02:婚約破棄から始まった

「どうか……どうかお聞きください、デルニス様」

 ルーシェは一縷の望みを賭けて自分の胸に手を当てた。


(スターチス嬢は至って元気な上に無傷だわ。彼女の言う通り、わたしに突き飛ばされて階段から落ちたなら、かすり傷一つ負っていないのはおかしいでしょう?)


 そんなことはみんなわかっているはずなのに、それを指摘する者は誰もいない。

 皆が打ち合わせたかのように――いや、愉快そうな表情を見る限り、本当に打ち合わせ済みなのかも――ルーシェに濡れ衣を着せようとしている。


 この学校に通う生徒たちは誰も彼もがルーシェの敵だ。

 心が折れそうになるが、ルーシェは内心で歯を食いしばって己を鼓舞した。


(なんといってもわたしは彼の婚約者なのだから、心から訴えればわかっていただけるはず――)


「誓ってわたしは何もしていません。わたしはただ、踊り場で倒れているスターチス嬢を見つけて介抱しようと――」


「黙れ!! パトリシアを散々傷つけた貴様の声など聞きたくもない、いまこのときをもって私は貴様との婚約を破棄する!!」


「………!!」

 微かに抱いていた希望は粉々に砕け散った。


「父上の承認は得ている!! ここ最近、貴様の素行が目に余るため、休暇日に私は城に戻って父上に訴えたのだ!! 父上は私の訴えに耳を傾け、クライン公爵と公爵夫人を呼びつけて正式に婚約破棄の手続きを行ってくださった!! 後は私の意思次第だったのだが、もう我慢ならぬ!! 貴様のような悪辣非道な女との結婚など冗談ではない!! 私はパトリシア・スターチスを新たな婚約者とし、彼女に《国守りの魔女》の称号を与える!!」


 腕を振ってのデルニスの宣言に生徒たちがどよめき、パトリシアが目を丸くした。


(デルニス様は国王陛下から《国守りの魔女》の称号を譲る権限まで与えられたというの?)

 ルーシェもまた信じられない思いでデルニスを見つめた。


「デルニス様、それは本当ですか? 私が名誉ある《国守りの魔女》に?」

 喜びに弾んだ声でパトリシアが問う。


「ああ。君は忌々しいこの女に次ぐ魔力の持ち主だからな。《国守りの魔女》の務めも果たすことができるだろう」

「はい、私、きっと立派にお役目を果たしてみせます!」

「素晴らしい心意気だ。この国の未来を頼むぞ」

 にこやかに言って、デルニスはパトリシアの頭を撫でた。


「デルニス王子殿下、パトリシア様、ご婚約おめでとうございます!」

「新たな《国守りの魔女》様、どうか我々をお守りください!」

 拍手と歓声が起こる。


「私、皆様のために頑張ります!!」

 パトリシアは立ち上がり、キラキラした笑顔を振りまきながら頭を下げた。


「まあ、なんて素直で可愛らしい笑顔なのかしら」

「本当に。どこかの《人形姫》とは大違いね――」

 より大きな拍手が起こり、その狭間で嘲笑の声がする。


 デルニスはパトリシアの腰を抱いて寄り添い、二人は幸せそうな笑顔を浮かべた。


 まるで一人世界に取り残されたような気分だ。


(わたしの努力は何だったのかしら……)


 ガラガラと音を立てて足元が崩れていく。

 全身が腐り落ちていくかのような激しい疲労感と脱力感。


《国守りの魔女》として選ばれてから五年間、ルーシェは毎日欠かさずエルダーク王国の平和と国民の安寧を願ってきた。


 眠っているときも、病にかかって高熱に魘されたときも、国の守護結界だけは気力と根性で維持し続けた。


 しかし、もう頑張る必要はないらしい。

 ふっと肩から力を抜き、ルーシェは国全土を覆っていた守護結界を解除した。


 これでエルダークは魔獣に対して無防備になったわけだが、後は国軍とパトリシアの仕事だ。もう自分には関係ない。


(泣いては駄目、冷静に、冷静に――)


 爪が皮膚に食い込むほど強く拳を握り、湧き上がりそうになった感情を抑え込む。

 ルーシェが激しい感情を抱けば


(平民であるわたしを引き取り、育ててくださったお父さまとお母さまの顔に泥を塗ってはいけない。どんな時でも淑女としての振る舞いを忘れず、優雅に、上品に。これが最後だというなら、なおさらきちんとご挨拶をしなければ)


 ルーシェは立ち上がって微笑み、制服のスカートを摘まんで頭を下げた。


「婚約破棄と《国守りの魔女》の解任、承りました、デルニス様。五年もの間、幸せな夢を見せていただき、ありがとうございました」


「私にとっては悪夢だった。卑しい平民風情が。貴様の顔を見ていると気分が悪くなる」


「……デルニス様。仮にも王子が平民を侮辱してはいけません。平民は国を支える基盤、蔑ろにするなどあってはならないことです。それに、いまのわたしはクライン公爵家の養女で――」

 さすがに黙っていられず、嗜めようとしたが。


「ああそうだ、言い忘れていたがクライン公爵から言付けを預かっている。『婚約破棄されたお前に価値はない。養子縁組は解消した。二度と家に近づくな』とのことだ」

 もっともルーシェを傷つけるタイミングを狙っていたのだろう、デルニスは衝撃的な事実を口にした。


「――――」

 あまりのショックで視界が暗くなった。

 クライン公爵は王家と繋がりを持つために《国守りの魔女》となった平民を養女に迎え、政治の道具として利用しただけ。


 愛されてなどいないのはわかっていたつもりだったが、やはり現実を突きつけられるのは辛かった。


「ふん、いい気味だ。悪女の末路には相応しい」

「デルニス様、そんなに笑っては可哀想ですわ」

 被虐に満ちた笑みを浮かべたデルニスの袖をパトリシアが引っ張った。


「パトリシアは優しいな。やはり君こそ私の運命の人だ」

「まあ、そんな」

 頬に口づけされたパトリシアははにかみながらこちらを見て――デルニスには気づかれぬよう、はっきりと嘲笑した。勝ち誇ったような笑み。


 堪らずルーシェは顔を背け、逃げ出すように踊り場を後にした。


(これからどうしよう――)

 生徒たちの声や拍手の音をどこか遠い世界の出来事のように感じながら、途方に暮れる。


 養女としても婚約者としても《国守りの魔女》としても不要だと断じられてしまった。


 ルーシェが学校を卒業するまであと一年。クライン公爵は最後まで面倒を見てくれるだろうか。


(……そんなわけないわね。家に帰るどころか近づくなとまで言われたのだもの。既に退学届は出されていると考えるべきよ)


 打たれた頬が痛む。

 長い銀髪を揺らし、幽鬼のように、ルーシェはふらふらと階段を下りて行った。


(《国守りの魔女》には国から多額の報奨金が支払われているけれど……全額お父さまたちの懐に入っているのでしょうね。わたしがいま持っているお金はお小遣い程度の額しかないわ。何をするにもお金が必要なのに、この先どうやって生きていけばいいのかしら――)


 ふと、頭に浮かんだのは懐かしい孤児院。


 五年前、クライン公爵に手を引かれて孤児院を出てから、ルーシェは一度も帰っていない。


 クライン公爵に「お前はこれから公爵家の養女として生きていくのだから、過去のことは全て忘れろ」と命じられ、過去との繋がりは全て絶たれてしまった。


(……ジオは元気にしているかしら?)


 何故だろう、ルーシェは彼に会いたくて仕方なかった。

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