フリル戦記

脱水カルボナーラ

第1話 暁に発つ

 紫色の空、緑色の雲。蠢く野菜。昨日入学式を終えたばかりの少年は今、体を猛毒に蝕まれて、呆気なく短い人生を終えようとしていた。

「死……死ぬ……」

視界が狭く暗くなっていく。死にゆく少年の双眸が最後に捉えたのは、野菜の怪物とはまた別の、奇怪な頭部を持つ化け物の姿だった。

「間に合ったな。今助けてやる——」


「おいとしお、起きろ! そろそろ起きないとヤバいぞ」

父の大声で、としおと呼ばれた少年は目を覚ました。

「うるさいな……もう少し……」

まだ夜の暗さが残っているにも関わらず叩き起こされたので、としおは不機嫌そうにもう一度布団を被ったが、父は力づくでそれを引き剥がし、まだ冷える春の朝の冷気に息子を晒した。

「お前、今日入学式だろ?」

父はにやりと笑ったが、としおはむしろ真っ青になった。

「あああああ——って、まだ朝の四時じゃん! こんな時間に起こすことないだろ!」

時計と、まだほんの少ししか水平線から顔を出していない太陽を見たとしおは、頭を抱えた。

「仕方ねぇだろ。これでもギリギリだぜ。お前の学校までざっと片道五時間はかかるからな」

「ふざけんなよ! なんでこんな今にも沈みそうな島で子育てしようって思ったんだよ!」

としおの悲痛な叫びは面積500平方メートルにも満たない、彼と父のみが暮らす小さすぎる島に目一杯広がった。穏やかな海と、時の流れに侵食された旧時代の街の骸に囲まれたここは、まさに絶海の孤島である。

「仕方ねぇだろ、安かったんだよ」

「お陰で友達いないんだけど……」

「まあまあ、晴れて憧れの都会の学校行くんだし、そこで作ればいいだろ」

「簡単に言うな!」

としおは大急ぎで支度をしながら、部屋の入り口にもたれかかっている父に吠えた。

「荷造り、昨日のうちにしておいてよかった……」

スーツケースが重たかった。これから寮に入るにあたって、すでに大方の荷物は送ったものの、結局ほとんど置いていけないものばかりで、としおの部屋はほぼ空になってしまっていたのだ。

「似合ってるじゃねぇか」

制服を着てみると、浮ついた心も引き締まったような気がした。

「あんたは似合わない……」

父のスーツ姿を初めて見たとしおは、値踏みするように頭からつま先まで一通り視線を泳がせて言った。

「なんだと!?」

「何の仕事してんだよ! たまにフラフラ外に出たと思ったら怪我して帰ってきたりしてさ、どうせ木登りとかでもしてんでしょ毎日、暇すぎ!」

「お前なぁ……俺だって命かけて働いてんだぜ? ちゃんと金だって稼いでんだぞ、それなりに」

「給与明細見せろよ、どこに雇われて何してんのかすら知らないけど……」

「ったく……どこでそんな知識手に入れてんだか」

父が頭を抱えている間に、としおはさっさと玄関口まで行って慣れない革靴に足を通してした。

「親のせいで社会的に孤立してて不安だったんだよ!」

生意気に振る舞うとしおが感じた靴の履き心地は、彼の緊張した背筋と同じくらい硬かった。

「中々親不孝なこと言ってくるな、お前……」

父は息子の思わぬ反撃に、苦笑いをすることしか出来なかった。

 親子は自分らが住む島を後にして、長い桟橋を渡った先にある、人口三十人ほどのやはり小さな島を目指した。桟橋の上で振り返ってみると、朝靄に弱々しく覆われて消え入りそうな我が家が見える。

「しばらく帰れないんだよな」

生まれ育った島と、軋む桟橋と、その向こうにある島と、そこからさらに船で渡った先にある島と、それらをいつ丸呑みにするかも分からないような広大な海のみが、としおの世界地図を形作っていた。としお自身も、画面越しでしか見たことのないような世界を目の当たりにすることに、戸惑いと期待の両方を抱いていたのだ。

 一時間に一往復しかやってこない船に乗って、すぐ向こうに見える島まで二人は向かった。数羽のカモメが、朝焼けに急かされるように鳴きながら頭上を飛んでいる。

「平和だな……」

この辺りの海域はずっと穏やかで水深も一メートル程度。高波などが起こることも全く無い。そのため定員五名の小さなボートが唯一の交通網でも全く問題がないのであった。

「どうかした?」

父が進行方向と逆の方を向いて、少し険しい顔をしているのが気になって聞いてみたが、父の方はすぐにいつもの胡散臭い余裕を含んだ顔に戻った。

「いいや! 忘れ物したかなと思ったんだよ」

「たくさんしてるじゃん。人生の」

ボートの運転手がたまらず吹き出しているのを、父は悔しそうに睨んでいた。 

 そうしているうちに、ボートが目的地に到着した。ここはとしおが知っている限りの一番大きな島で、実際この辺りの海域で一番栄えている場所である。

「久しぶりに来たけど、因幡島はやっぱり賑やかでいいな!」

「今日は寄り道してる暇ねぇよ! コンビニで朝飯買ったらすぐ駅行くぞ」

はしゃぐとしおの頭を掴むと、父はそのまま彼を引っ張って進んだ。市場はその日揚がったばかりの魚介を店先に出して賑わっている。近かったこの因幡島すら訪れたことが殆どないとしおにとっては、この朝の活気すら珍しくて愛おしいものだった。

「ああ、そうだった!」

人混みをかき分けて走るとしお達二人に驚いて、カモメが澄んだ空へと高く飛んだ。彼らが見下ろす穏やかな海は、かろうじて形を留めている街と人々の生活の骸を、どこまでも優しく包み込んでいる。この星が一度終わって、今年で千五百年の月日が経った。

 もう目的地に向かう特急の発車まで、時間が無い。急いで切符を改札機に通して、ホームまでの階段を駆け上がると、そこにはとしおが今まで乗ったことのない、銀色に輝く、滑らかな形をした特急の車両があった。

「急げ!」

父の後を追いかけ、としおも重い荷物を引きずりながら、息絶え絶えに乗り込んだ。

「あっぶな!」

としおが飛び乗った瞬間、発車のベルが朝を迎えた小さな島全体に鳴り響き、すぐにドアが閉じて、電車は海上を走り出した。動き出すと同時に、島の一番高い所にある時計台の鐘が鳴り、日の出を告げる。ここから先、としおの知らない世界が無限に広がっている。時刻は丁度午前六時。少年の新たなる門出を祝福するかのような、あまりに美しい朝だった。

「き、緊張する……」

「さっきは悠長に弁当選んでたくせに、今更何言ってんだお前」

「うるさい! 大体今までただの一回も外に連れてってくれなかったから、今必要以上に緊張してんだよ!」

「ハハハ!」

「都合が悪くなると笑って誤魔化す! もうその手は通用しないよ」

「まぁ、悪かったって。ちょっと遅くなっちまったけど、お前はこれから、沢山色んなものを見て、色んな奴に会って——いつか、お前が会ってきた人、見てきた物について、酒飲みながら語ってもらうんだからな」

いきなり頭を撫でられて、思春期のとしおは思わず、父の無骨な手を払い退けた。

「勝手に決めんな! はぁ……緊張する気すら失せた」

「はは、反抗期だなぁ」

呆れるとしおとは対照的に、父は心から楽しそうに笑った。電車は朝日に照らされて煌めく海面を滑るように、高速で進んでいる。

「うわぁ!?」

突如電車が強く揺れたので、としおは向かい合って座っていた父の方に、危うく投げ出されるところであった。

「な、なんだったんだ……?」

「なんだ? 今の、真っ直ぐな道なのに、変だなあ」

「線路の不具合かしらね? 脱線とかしないといいけど……」

としおは怪訝そうに周りを見回していたし、他の乗客も少し騒がしくなっていたが、車両の中でも、父だけは呑気に構えていた。

「まあ、なんともねぇだろ。タバコ吸ってくるわ」

「はぁ……勝手にどうぞ」

父はフラフラと立ち上がると、席を後にして早歩きで、喫煙室のある車両の方へと行ってしまった。

「勝手な親父だな、本当に」

としおは進行方向とは逆の方に視線を向けて、窓からずっと、もう見えなくなってしまった故郷の方角を眺めた。


 としおの父、零士が向かったのは、喫煙室ではなかった。始発、しかも早朝の電車ということもあって、この車両にはまだ乗客は居ない。零士は辺りを見回してから、おもむろに窓を開けると身を乗り出し、凄まじい風圧をものともせず、軽やかに車両の側面をよじ登ってしまった。電車の上には、何かが、居る。揺れの原因は設備の不具合でも故障でもないのかもしれない。

「しつけぇなあ、駅で見られてたのは分かってたけどよ。こんなスピードでもかじりついてんのかよ」

零士が話しかけているのは、人間でも、動物でもない。“何か”そのものであった。その体は黒く、輪郭の線はまるで子供の落書きのように曖昧で、さらに靄のように不定形だ。茶色くもあり、四つ這いの姿勢の人間のように見えるが、体長は三メートルほど、さらに頭部は異常に大きく、目は塗りつぶされたように深みの無い赤で、光を吸い込んで写していない。この異形の姿は、不気味そのものであった。零士は、だるそうに首と肩を動かしながら、スーツについた汚れを払った。

「聞いてんのかぁ? ま、いいか」

異形の存在は、音かどうかも怪しい、説明し難い不快感の声を発していた。

【ぐあぁ、あcい・? elこw*oさびしぉ】

「心配せんでも、すぐ殺してやる。じゃなきゃ、俺がとしおに殺されちまうよ」

【おおおぉぉいじ%+;そ*。kろぉ333】

不敵に笑う零士の手には、どこから取り出したのか、朝日に照らされて鈍く光る、銀の槍が握られていた——。

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