サロンにて

 ジェームズはストラン邸には戻らず、宮殿へと馬車を向かわせた。そもそも、自分が現在どちらに住んでいるのか。そう聞かれると答えに困る。週の半分以上は宮殿で過ごしているのだ。官位のある貴族の多くは宮殿に居所を持つ。そこを家とするか、城下の屋敷を家とするかは様々だ。例えば、国一番の権力を持つグランフォード公爵は宮殿に住んでいて、城下の屋敷は管理人が手入れをする程度だ。息子も宮殿で育った。しかし、多くの侯爵家、伯爵家は城下を日々の居城とし、宮殿の居所は仕事が忙しい時や、夜会などのイベントごとに招かれたときに使う。枢密院レベルでなければ、仕事などたいした量ではないのだ。領地の経営や、商会の経営に力を入れていた方が、よほど家のためになる。それに、国王と同じ屋根の下に住むということは、それだけ気を使うということだ。貴族は矜持が高い。自分よりも上の人間に媚びへつらうよりも、下の人間に指示を飛ばす方が性にあっている。


「聞いたわよ、婚約破棄」


 サロンへと入ると予想通り、エレナが心底楽しそうにジェームズに話しかけてきた。随分と機嫌がいい。仕事も早くに片づけたのだろう。


 エレナは王女だ。レジーナ曰く、格下の伯爵家の令息が王女と親友など、本当ならばあってはならない。しかし、この王女は随分と変わった人間だった。それに、ジェームズがただの伯爵令息でないことも大いに関係しているが。


 王立学園は貴族の子女のための学園だ。将来、貴族としてのたしなみ、領地や商会を経営するための勉強、社交の輪を広げる場として、多くの子女たちがこぞって通う。しかし、例外もいる。それは、枢密院レベルの大貴族たちだ。彼らは家格こそ、公爵家から伯爵家までまちまちであれど、伝統、家名、財力、権力、すべてが桁違い。その長子は多くの場合、家庭教師について帝王学を学ぶ。その上、居城が宮殿だ。国王のおひざ元で、王子王女と育っていく。近年は大貴族の子女も学園に入学することが増えたが、それでも王族やグランフォードは幼いころから帝王学を学んで育っていた。


 この王女は秀才と呼ばれる類の人間だ。年若くして学問を修め、何か国語もの言語を操り、政治に才がある。兄王子である王太子も、グランフォードも学問、政治では勝るとも劣らないが、語学では太刀打ちできない。間違いなく、この三人がこの国の将来を担う重要な人間だろう。現に、王太子はすでに公務に政治に活躍しており、グランフォードはその補佐を完璧にこなしている。王女も、政治にアドバイスはするわ、外交に暗躍するわ、この人物に取り入ることができれば、将来は安泰だとささやかれている。それには、父国王と兄王子の溺愛ぶりも関係しているかもしれないが。


 さて、王女には宮殿の一角にサロンと呼ばれる居所がある。王族の居所とはまた別の、彼女個人の持ちスペースだ。サロンのドアの前には衛兵が立ち、召使でも貴族でも、あまつさえ、国王でさえも王女の許可なしには立ち入ることは許されない。そのドアを開けると、次のドアまでの数メートルの間に椅子が並べられ、謁見待ちの人間の待機場所になっているという入念さだ。その奥に自由に立ち入ることが許されている六人の中に、ジェームズはなぜか選ばれている。


 サロンの両脇には、まず、六つの部屋のドアが立ち並ぶ。その中に、ジェームズの部屋も王女の部屋もある。いわゆる、私室だ。そして、その奥にはとてつもなく広い空間。貴族らしい気取った様子も、無駄に高価なものもない。品はいいが、過ごしやすい、ただの家だ。大きなソファとローテーブルが入り口すぐの右手、左手は絨毯を敷いたがらりと空いた空間、正面には大きなキッチンがあり、その右、ソファの後ろにはダイニングテーブルがある。そちら側の奥には壁付のカウンターと椅子がある。全てが木の色を生かした素材で、心地いい。右手壁はぶち抜かれ、ガラス張りの引き戸だ。しかし、たいてい夏の間はその扉は開け放たれている。そこから続くのは、はるか遠くに囲いが見える庭だ。木々が植えられ、ベンチもある。宮殿の裏庭の一部を囲って自分たちの庭にしたとエレナは言っていた。この広さのサロンと庭を人も入れずにどう管理しているのか知りたいが、王女ははぐらかし続けている。彼女には魔法が使えるのではないのかと、ジェームズは本気で考えていた。


「それにしても、あの侯爵令嬢もバカね。こんな優良物件そうそういないわよ」


 サロンにいる間のエレナは完全にオフだ。王女らしい口調や振る舞いはここには存在しない。それも、恐ろしいほどの気品と鋭さは失われないが。


「もともとこちらから突き付ける予定のものが早まっただけだから」


「そう。まあいいわ。わたしには関係ない」


「そりゃ王女のご身分にもなれば、伯爵家侯爵家のごたごたは関係ないだろうよ」


「でも、エラがなんていうかしらね。あの子、今日出先でよかったわね」


「あいつがレジーナとの婚約破棄を怒ると思うか?飛んで喜ぶぞ」


 エラというのはジェームズの妹だった。これもまた、王女の親友である。


「違うわよ。こっちから振ってないから怒るの。あの子、レジーナ嬢のこと大嫌いだったものね。伯爵家を見下してっていつも文句言ってたわ。こっぴどく振ってやりたかったんじゃなくて?」


「ああ」


 ジェームズは苦笑いをした。エラはいささか気が強い。一見おとなしい人畜無害な令嬢に見せかけて、怒らせたら一番恐ろしい人間だ。いや、一番はエレナかもしれないが。そして、エラはレジーナを目の敵にしていた。格下と見下し、嫌な態度を取り続ける。兄を慕う彼女からしたら、レジーナは許せない存在なのだ。


「でも、よかったわね。相手はどんな内情であれ、侯爵家よ。世間体を考えれば、向こうから破棄してくれる方が形はいい。まあ、あのご令嬢の父親があなたの家に泣きつくでしょうけど。どうするの?」


「今日、家に来るらしい。代行者にすべて任せるつもりだ。自分の側には署名をしてきてある。話し合いの余地などないさ」


「あら、可哀そうに」


 エレナはきれいな笑みを浮かべて言った。こういう時、この王女は冷たいなと思う。しかし、それでこそ、彼女のこの国での地位が確立しているのだ。情に弱くては、政治の世界で生きてはいけまい。


「思ってもいないくせに」


「だって関係ないもの。政治にかかわる一族でもなければ、商会に大きな貢献をしているわけでもない。そんな貴族家、いい顔しておく必要もなくてよ」


「国を治める人間がそんなに冷たくていいのか?」


「将来の国王はウィルよ。わたしから言わせれば、あれは情がありすぎるわ。でも、いい国を作るには人を気に掛ける人間が頂点に立つべきなの。わたしはその裏で調整をするだけ」


「そうだな」


 ジェームズは王女を見つめた。空恐ろしくなるほど、すべてを見通している目。その目に自分はどう映っているのか?そう気になる時がある。しかし、政治には淡白でも、彼女にも年相応なところはあるのだ。そして、ありがたいことに自分は彼女の特別に数えられる数少ない一人だ。ほかの人が見ることができない部分も見てきている。


「ところで、ルークはどこに行った?今日の昼間は二人して遠乗りに行ったんだろ?」


「そうよ。で、帰ってきたらあの人はウィルに呼び出されたわ。新しい政策で書類を作って貴族と話し合いをするんですって」


「どうしてきみは招かれていない?」


「まだ、出る幕じゃないから」


 答えは恐ろしいほど簡潔だった。


「でも、仕事はしたわよ。あなたが帰ってくるまでに終わらせただけ。諜報機関は便利よ。ほかの人が知らない情報がいち早くわかる」


「それを若干十六歳で掌握しているきみが怖い」


「そうかしら?わたしは駒を動かすのが得意なだけ。全ては長官任せよ」


「そうだとしても」


「そうかもしれないわね」


 エレナは不敵な笑みを浮かべた。それから、ぱっと表情を変えて、年相応の少女の顔になった。


「そうだわ。今週末の茶会には来てくれる?」


「きみが主催の?」


「わたしと兄よ。主な貴族は全員招待したわ。あなたも来てちょうだい。いい気分転換になるわよ」


「エラにエスコートはついてるか?きみたちが主催なら、きみのエスコートはウィルだろう?」


「残念ながら、ルークが」


「そうか。相手を探すのが面倒だ」


「エマがいてくれればよかったのにね」


 エマというのはエレナのもう一人の親友。隣国の王女である。にもかかわらず、随分な頻度でこちらの宮廷に顔を出す。


「あいつ、今はリゾート地で休暇中だとよ」


「うらやましいわ」


「しかし、誰を捕まえようか。新しく人を口説くにはあまりにも早い」


「マーガレットにしたら?あの子、まだエスコートいないわ、たぶん。侯爵家の次期当主だし、わたしたちの友人だし、いい相手よ」


「いい手があったな。聞いてみる」


「あの子なら入ってそうそうに別行動もできるわよ。ドライな性格だから」


「まあ、考えておくよ」


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