14.波風

「今日の分は、終わりかな」


 最後のデータをテンプレート打ち込み、見直し前に後ろにのけぞる。

背中を預けられた椅子の背もたれがギギギ、と鳴る。


「あ、鈴原さん、終わりました? やっぱり早い!」


隣の席の、長瀬ながせさんが声をかけてくる。

あ、この声音こわねは、嫌な予感が・・・・・・。


「私なんて、まだ終わりそうになくて!こっちのぶん、少ししかないから、お願いしてもいいですか?」


 担当者名に「営業・中川なかがわ」と書いてあるレターケースから、

長瀬さんが三十枚くらいの束を出してみせる。


「それくらいなら・・・」


 というと、ありがとうございますー!と、長瀬さんが笑った。


 いろんな意味で、微妙な量だ。たしかに、そんなに時間もかからない。


 けれど、これは本来、わたしの分の仕事ではない。

彼女はたぶん、夏休みの宿題は後半戦に持ち込むタイプなんじゃないかなと、勝手にそんな想像をしながら、名刺の束を受け取る。


 長瀬友美ながせゆみさんはほとんどわたしと同時期に入った同世代の派遣の人だけど、正直わたしに比べると仕事のペースが遅い。


 別にめちゃくちゃ多い、というわけでもないのだけど、時々こういう「あと少し」の仕事を持ってきて、次の日に「お礼」を(たいていちょっとしたお菓子)を持ってくる。


 ここに勤め始めて間もないころ、わたしが残って作業していると、半泣きで援護を頼んできた。それ以来、たまに仕事を手伝うような格好になってしまった。


 もちろん最初のほうの、あからさまなは上司の目に留まり、注意はされた。その結果、たまにこうして小さなが来るようになった。


 わたしが波風を立てたくなくて断らないのを見てか、社員の人も何も言わなくなった。もちろん、良いことではないとわかっているのだけど、こういう「ちょっとした」ものを断るのは、「ちょっとした」である分、どうにも難しい。


「あー終わった! ほぼ時間ぴったり!」


 それを正社の人の前で言うか。たしかに定時に近い終わり方ではあるけどさ。


 長瀬さんが早々に「お疲れ様でーす!」と帰っていくのを、ぼんやりと見送る。

こういう展開になるのはだいたい金曜日だし、まあ、そういうことなんだろうな。

 毎度のことながら、いいように使われているのがわかって、気分がいいものじゃない。


「鈴原さん、これ、来週の」


 振り向くと、編集部の宮原一樹みやはらかずきさんだった。

受け取った書類の束に、ざっと目を通す。概要と、納期にざっと目を通す。


「見ての通り、早くもないけど、遅くもないやつ。三崎みさきさんのあの稿は刷り終わったらしいから、来週からこっち、援護頼むわ。中途半端な時間に悪いけど、企画だけ見といて」


 分かりましたと言うと、宮原さんは手をひらひらさせながら、デスクに戻っていった。


 宮原一樹さんは、編集部の人だ。たぶん四十歳くらい。


 主に教材を担当していて、作家さんとのやり取りや締め切りの関係で、よく居残っている。だいたいの編集部の人がそうだけど、休日出勤もけっこう多いと聞いている。編集部でも一目置かれていて、編集長からも難しい仕事を割り当てられていることが多いらしい。


 騒がしい編集部の中でもどこか淡々としていて、なんというか、掴みづらい雰囲気がある。なのに、仕事に入ると、オーラというか、他の編集者さんと比べても、なんというか、研いだ刃物のような雰囲気がすごい。


 宮原さんが近くのコンビニの外で、煙草を吸いながらぼんやりとサンドイッチを食べているところを見たことがあるけど、別人のようだった。ちなみに、他の同僚の人とと外でいるところを見たことはない。


「緊張するなあ・・・・・・」


 思わず声が出る。


 わたしが派遣される少し前。四十代のベテランの校正士、都築良子つづきよしこさんが、退職することになった。ご実家のお父さんの介護がお母さんにのしかかり、いったんこの業界から去ることにしたのだという。


 その後、宮原さんが一時期、編集者と、校正・校閲の仕事を同時にこなしていたという。要するに、すごい人だ。


 その話を聞いた時、単純にすごい人がいるなと思いつつ、そんな働き方をして大丈夫かなとも思った。宮原さん曰く、業界ではそんなにめずらしいことではないらしいけれど。


「鈴原さん、校正やったことあるんだっけ。たまにその手の本、読んでるよね」


 半年とちょっと前、いきなり佐藤幹夫さとうみきお編集長から話をされたとき、「校正」という言葉を久しぶりに聞いた気がした。


「校正士の資格はないですけど、実務講座は修了しました。あと、何回か、小さな案件であれば・・・・・・」


こちらが言いよどんでいるうちにそうかそうかと何度かうなずいて、佐藤編集長が続けた。


「元の契約にない内容だから変則で、ということになってしまうんだけど。もしよかったら、ちょっと頼まれてくれないかな」


 退職するまでは、都築さんを中心に、もうひとりの校正士、須藤時音すどうときねさんもチェックしてくれる。

 なので、会社都合の契約内容の変更になるけど、週四日契約のところを、月に二~三週ほど、五日出勤してくれないか。その際に、「適宜、校正」もお願いできないか。「鈴原さんなら、うちの会社のこともわかっているし」と、そういう話だった。


 もともと自分で言い出したこととはいえ、週四日より、五日が混じるくらいが、収入としてもありがたい。それに、単純に考えれば、例えば派遣契約の三年間を使って都築さんの後継者を育てて、正社員登用、という話かと思った。

というか、思っていた。


 だけどその期待は、続く言葉で消え散った。


「じつはちょっとしたご縁で、遅くても来年の半ばには、信用できるベテランの校正士の方が来てくれるんだけどね。ご家庭の事情で、来年度までは確実に動けないらしいから、頼めないかな。須藤さん一人に負担がかかるのも悪いし、鈴原さんの今後のためにもなると思うんだけど」


 こういうとき、「ご縁」とやらをどう解釈して、どう返答すればいいのか。


 前にも言ったけど、わたしはとっさの出来事に弱い。気づけば、とまではいかないけれど、けっきょくその足で、佐藤編集長と一緒に、都築さんと須藤さんに、挨拶周りをしていた。


 わたしの「今後」が、ここにはないと知りながら。


「編集長の先輩の、娘さんらしいよ」とは、もう少し後から聞いた、須藤さんの言葉だ。








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