市街で戦闘中、米軍の砲撃を受け、負傷、帰国、右目失明、耳が聞こえません、先の戦争の傷痍軍人、、(不鮮明な文字で数行、) 国家賠償を求めていく所存であります 』

と、記されている。

この時代の、人がたくさん集まる駅、港、都会の繁華街、門前町、縁日の場、には、太平洋戦争で体に怪我を負って日本に帰還した元兵士、いわゆる傷痍軍人が来て国民に自分たちの窮状を訴えているのだ。戦後の日本政府は戦死した兵士たちの家族には戦後すぐに遺族年金を支払ったり、未亡人には町々に今でもある小さなタバコ屋の仕事を世話したが、まだ国の予算が少ないため、傷痍軍人まではすぐに保証金支払いが廻らなかったのである。傷痍軍人への補償が出るようになるのは昭和三十八年まで待たなければならない。

片手で運べる箱型の小型蓄音機からは題名「戦友」という軍歌が流れているが、レコード盤の針が飛んでいて同じ歌詞が何度も何度も繰り返されていることに耳が不自由な傷痍軍人なので気がついていない。 百目鬼、丁寧にお辞儀をし、切符売り場でもらった代金を募金箱に入れ、手つきで指さした蓄音機のスイッチをいったん切って停めると、止まったレコードの盤面に、戦時中に貼られた「軍歌使用禁止曲」の印のラベルが貼られてあるのを見る。軍歌と発表された後でも悲壮な歌詞の唄は放送や軍隊内での使用を後に禁じられた曲もあったのだ。 指で針をレコード盤の溝に戻し、再びスイッチを入れ、最初から流れていく軍歌、、。百目鬼が針飛びを直してくれたことに感謝し頷いてくれた傷痍軍人は百目鬼の手に持っている杖を観て、同じ境遇だと思い、見つめ合う二人。

お互い、頷いて敬礼し、文化船に戻っていく百目鬼。 続く歌、


『ここは―お国の何百里―、♪離れて遠き満州のぉ、、

♪赤いー夕日にぃ、照らさぁぁれて、友~は野末の石~の下~』


文化船に乗りこむ臨時の客は板前大河内、海水浴の観光客若い女性三人、着物の男女二人、島の実家に戻る女子高生一人である。 大型リュックを背負い、醤油樽と『赤酒』という味醂の一升瓶を六本入れている木箱を両手でバランスを取りながら持って歩いていく大河内を誘導する澤村司書。「ゆっくり、ゆっくり、」荷物を甲板に降ろし、噴き出る顔の汗を首に巻いていた手拭いで拭きとりながら頭を下げる大河内。「どうも御厄介になります。」 出港の汽笛を鳴らしながら埠頭を離岸し、ゆっくり動き出す瀬戸内文化船ひまわり。 見送る切符売り場の受付嬢と笠岡港の係員の人たち。荷役の人たちも埠頭から手を振ってくれている。

「気いつけてのおー」「行ってきまーす」「さようならーー」「気いつけてなー」

屋台の売り声も、蝉の音もだんだん聴こえなくなっていったとたん夕立がやってきた。空が暗くなり、その雨の中から逃げ出すように進んでいく文化船であった。

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