第364話 魔物に慣れるまで

「翼ちゃん、頑張って!」


「う、うん!」


翼は今、初めての魔物と向かいあっている。

ダンジョンという東京とは違う景色を見ながら楽しそうにここまでやって来た翼だが、狼が現れた事で初めての指導を開始する事になった。


相手は狼の魔物が一体だけなのだが、緊張した面持ちで火蓮の応援に返事を返した。

大丈夫とは言われていても、翼の感覚は防具をつけていない丸腰なのである。


火蓮は、翼の不安そうに狼と向き合うその光景に懐かしさを感じながら、黎人と並んでまるで授業参観のような気持ちで見守っている。


「ガウ!」


狼が先手を取って翼に飛びかかった。


「うっ!」


翼は、練習では勢いよく正拳突きを繰り出していたのに、目を瞑って身を守るように両手をクロスして立ち尽くしてしまった。


「ナイスファイトですよ! 翼ちゃん!」


火蓮の声に翼が目を開けると、狼は目の前からいなくなっていた。


100mほど離れた場所に、遅れてどさりと狼が落下してくる。


「え?」


目を瞑った間に起こった状況の変化に、翼は無意識に疑問の声が漏れた。


「翼ちゃん、ナイスガッツです! 私は初めてあの狼に飛びかかられた時には腰が引けて尻もちをついてしまいました! なのに翼ちゃんは立って防御の姿勢を取ったんです! 頑張りましたね」


火蓮がそう言って微笑みながら翼の頭を撫でるが、表情の変化が分かりにくい翼でも分かるくらいに翼は戸惑って狼が空から落ちてきた方と火蓮を交互に見てもう一度「え?」という戸惑いの声を漏らした。


その様子に、離れた所で見ていた黎人は苦笑いで補足と指導をする為に翼に話しかける。


なぜあんなに離れた場所に狼が落ちてきたかというと、翼が目を瞑った後に、火蓮が狼をからであった。


それはもう高い高い上空まで飛んだ狼は、放物線を描いて100mほど先に落下したのである。

翼が目を開いてしばらくしてから落ちてきたのを考えれば、どれだけ高く飛んだかは分かりやすいであろう。


「翼、お前の兄姉きょうだい弟子もみんな初めは魔物を怖がっていたんだ。火蓮もな。 翼と違って武器を持っていたのに、火蓮は尻もちをつくくらいに怖がってな。それでも、一人前の冒険者になる事ができた。日本は平和だからこそ、喧嘩も少なければ動物に襲われる事なんて滅多にない。武道を習っていてもヨーイドンで始まる競技だ。それが悪いわけじゃ無い。秩序がある証拠だからな。だけど、ダンジョンの中ではそうはいかない。だから、慣れるしかない。先ずは一体。倒せるようになるまでは俺と火蓮が全力で守ってやる。だから、目を瞑ってもいい。どんどんチャレンジしていこう」


翼はあの狼は火蓮が蹴飛ばしたのだと聞いて目を見開いて驚いていたが、そんな火蓮もスタートラインは同じだったと言われてやる気をだした。


まずは、狼が飛びかかってきても目を瞑らないように。

それまでにどれだけの狼が空を飛ぶのかは分からないが、翼の指導はこうして始まった。


「そろそろお昼にしましょうか!」


まだ翼は一体も狼を倒せていないのだが、恐怖感が少しマシになってきた頃に火蓮がそう提案してきた。


「でも、火蓮さん私はまだ一体もたおせてないです」


「何も今日一気に成長しないといけないわけじゃないさ。ゆっくり、安全に。だけど一歩一歩成長すればいい。翼は最初よりもちゃんと狼を最後まで目で追えるようになっている。攻撃できるようになるのももうすぐさ。それよりも、腹が減っては戦はできないからな」


翼は、黎人の説明に少し不満を覚えながらも、ゆっくりと頷いた。


「で、火蓮さんは何をしてるんですか?」


翼は目の前で鼻歌を歌いながら空間魔法の中からレジャーシートやお弁当の入ったバスケットなどを出してダンジョンの草原の真ん中でお昼ご飯の用意をし始めた火蓮に向かってそう質問するのであった。



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