25.思惑
一瞬の間。場が凍る空気。
あのとき確かに、音が消えた。
立花さんたちの視線がどこを向いていたのか、わたしからはわからなかった。
おそらく、わたしたちのほうを向いて話すようなことはしていない。
けれど、その口調に込められた明確な侮蔑と悪意を、肌という肌で感じていた。
名指しされたわけではない。
自意識過剰と言われればそれまでだけれど、それでも「名前負け」という言葉は、
わたしが一番聞きたくない言葉だった。
そしてそれは、知り合ってほどなくしてから、友美も知っていることだった。
「・・・・・・行こ」
通学鞄に手をかけながら友美がいう。普段めったに見せない、険しい顔で。
なんとか蚊の鳴くような声で相槌を打って、ペンケースをしまう。
一瞬見えたミッフィーの柄が、いつもと違う色で目に映った。
「てかさ、そういうのに限って自覚ないんだよねー。なんていうの、名前に合うだけのことしてないっていうか、してもムダっていうか、イタイよねー」
「わかるー。頼ってばっかで、結果出てないんだよねー、ウケる」
罠だ。利口でないわたしにも、これくらいはわかる。
自分たちでは、友美に勝てない。仮に目を付けたところで、クラスには友美の周りを押しのけて加担するような勢力もいなければ、そんなことに割く時間がある子もいない。仮にいても、手間の割には得が少ない。割に合わない。
何より、自分たちでは人望もあり、運動すらも含めて成績優秀で、
体育系の先輩からも幾度も勧誘されているような、友美には勝てない。
正面から攻撃しても、負けるだけ。だったら、弱い方を狙うほうがいい。間接的な攻撃でしかなくても。
そんなことまでわかっているのに、いや、わかっているからこそ。
自分の瞼が唇が、震えてしまっている。それを、どうにもできない。
反論すれば、「そっちの話じゃないんですけど?」という罠にはまる。立花さんたちのやり方は、ありきたりだけれど、利口だった。
「大丈夫、のぼりん?」
「ううん、別に・・・」
友美にだって、もちろんそんなことはわかっている。
だからこそ、自分に向けられた悪意など意に介さず、わたしのほうを向いてくれている。ああ、わたし、今、きっとひどい顔をしている・・・そう思った。
「帰り、スタバ寄っていかない? 限定のやつ出たらしいよ」
先程の表情とはちがう、いつもの笑顔の友美がいう。その顔は本当にいつもと変わらない。雑音は耳に入れない。
切り替えの早さも、友美の強さだった。
大丈夫だ。ここを出れば、きっと大丈夫。そう思った。だからあのときわたしは、ほんの少しだけでも、笑えていたと思う。
少し持ち直したわたしは、ようやく立ち上がって、歩き出す。
後ろからは、もう何も聞こえない。
机の合間を縫って、友美が教室の扉に手をかけた。そのときだった。
「登理さんって、めずらしい名前してるよねー」
またしても。またしても、立花さんだった。
ゆっくり振り返ると、ニヤニヤ笑う取り巻きの女子たちと、笑っているけど目がまったく笑っていない立花さんがいた。
そしてそれまで、こちらに向かって一度も呼んだことがない、わたしの名前を呼んだ。友美は、たぶん振り返っていなかった。
「言われたことない? めずらしいって」
「・・・ある・・・かな・・・」
「何、自分のことなのにわかんないの? やっぱ天然? ね、言われたことない?」
「ない・・・かな」
「かなって何? はっきりしたらー? もったいないよー、せっかくカッコいい名前なのにー」
言われながら、ああ、このセリフに( )をつけたらいろんな言葉が入るんだよなと、もう慣れてしまおうと思うたびに思っていたことをまた思った。
今日はついてないな。そんな言葉しか、思いつかなかった。
突然後ろから、バンッ、と叩きつける音がした。友美が、鞄を机に叩きつけていた。
「汚ねえ真似してんじゃねえよ」
普段の友美とはまったく違う、ドスすら効いたような低い声だった。
剣先のように尖った目は、まっすぐに立花さんたちに向けられていた。
その目線にひるんだのは、わたしだけではなく、立花さんたちもだった。
けれど、彼女たちの思惑には近づいた。真っ先に態勢を立て直したのは、立花さんだった。
「は? 何が? うちらが何かした? ウザいんですけど」
周りの女子とは違い、正面から薄笑いを浮かべて、友美を見ている。
相手がようやく思惑通り、罠にかかったという優越感が透けて見えた。
ここで友美がわたしのことを引き合いに出せば、事態は泥沼だ。
「自意識過剰」「自覚あり」、両方か、良くて片方の烙印は免れない。
当人であるわたしが何も言えずにいると、友美がふうっと息をついて言った。
「あたしもあんたらが死ぬほどウザい。気が合うね」
今までに見たことがない、冷ややかな笑み。
傍にいたわたしですら、射すくめられたように固まってしまった。
それは、立花さんたちも同じだった。
教室に広がる沈黙が、その証だった。
「・・・・・・んだよ」
「は?」
「あたしは鈴原にきいてんだよ! あんたじゃねーし!」
立花さんのそれは、半ば怒鳴り声にも近かった。取り巻きの女子は、あきらかにうろたえている。
「ねえ鈴原、あんたの名前って、もったいなくね? 保護者まで付いちゃってさ」
もはやこちらへの敵意を隠そうともしない。
捨て鉢といってもいい、わたしたちへの、わたしへの攻撃だった。
友美は口を開かなかった。ただ、立花さんを見据えていた。
長い、というより、土砂のような大量の時間が流れた、気がした。
口の中に苦みが、酸っぱさが広がる。でも、そんなことは関係ない。
何か言わなくちゃ、言わなくちゃ・・・・・・、
でも、わたしは・・・・・・・・・・・。
「・・・・・・そう・・・・・・かな」
ようやく口から出たのは、肯定とも否定ともつかない、何にもならない言葉。
つんとぼやけ始めた視界に、一転してニタニタ笑う立花さんたちの姿が目に入る。
そのときの友美の顔は、見ていない。見ることが、できなかった。
間をおいて、友美がわたしの手を引き、わたしたちは教室の外にいた。
中からは、笑い声が響いていた。
無言の友美と一緒に並んで歩く靴箱までの道のりが、遠かった。
吐く息も、体中も、今まで背負ったどんな荷物より重かった。
いっそどこかで動けなくなりたいと思った。わがままなことに、いっそここに置いていってほしかった。
友美の我慢を、勇気を、わたしへの信頼と友情を、他でもないわたしが、
裏切ってしまった。この重みは、その重さなのだと、気づいていたから。
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