1. 事の起こり
「……雪になるわね」
「ん?」
部屋の片隅で本を読んでいたところ、奥の作業机に向かう黒茶色の髪をした腐れ縁の少女が、眼鏡を掛けなおして窓の外を眺めながら呟くのが聞こえた。
「まだ紅葉月の半ばだし、初雪は少し早いんじゃないか?」
「ミティオ。アンタもさっき、この時期にしてはやけに寒いって言ってたじゃない。そんな気楽なことを言ってられるのも今の内。今年の冬は……寒くなるわよ」
この国の冬は長い。冬を越すとすぐに厳しい日差しの夏が来て、束の間の実りの秋が過ぎれば、長く険しい冬が来る。このレンテラント帝国には、“春”が存在しないのだ。
そんな貴重な短い秋の只中にあって、早くも冬の訪れを予感するその言葉にはつい横槍を入れてしまうが、彼女は平然とそう答えた。
「お前が言うならそうなんだろう。しかし、今の時期から雪が降るほどなのか。厳しいな」
キリの良いところまで読み終えたところで、俺は顔を上げて窓の外を見ると、愚痴をこぼしつつ深々とため息をついた。
彼女───俺とは兄妹のように育ったモニカ・ラヴランドの勘の鋭さを、俺はよく知っている。彼女の勘はよく当たる。絶対に、とは言えないものの、その日の天気についてくらいならばそうそう大きく外れはしない。
そんな彼女が言うのだから、その通りもうすぐ一足二足くらい早い初雪が来るのだろう。
「ええ。既に薪は値上がりし始めているみたいだし、それに乗じて食料品やその他の消耗品も売り惜しむ商人が出てくるんじゃないかしら」
「悪辣だな」
眼鏡を拭いて掛けなおしながら、モニカが予測を口にする。
物の値段は冬になれば否応なく上がるものだが、こんなに早い時期から寒くなるようでは値動きも急激なものになるだろう。利に聡い商人たちの中には、それを見越して値が上がるまで在庫を抱え込むような強欲な者も多い。その方が儲かるのだから商人としては当然なのかもしれないが、とばっちりを食らうのはいつだって持たざる庶民たちだ。長い冬は人々の生活を襲い、多くの餓死者や凍死者が出るだろう。
「魔法の火さえ使えれば、あたしみたいな“紋なし”の人間でもバカみたいに高い薪を使わずに冬を越せるわ。なんとかして移民街の人たちに魔法の恩恵を受けさせたい」
彼女の言葉に、俺はつい自分の手の甲と彼女の手を見比べる。
俺の手の甲にある刺青のような幾何学的な紋様。それは魔法紋と呼ばれ、この国のほとんどの者が生まれ持っている不思議な紋章。それ自体に何かの効果があるわけではないが、その特性ゆえに“余所者”である東方移民たちの身体には存在せず、土着の民とそうでない者を峻別する逆の意味での烙印になってしまっている。この魔法紋を持たない人間は、あらゆる魔法の源となる“魔法の火”を分けてもらえない。帝国の東端に位置するこのレヴェンスの街では東方からの移民も数多く暮らしており、そうした紋なしの者たちとそうでない者たちの対立が無視できないほどに高まってしまっている。
「魔法の火があれば、変わるかい? 何かが」
「そうね。どのように変わるかは分からないけれど」
おそらく彼女の脳裏にあるのは、昨日俺が
「つまり、俺に
俺は、他人の“魔法”を奪うことができる。
この世界には特定の魔法を生まれ持つ、そんな魔法の才能を受け継ぐ者たちがいる。彼らはその才ゆえに力を持ち、多くが貴族として権勢を誇っている。俺は、そんな彼らの魔法を奪い、自らのものにできるのだ。
「言っておくが、そう簡単に上手くいくとは限らないぜ? 金庫に収められたお宝を盗み出すのとは
「……別に、そんな大それたことは考えていないわ。全ての魔法の大元になる魔力そのものを生み出す火の魔法。それさえ使うことができるようになれば、魔力の心配は要らなくなる。あたしの作る魔法具も、魔力を気にせず使い放題。あたしも心置きなく魔法具作りに没頭できる。ただ、それだけよ」
あくまで自分のためだと、ツンとそっぽを向くモニカだが、俺は彼女の心優しい
彼女の祖父は移民でありながら、この街の職人たちの間で頭角を現した細工職人で、自らの“作品”に魔法を込めた「魔法具」技術を確立した立役者の一人。その孫であるモニカもまた、師匠連中からは魔法具作りにおいては天才とも囁かれている。そんな彼女が、自らの技術でみんなを救いたいと願うのはごく自然なことだろう。
彼女の祖父に拾われ、幼少の頃を兄妹として育ってきた俺は胸の中で、気恥ずかしさを誤魔化すように三つ編みを弄っている心優しき相棒を誇る。俺だって、生まれ持って性質や偏見などのどうにもならないことで、理不尽な目に遭う人を黙って見過ごすことはできないのだ。
かつて不吉と忌み嫌われ泣いていた、とある白髪の少女の姿が脳裏をよぎる。俺にとっては命の恩人でもあるあの子がこの街の様子を見たら、なんと思うか。そう考えると───
「……仕方ない。昔馴染みの
やれやれと立ち上がった俺の言葉に、幼馴染がためらいがちに訊ねてきた。
「え……いいの……?」
「いいのも何も、お前には借りを作りっぱなしだからな。技師としても頼りっきりだし、ここらでひとつ返しておかないと後で怖い。今月の家賃代わりってことで、どうだ?」
「……バカ」
借りっぱなしはこっちの方なのに、という呟きは聞こえなかったことにする。お互い、補い合ってこその“相棒”だ。
この国の魔法を根本から支える、火の魔法を操る重鎮の貴族家。真正面から接触するのは難しいが……お忍びで出てきているのなら好都合だ。何らかの事情があるのだろうが、それも含めて、探ってみる価値はあるだろう。
「火の魔法は、王家に連なる伝統貴族だけに許された特権。使える人間も、ほぼ例外なく高位の貴族ばかりよ。敵に回したらタダじゃ済まない相手。頼んでおいて言うのもなんだけど、上手くいかなくたっていいの。アンタさえ無事でいてくれたら、あたしは……。だから、絶対に油断しないで」
「まあ、上手いことやってみるさ。それにどのみち、あの家とは一度接触しなきゃならなかったんだ。渡りに船ってもんだろ」
不安そうなモニカの頭を昔のようにポンと軽く撫でて言った。
「あっ……もう。やめてよ、お互いもう大人なんだし…………ホントに、無理しちゃダメなんだからね? そんなに急がなくても、しっかり入念に準備を整えてからでも遅くは」
「心配するな。打てる手は複数考えてるしな。調べたところによると、当の貴族様も不毛な対立の深まるこの街の現状を憂慮しているらしいし、上手くいく目は十分ある。チェレン」
少し恥ずかしげに顔を背ける妹分に和みつつ、俺が“もう一人”の相棒の名前を呼ぶと、部屋の暗がりから溶け出るように姿を現した黒い動物が足元に寄ってきた。兎のような長い耳としなやかな体躯、ふさふさとした尻尾の真っ黒な小動物。狐のようでも猫のようでもある、こちらも長い付き合いの相棒だ。
「じゃあ───行ってくる」
「あ……ちょっとっ……!」
なんでそんなに急いで、と問いかけようとするモニカの手を振り切るように
たしかに、自分でも珍しいと思うほどその足取りは早かった。何か、居ても立っても居られないような感覚を覚えている自分がいる。
「───そういえば目的のお嬢様も、白い髪をしてるって話だったっけ」
「……」
白い髪の少女。俺にとっては、決して忘れることのできない大切な思い出。
「もしかして、アンタは……今も
別れ際にモニカがふと呟いた気がする言葉を、俺は聞かなかったことにした。
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