39.フツウ

「鈴原さん、何かあった?」


そろそろ昼休憩も終わろうかというころ、社内の自販機で紙カップのコーヒーを買って飲んでいると、須藤さんから声をかけられた。

わたしの校正の仕事は隔週1日のみなので、校正・校閲担当の須藤さんには、会うたびに少し久しぶりな感じがする。


「え、何か変でした、わたし」


「そうでもないけど。いつもとちょっと違う気がしただけ」


自販機に小銭を入れながら、須藤さんがこたえる。

ガコンと音がして、ブラックコーヒーの缶が吐き出された。


「なんでしょうね。あったというか、ありすぎたというか」


「何それ」


微笑む須藤さんは、けれどそれ以上わたしに何かを尋ねることはしなかった。

以前はそこに冷たさを感じていた時期もあったけれど、少ない時間の中でも一緒に仕事をしてきた中で、その感覚は少しずつ薄まっていた。


「××社のほう、どう?」


「レイアウトはクリアしたと思います。内容も、大丈夫だと思います」


「鈴原さんもだいぶ慣れたものね」


「都築さんや、須藤さんのお世話になりましたから」


「ミスするなといった私が言うのもなんだけど、鈴原さんの仕事はミスが少ないから、私としても助かってるわ」


「そんな、まだまだですよ。ありがとうございます」


ベテランの方の言葉に心底謙遜していると、はい、と飴玉を渡された。

なんだか最近よく飴玉をもらうなと思って受け取ってみると、ブルーベリー味のものだった。


「疲れてない? よかったら、どうぞ」


「ありがとうございます。 目にいいって、いいますもんね」


あれは気休めみたいなものだよと言っていた薬剤師の姉・冴香の声は、ここでは無視する。とはいえ須藤さんも、「まあ、気休めみたいなものだけどね」と言っているのだから、案外みんなそんなふうに思っているのかもしれない。


「長瀬さんのことだけど」


思ってもいなかった方向から球が飛んできて、危うく飴玉がのどの奥にゴールするところだった。あわてて頬袋に流し込んだ。


「鈴原さん、最近彼女と仲良いみたいね」


「あ、はい。わりとそうだと思います」


仕事中に、仕事とぜんぜん関係ないことでちょこちょこ話しかけてくるのは相変わらずだけれど、定時間際に仕事を押し付けてくるようなことは、そういえばいつの間にかなくなっていた。基本的には、少し話しかけられたくらいで滞る仕事でもないし、慌ただしい社内の中、彼女との接点は、仕事中のささやかな息抜きになっていた。

須藤さんが長瀬さんの話をしてくるなんて、めずらしいこともあるものだ。


「あの子、案外懐っこいところもあるのかもね。私にはぜんぜんだけど、鈴原さんには気を許している感じがする」


「そうですか? 長瀬さんはけっこう、だれにでもあんな感じだと思いますけど」


明るいというか、元気というか、朗らかというか。隣で仕事をしている身としては以前はまた違う気持ちもあったのだけれど、わたしの中の長瀬さんのイメージは、だいたいそんなところだ。まあ、多少いいかげんなところはあるけれど。

そういう意味では、たしかに須藤さんとは相性は良くはないかもしれない。

もしかして、嫌いなのかな。


「べつに、嫌っているわけじゃないのよ。積極的に嫌う理由もないし」


「・・・・・・わたし、わかりやすかったりします?」


「そうでもないけど。まあ、校正仲間じゃない」


正誤を見極めるプロは、人の心まで見抜くプロになるのかもしれない。昔須藤さんによく注意されていた頃は、そのたびに射すくめられるような気持ちだったけれど、それも案外、間違っていなかったのかもしれない。


そろそろ始まるねと言われて時計を見れば、もうあと少しで午後の仕事時間だ。

須藤さんのような急ぎの仕事は回されてこないが、わたしが仕事をさばききれなくて万一須藤さんにしわ寄せがいってしまったりした日には、目もあてられない。

机の上のゲラの中身を思い出しながら、紙コップをゴミ箱に落とす。


「そろそろ、雨の時期ですね」


自販機にもたれて、そうねと返す須藤さんは、忙しくないはずがないのに、なんというか、たたづまいだけなのに仕事のベテラン、という貫禄がある。少なくとも今のような校正の仕事は続けられそうにないけれど、わたしもいつか何かの仕事で、あんなふうになれるんだろうか。

首元にぶら下がったネームプレートがいつまでも板につかない。派遣の今はともかく、正社員時代を思い出すと、わたしは今でも胃の辺りが酸っぱくなる。


『なんでこんなことくらいできないの』


嫌なことを思い出してしまった。

お先に戻りますと声をかけて、わたしはタイルの床に足を踏み出した。



「鈴原さん、最近何かあったんですか?」


今度は仕事中に長瀬さんから言われて、苦笑した。今度こそ、わたしは顔に出やすいタイプなんだと確証した。もう、笑うしかない。いや、笑いごとじゃないか。


「んー・・・・・・。まあ、あったかな。あ、恋愛系じゃないよ?」


先回りしてくぎを刺しておくと、案の定長瀬さんは「なーんだ」と盛大にため息をついた。


「鈴原さん、彼氏いないんですか? もったいない」


「今はいない。ていうか、仕事中ね」


「はーい」


PC作業の手を止めずに声だけで答えると、それ以上深追いせずに長瀬さんも画面に向き直った。やれやれだ。でもまあ、内容は相変わらずだけど、以前に比べてここ最近、長瀬さんとの会話の雰囲気は柔らかくなった気がする。一度ランチに誘われたこともあって、あのときは実家に連絡する用事があったので断ってしまったのだけれど、次に誘われたらどこかに連れていってもらおうかなんて考えている。


あまりに地味だったせいかあんまり記憶にないけど、大学で書いていたレポート課題を思い出した。そういえば、卒論もずいぶん苦労したな。自覚はあるけれど明るい性格ではないし、対人関係に積極的でもないので、自由なキャンパスライフでこれという友人関係がなかった。ラインもいちおう残っているけれど、就職して1年も経つと、ほぼお互いに連絡することもなくなったし。


画面の数字を目で追いながら、ふと中村さんと、友美の顔が浮かんだ。

そして隣の、長瀬さんの。


思えば、社会人になってからこういう関係ができるのって、初めてなのかもしれない。お世辞にも要領がいいとはいえなくて、毎日を過ごすことだけが精一杯で。

なんだか、あの高校時代を思い出してしまう。特別な理由なんてなくてもそこにいることが充実していた、あの頃を。社会人になったぶん、もちろん同一ではないけれど。


ふと、佑都くんを思い出した。

あの子は今頃、どうしているんだろう。


学校に行けないという経験がないわたしには想像もできないし余計なお世話だけど、寂しかったりするんだろうか。あの折り紙たちは、ちゃんと居場所があるんだろうか。たった数回の短い時間だったのに、今でもときどき、思い返しては胸にちくりとした痛みがはしる。

たぶん。わたしはあの子に、いつかの自分、「フツウ」になれなかった自分を、重ねてしまっていたんだろう。だからこそ、あのとき何も言えなかったことを、そしておそらくもう言えることもないだろうことを、こうして忘れられないでいるんだろう。


「フツウ」になれないこと。叶わなかった夢。

今となってはべつに感傷的になることもないけれど、そんな言葉が泡のように浮かんで消えた。


「ひいっ!」


突然隣から悲鳴がして、びっくりして振り向くと、顔をひきつらせた長瀬さん。


「何? どうしたの?」


「・・・・・・打ち込むデータ、間違えてました・・・・・・これ、今日中のやつで・・・・・・どうしよう、間に合うかな・・・・・・」


あらら・・・・・・。

慣例というか通例というか、派遣のひとが残業となると、いい顔はされないだろう。

画面を確認して、案件の内容に目を通す。


「こっちと代わってもらえる? わたしのほうでそれ、もらうから」


ただし、今回だけだよ?とダメ押ししておくと、「鈴原さん、今度必ずごちそうさせてください・・・・・・!」と、けっこう本気でうるんだ目を向けられた。

ちょっと甘やかしちゃったかなとも思ったけど、一回くらいは、いいよね?























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