桜の根本に鎧武者

六塚

桜の根本に鎧武者

 大きな音が響き僕はそれが銃声だと思って慌てて飛び起きた。目の前をでっぷりとした体格の大男が通り過ぎて行って個室の扉が半開きになっている。

 眉間に咲いた満開の花びらが奇麗だったからカッとなって鏡に右の拳を打ち付けた。

 粉々になった破片の半分は頬をなぞりながら僕の真後ろの個室めがけて飛んでいき、床に散らばる。もう半分は隣の洗面器まで飛び散って滑りながら止まった。蛇口を捻ろうと手をかけるとなにか光っている。外灯の明かりを拾いキラキラ輝く大小のガラス片が肉を抉り、細い血液の筋を作り出していた。心臓が血液を送り出すたびに酷く脈打つ。

 小さな摩擦で出た火花が本格的に燃え上がり、僕の思考に靄がかかっていく。僕は踵を返すと先程男が通り過ぎていった個室の方へ歩み寄った。

 便器の中には螺鈿のような気味の悪い光沢をした油が浮かんでいて嫌な臭いがしたがそんなのは関係ない。中に手を突っ込むと両手を激しく擦るようにして洗う。バターかハンドクリームのような膜が掌を包み込んで痛みを曖昧に濁していくと傷口から赤い煙が生暖かい水の中に広がっていく。しばらくその様子を眺めていると水面にモクモクと上がる煙の量も胸の鼓動も落ち着いてきてゆっくりと引き抜く。洗面台を振り返ると僕の血が蛇口にべったりと張り付いてるのが見えた。


 道路を鳩が歩いている。

 僕は鳩の後ろをついて歩く。さっきからずっと後ろをついて歩いているけれど彼は気づく気配がない。

 だって帰り道が同じなのだ、滑稽な見た目かもしれないがしょうがないじゃないか。

 ここは街灯が多くて夜でも明るい。こんな光景を誰かに見られたらまるで僕が鳥ごときに従属しているかのようではないか。嫌な気分だ。腹の底がむかむかして手の傷口がぐずぐずと疼き出す。目の周りも……なんか変だ。

 地団駄でも踏んで驚かしてやろうかと思ったが、その前に鳩は私立大学の柵を飛び越えて消えてしまった。

 ■■■◆■■が生きていれば今頃大学生だろうか。彼は頭が良かったからこんな田舎の学校じゃなくて都内のもっと有名なところを受けるのだろう。僕と違ってすぐ怒らないし、穏やかで良い奴だったのに。

 だったのになぁ。


 家に帰って洗濯機を回しているとき、ゴウンゴウンという音を聞いていると■■■◆■■と過ごしたコロニーでの記憶が蘇ってくる。あの大迷宮のようなグラン・ナポレンは僕に人間の美醜の何もかもを教えてくれたし、その記憶には必ず■■■◆■■の姿があった。

 彼と僕はいつも一緒にいた。僕は彼の身体が固まらないうちにぐっと瞼を手のひらで下げて黒くて大きな瞳を隠した。そして、ポッドに乗る権利を得た。それで逃げてきたのがこの街だった。

 時折、本当に偶にだけれど、昔と変わらない■■■◆■■の姿が部屋の隅に見えることがある。


 僕は家の洗面台の前で目を瞬かせる。

 僕の目には睫毛がない。

 戦場で裂傷と大火傷を負った日に目玉、視神経、少しの脳、その他色々と一緒に吹き飛ばされてしまったからだ。

 今、僕の顔の大半を占めるのは前の目に比べて少し不思議な色をした義眼とそれを縁取る桜の花のような華やかなケロイドだけだ。

 もしかしたら鼻も少し低くなったかもしれないと鏡の前で顔を振ってみる。どうだろうか。

 この傷はまるで僕の内面を抉り出しているようで、あまりにも僕らしくて憎らしい。

 とても綺麗で、とても醜い。


 手を水で洗い、肉に埋まったガラス片を取り除くと救急箱から消毒液を取り出した。昔の僕は玉がお腹にめり込んだまま半年過ごしたこともあったのになんだか今の状況は平穏なくせにおかしい。普通じゃないみたいだ。消毒液に痛みはあまり感じない。僕がおかしいのなら■■■◆■■はもっとおかしかった。

 マンションの真横には大きな桜の樹が植わっていて、まるで僕の部屋の窓を覆い隠すかのように咲き乱れている。根元の方に彼の姿があるような気がして僕はもの凄く不安になり、同時にとても安心した。窓を閉めると長く伸びた枝が硝子を撫でた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

桜の根本に鎧武者 六塚 @murasaki_umagoyashi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ