24.氷雨

「雨・・・?」


 さーっと落ちてくる雨音。天気雨だった。


「え。わたし、傘持ってないんだけど」


「のぼりん落ち着け。どーみても天気雨じゃん。すぐ止むよ」


「かな。微妙にさっきより空暗くなってきてない?」


「んー? あっちのほう、思いっきり晴れてんじゃん」


 何かにつけてうろたえやすいわたしと違い、友美はいたって冷静だ。

言われてみれば、ほんとうに暗くなってきたのかどうかすら怪しい。


 チチチと、スズメの鳴く声がした。

ふたりで窓の外を眺めていると、天気雨とはいえ、グラウンドにはだんだんと水が広がっていっていた。


「えー、マジやばくない!? 降ってきたよ!?」


「傘持ってないし! だるっ!」


 教室の端から聞こえてきた大きな声に、思わずびくっとしてしまう。

わたしと同じく、補習の課題を出された、立花たちばなさんのグループだ。

別に何がどうというわけではないけど、何かに対して「うざっ」と言っている声がよく聞こえ、休み時間も大声でコスメの話をしている彼女たちが、正直わたしは苦手だった。

 一学期の放課後、「にしてもうちの男子、終わってねー?」と、その男子たちの前で話しているさまを見た友美は、「あのひとたち、何しに来たんだろうね」と、めずらしく(たぶん本気で)眉根を寄せていた。


「しばらくここで待機かな・・・」


「大丈夫、のぼりんのが終わる頃にはとっくに止んでるって」


「・・・それ、わたしが長引くって意味じゃないよね?」


「あはは、冗談冗談。あと、あたし折りたたみあるから大丈夫」


 からからと笑う友美に対し、相変わらずかと呆れてしまう。


 半年ほどの付き合いでわかったのだけど、友美はときどきこういうブラックジョークを飛ばす。かわいい顔して文武両道で、まさに玉にきずというやつだ。


 初めてそれに被弾したとき、わたしがそれを本気にして、友美が大慌てで平謝りしてきたのも、そのころにはもう思い出だった。表情を硬くしたわたしに、最後はあの友美のほうが泣きそうになっていた。

 本人がいうには、「兄貴がなんていうか皮肉屋」で、言い合ううちに、くせになってしまったのだという。反省はしているらしいけれど、気を許した相手に限って、ときどきこうして素が出てしまうらしい。


 ちなみにその日は、スタバで季節限定の、一番高いフラッペをごちそうしてもらった。「お腹空いちゃったからドーナッツもつけていい?」と冗談で聞くと、「はい、もうどうにでもしてください・・・」としおらしくしているので、それはそれでかわいくて、正直もうちょっといじわるしてやろうかとも思ったのは内緒だ。


 初めての授業で、数学担当の内藤ないとう先生は、「数学は、数字と条件と公式のパズルです。二学期が終わる頃には、僕の言っていることの意味が皆さんにもわかります」と、たしかそんなことを言っていたけれど、少なくとも、例外はある。

 つまり、わたしのような子たちのことだ。いや、今はそんなことを言っている場合じゃない。今つまづいているのは、テスト前に友美に教えてもらった、悪魔のように難しい、不等式の問題なのだから。


「あー、のぼりん、ここじゃない?」


「へ?」


 つまらないことを思い出していて、変な声が出てしまった。

幸い友美は気づいた様子もなく、「ここ、ここ」と、返却された答案をとんとん叩く。


「ぜんぜん違うっていうわけじゃないんだけど、途中でがくっとミスってるよ。時間か何かで、あせったんじゃない? ここ、両辺がマイナスだから、不等号が逆だよ」


「え・・・」


「ここの、-3と、4のところ。ここで両方にマイナス掛けるんだから、3とマイナス4で解かないと、話が変わっちゃうよ」


「あ・・・。ごめん、忘れてた。友美、一瞬だったね」


「のぼりん、文系は成績いいのにね。あたしからしたら、古典の文法なんて覚えてるのぼりんのほうが異次元だよ」


「んー・・・。物語だと、なんか自然と入るんだけど、数学の応用って、次から次にキリがないから・・・」


「おんなじことだよー、『これはこういうもの』ってパターンを押さえて、あとは解を求めるだけ」


 微妙に話がかみ合わない気もするけれど、残りの部分は、友美の指導のもと、わりとスムーズに解くことができた。「ほとんど方程式と同じだって」という友美に、「ごめん、その方程式の時点で今パニくってるかもしんない・・・」とぶり返すありさまだったけれど、「そこ?」と言いつつ、嫌な顔もせずに教えてくれる存在がうれしかった。


「OK? んじゃ、次いこ、次。・・・あー、ここは」


「ってかさ、貴人たかひとの新曲聞いた!? めっちゃ良くね!?」


「聞いたー! マジ貴人って感じだよね! 名前からしてとうといもん!そのまんま、マジ推せる!」


 例によって、立花さんたちのグループだった。

一瞬眉根をよせた友美だったけれど、すぐに表情を戻す。「ほっとこう」と、目が言っていた。


残りの問題は一問だった。そして友美はいつも通り教えてくれるのだけど、立花さんたちの声がその日に限ってとぎれることがなくて、なかなか頭に入らない。

 昔から、なんていうか、ああいう言動が派手なひとたちが苦手だった。友美に反応する声が、ペンの動きが、少しだけ小さくなっていく。


「ねえ、静かにしてくれない」


 友美だった。

驚いて顔をあげると、友美はまっすぐに教室の後方を見ていた。

 立花さんたちのほうを。


 まだ、雨の音がしている。

少しだけ、空が暗くなった気がした。


「は? うちらも勉強中なんですけど?」


「そう、何の勉強? どっちにしろ、進んでなさそうだけど」


 音のなくなった教室の中で、自分の鼓動の音が聞こえてきそうだった。

時が止まる。友美のネクタイを見つめるしかできない。

 空いた教室の中なのに、息が、苦しい。


 後ろを振り返ることもできなかったわたしが聞いたのは、だれかの舌打ちと「うざっ」という声だった。


「帰ろ、のぼりん。あ、雨か。いいや、あたしの貸すから、一緒帰ろ」


 こちらに向き直った友美が、いつもの笑顔で言う。

苦いものがこみ上げてくるのを押さえながら、「そうだね」と、無理やり笑顔を作る。気のせいでなく、背後からの視線が痛い。だというのに、友美は何も気にしていないようで、涼しい顔で片づけを済まそうとしている。


 遅れて、わたしも慌ててそれに続こうとした。

ノートを閉じ、教科書をしまう・・・そのとき。


 教科書の角に当たったペンケースが落ちた。

木の床に、ペンが散らばる乾いた音がした。


「ちょっと、のぼりん・・・」


 苦笑する友美の声。

「あ、ごめん、すぐ拾うから」と、慌てて散らばったペンを拾おうとしたとき、後ろから声がした。


「そういえばさー、貴人の逆で、名前負けしてる人っているよねー」












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