街の外に出られない〝英雄〟の娘は街の外が気になってしかたがない。

夕藤さわな

第1話 南の草原のラビィ

 真っ青な空に真っ白な雲。すねほどの高さの青々とした草が揺れる。草のすきまからは白い小さな花がのぞいていた。

 なんてのどかな風景。

 白くて可愛らしい小さな花を二つ年下の幼なじみのために摘んで、スキップで帰りたい気持ちになる。


「まぁ、そういうわけにはいかないんだけど……」


 黒猫のようにつややかな髪を風になびかせ、細身の剣を手に立ち尽くしていた少年――フェン・G・ヘスは乾いた声で笑った。


 ここは王都の南に広がる草原。

 魔物や魔族の侵入を防ぐために王都を含め、人間が暮らす街のまわりには高い高い塀が築かれている。ここはその、塀の外にある草原。弱いとはいえ魔物が出現する場所だ。

 どれだけ弱くても魔物は危険だ。魔物がいる街の外は危険だ。だから街の住人の多くは一生を街の中、塀の中で過ごす。


 なら、十二才になったばかりで、夏休み明けからやっとブラムウェル・バリンスカ学園の冒険科に入科するフェンがどうして街の外にいるのか。弱いとはいえ魔物である〝ラビィ〟を追いかけまわしているのか。

 その理由はこれが夏休みの宿題だからである。


「低級のラビィを倒すなんて簡単って思ってたけど……これ、思った以上に難題なんじゃない?」


 真っ青な空を流れていく真っ白な雲を見上げてフェンは半笑い半泣きでつぶやいた。

 ラビィはあの雲と同じ、ふわふわで真っ白な低級に分類される魔物だ。姿かたちはウサギによく似ている。グッズ化もされていて街の子供たちにも大人気の弱い魔物の代名詞のような魔物だ。

 草原に出ればわんさかいるから探し回る必要もない。


 宿題の内容を聞いたとき、フェンも含めて冒険科への入科が決まっていた生徒たち全員が大喜びした。なにせ机に向かってひたすらに問題集を解くという大嫌いな座学系の宿題がないのだ。冒険科入科予定の生徒に出された夏休みの宿題はラビィ狩りだけだったのだ。

 相手は弱い魔物の代名詞・ラビィ。誰も彼もフェンもすぐに終わる簡単な宿題だと思っていた。

 ところが、だ――。


「……」


 足元にやってきたラビィをフェンは無言で見下ろした。野ウサギよりも長毛なラビィがちょこんと前足をあげ、ちょこんと小首をかしげる愛らしい仕草でフェンをじっと見つめている。

 基本的には白いラビィだけど黒色や茶色の模様がある個体もいる。フィンをじっと見つめるラビィはちょこんとあげた前足が手袋をしているみたいに茶色い。


 手をちょっと伸ばせばなでられそうな距離にいる。剣を振り下ろせばあたりそうな距離にいる。呪文を唱えれば攻撃速度の遅い睡眠魔法だってあたりそうな距離にいる。

 動物のウサギならペットとして飼われていたり公園を跳ねまわっていたりと街の中でもしょっちゅう見かける。初等科に通う前の五、六才の子供だってウサギなら捕まえて抱きかかえることができるのだ。

 魔物と言えど相手はラビィ。実技試験を合格し、冒険者の適性ありと判断され、多くは天から〝肉体強化〟の能力を与えられた冒険科入科予定の生徒ならラビィくらい簡単に倒せるはずだ。

 ……――はず、なのに。


「て……!」


「きゅっ!」


 〝ていっ!〟と叫んで剣を振り下ろすよりも早くラビィが愛らしい鳴き声をあげた。剣はラビィの白い体を貫いて青々とした草に、さらにはその下の柔らかな地面に突き刺さる。


「……」


 いや、貫いたように見えるけど実際は違う。なにせラビィは平然とした、先ほどとなんら変わらない表情でちょこんと前足をあげ、ちょこんと小首をかしげてフェンをじっと見つめているのだ。


「きゅっ!」


 かわいい鳴き声がはるか遠くから聞こえた。目の前のラビィの姿がゆらりとゆれて消える。鳴き声がした方に顔を向けると十メートルほど離れたところにラビィが姿を現した。ちょこんとあげた前足が手袋をしているみたいに茶色い。

 残像が残るほどの速さで逃げられているのだと気が付くまでに何度、青々とした草に顔面から突っ込んだことか。


「さっさと終わらせてソフィと遊ぼうと思ってたのに……」


「きゅ、きゅっ!」


 ラビィはフェンを見つめて挑発するように反復横跳びをしている。腹が立つくらい素早い反復横跳びだ。分身の術と化した反復横跳びだ。


「きゅっ! きゅっ!」


「さっさと終わらせるどころか……もしかして、これ……」


 反復横跳びしていたラビィがフェンに背中を向ける。ラビィの姿はゆらりと揺れ、何拍も置いて残像が霧のように消えた。

 そのようすを眺め――。


「……終わらないんじゃ」


 地面に突き刺さった剣を引っこ抜くだけの気力もないままフェンはへたりこんだのだった。


 ***


 三階の自室にある窓からフェンが帰ってくるのが見えたのだろう。玄関のドアを開けるなり二才年下の幼なじみ――ソフィ・エレノア・クックが階段を駆け下りてきた。着ているワンピースとエプロンにはあちこちに赤茶色のシミができている。


「お帰り、フェン! ラビィは……!」


 少女がそこで言葉を切ったのは土と草とすり傷だらけのフェンが背中を丸めてとぼとぼと入ってきたからだ。〝すぐにラビィを捕まえて帰ってくるよ!〟と笑顔で屋敷を出て行ったフェンが出て行ったときよりも少ない荷物で帰ってきたからだ。念のためにと持っていった回復薬は使い切ってしまい、目的のラビィを捕まえることはできなかったのだとすぐさま理解したからだ。


「……マリにお風呂の準備をお願いしてくるね」


 にこりと微笑んでソフィはバタバタと階段を駆け上がっていく。ソフィの乳母であり、この屋敷のメイド長でもあるマリを探しに行ったのだろう。

 父親譲りの水色の髪を馬のしっぽのように揺らして駆けていくソフィを見送ってフェンはエントランスの冷たい石床に腕を広げて引っくり返った。


 ここは今は亡きソフィの父親の屋敷であり、冒険者であるソフィの腹違いの兄たちの拠点であり、ソフィとその母が暮らす王都の端に建てられた屋敷だ。

 ソフィともソフィの両親や兄弟親戚とも血縁関係のないフェンがこの屋敷に預けられているのはフェンの父親がソフィの父親と親友同士だから。現役の騎士団長である父親が母親とともに各地を転々としているから。そして、国内で唯一、冒険科があるブラムウェル・バリンスカ学園が王都に――この屋敷の近くにあるからだ。


 学園に入学した八才から十二才になる今でも暮らしているのだ。フェンにとっては勝手知ったる我が家状態。

 だから――。


「あらあら、フェン。泥だらけ、草だらけじゃないですか。さっさとお風呂で汚れを落としてきなさい」


「お風呂から出たら夕飯にしよう。私、待ってるから!」


 マリとソフィに顔をのぞきこまれても石床に引っくり返ったまま。あわてて起き上がることも居住まいを正すこともしない。


「ムリ。疲れた。動けない」


 それどころかうめくように言って重くなってきたまぶたを抵抗することなく閉じてしまった。


「玄関先でひと眠りするつもりですか? お兄様方が帰って来られたら踏まれてしまいますよ?」


 冒険者をしているソフィの兄たちは滅多にこの屋敷に帰ってこられない。そして、そろいもそろって重度のシスコン。大勢いる腹違いの兄弟の中で唯一の女兄弟であり、末の妹であるソフィを溺愛している。

 そんなわけで屋敷に居候して毎日のようにソフィと寝食をともにしているフェンは目の敵にされているのだ。マリが言うとおり、玄関に転がっているのを見つけたらここぞとばかりに踏みつけてくるだろう。

 ……踏みつけてくるだろう、けど。


「ムリ……うごけない……」


「あらあら、まあまあ」


 踏まれるのはごめんだという気持ちよりも疲労感の方が勝った。

 まぶたを持ち上げる力も残っていないフェンは、だから、ソフィが何かを考えるように首をかしげたあと、目を輝かせて手に持ったままだったビンのフタを開けたことに気が付かなかった。


「これできっと動けるようになるよ、フェン!」


 ソフィがかたむけたビンからとろりと赤茶色の液体が流れ、ぽかんと開いたフェンの口に落ちる。

 瞬間――。


「~~~っ!?」


「どうしたんです、フェン! ソフィ! 何をやったんですか、ソフィ!!」


 この世のものとは思えないえぐみにフェンは声にならない悲鳴をあげて床を転げまわったのだった。

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