▽残り四日

 誰かが耳元で囁いている。

――屑……屑……親じゃない……申されないでください……。

 その声で目が覚めた。体を起こすと、まだ少し暗い空が窓から見えた。六時くらいだろうか。

「花瓶……」

 横を見ると、白狐がいた。そうだ、昨日はどちらも後ろの座席で寝たんだ。

「殴った……」

 どうやら、さっきのささやき声は白狐の物だったらしい。さて、どんな夢を見ているのか想像してみる。

 まずは白狐が云った言葉をまとめよう。

 屑。

 親じゃない。

 申されないでください。

 花瓶。

 殴った。

 最初の言葉から考えるに、親、もしくは家族の夢を見ているのだろう。親じゃない、申されないでくださいと云うのは、夢の中で白狐が夢の中で親に云っていることではないだろうか。『私はあなたたちを親だと思っていません。なので、ご自分のことを親だと申されないでください』と云った感じで。

 少し言葉遣いが可笑しいような気もするが、お金持ちの家庭だ、どんな言葉遣いで会話していたかなんて俺には分かる筈がない。

 だが、後半の花瓶と殴ったが全く分からない。

 とここでまた白狐が囁いた。「殺した……」

 花瓶、殴った、殺した? 花瓶……で殴った……殴って……殺した?

 花瓶で殴って殺した? 一体何の話だろうか。白狐からの話で、白狐が誰かを花瓶で殴って殺した話など聞いたことがない。

 では白狐の親か? 白狐の親が誰かを花瓶で殴って殺したというのだろうか。それもどうも考えにくい。

 それなら白狐の友人か? 白狐の友人と云えば金持ちのお坊ちゃま、お嬢様だろう。そんなお坊ちゃま、お嬢様が殺人を犯すか? それも考えにくい。

「は……はは」不意に白狐が笑い出した。「ははは……は……はは……」

 何だかもの凄く心配になってきたので、白狐の肩を揺さぶった。

「白狐? 大丈夫か?」

「はは……ふぁはぁ……」

「白狐? 白狐?」

 少し強めに揺さぶってみると、やっと起きた。

「ふぇ? お父さん?」

「どこ見て云ってんだ?」

「ふぁあ……あ、夜トか」

「逆に俺じゃないなら誰だと思ったんだよ」

「ごめん、寝起き悪いから」

 白狐はそう云って毛布を剥ぐと、ドアを開けて外に出た。俺も続いて外に出る。

 今の短時間で外の明るさは増し、学校に行くときの空の明るさと同じぐらいになっていた。それに、少し薄い霧が出ていた。これぐらいなら運転に支障は出ないと思うが。

「今日どこ行く?」

「え? 夜トの家でしょ。前に決めたじゃん」

「でもさ、俺昨日自分の家に行ったって云ったじゃん」

「何云ってんの? 私が行きたいから行くんだよ。夜トが行ったかどうかは関係ない!」

「それはそうなんだけどさ……」

「何? 夜トはもう行きたくないの?」

 行きたくないのだろうか。父を嫌っていたときは行きたくなかったが、父に感謝している今となってはそんな気持ちは全くない。

 しかし、どこかであの家に戻りたくないと云う気持ちが暴れている。それは多分、あの家に帰りたくない――深淵の根源に近づきたくないと云う気持ちなんだろう。深淵から抜け出せないと分かって抜け出すのを諦めた俺は、深淵の根源にいたに違いない。

 しかし今、事実を知りつつ白狐と一緒に行動している俺は、現実を受け止めながらも前向きに進めている。ならば、俺の立ち位置は深淵の中でも深淵の根源と離れた場所にいるのではないだろうか。いや、いるんだ。

 だが、あの家に戻ると少しずつ深淵の根源に戻っていくような気がする。多分、それがあの家に行きたくないという理由なんだろう。

 でも、今は白狐がいる。白狐がいるならば大丈夫かも知れない。

「いや……何でもない。行こうか」

「お? 珍しく乗り気? よぉし、行こうか」

 車に乗り込んで公園を出る。毎回思うが、信号――当然もう付いていないのだが――無視を出来るのは凄く開放感がある。

 白狐にあのことを聞いてみることにした。

「白狐」

「うん?」

「さっき、寝言で屑とか、親じゃないとか、花瓶とか云ってたんだけど、何か夢見たのか?」

「えぇ、寝言……。あーらら、口に出てたのか」

「……何か、聞いちゃいけないことだった?」

「いいや、別にそう云うことじゃないんだけど……。夢のおかげで思い出せたんだよ。昔のこと」

「昔のことって?」

「ほら、有紀の話したときに外出禁止になった話したでしょ?」

「ああ」

「で、外出禁止になった理由が分からないって云ったじゃん」

「うん」

「その理由が分かった――と云うより、思い出せたんだよ。私は――」

 そう云って白狐は有紀を花瓶で殴り殺したことを話した。

 花瓶、殴った、殺したの三語から予測できていたことではあったのだが、本人の口から聞くとやはり驚く。

「ふふふ、夜ト?」

「何?」

「私は殺人犯なんだよ」

「ああ、今知った」

「殺人犯の私なんかと一緒にいていいの?」

「普通の世界だったら殺人犯を匿ったりするだけで共犯になるけど、今の世界は法律なんてない。だから、一緒にいても大丈夫」

「愛は理由に入らないんだ?」

「云わなくてもいいと思ってた」

「何で?」

「愛が理由に入ってることは当たり前だから」

「うぅ、かっこいいこと云うじゃないか……」

 昨日はネガティヴな感情が心を支配していたためか窓の外の景色に全く気が付いていなかったが、今落ち着いて見てみると白狐から俺の家まで行く道には商店街が含まれているらしい。現に今、商店街の中を走っていた。

 店じまいをする時間がなかったのか、殆どの店のシャッターが上がったままだった。

 意外と商店街は長かった。服屋や靴屋、飲食店に本屋に家具屋。たまに置いてある公衆電話の緑が目立っている。

 おそらく、俺の家からこの商店街まではそこまで離れていない。しかし、俺は来たことがなかった。当然と云えば当然である。

 俺の親は第一俺に買い物をさせなかった。多分、商店街が自分たちの町の外だからだろう。そう、母親は俺が町の外に出るのを嫌った。何があっても自分の町で済ませるように育てられた。

 何故か? それは、怖かったのだろう。俺がこの町を――家を出ることを。

 他の家もそうだった。俺の隣の家も、子供が家を出ることをどうにか止めていた。普通の人ならその理由を老後だとか、そう云う物を考えるのだろう。

 しかし、それは違う。俺の町は、俺の町の人間は一人になることを悉く嫌うのだ。夫が、妻が先に死んだら自分が一人になってしまう。でも、子供がいれば一人にならないで済む。これが理由なのだ。

 深淵がそうさせているのかも知れない。深淵が、寂しいという気持ちに――いや人間が人間に依存するようにさせているのかも知れない。

 一体、深淵は俺達に何をさせようとしているのだろうか。それは一生分からない。と云うより、分かってはいけないのだろう。

 白狐が腕を叩いてきた。

「何?」

「夜トさ、その服何日ぐらい着てる?」

 自分の服を見る。汚れてはいないが……しわだらけだ。

「さぁ、記憶にないってことは相当前から着てる」

「うわ、ヤバ」

「じゃあ白狐はどうなんだよ」

 白狐は服を見、袖を鼻に近づけて云った。「ヤバいわ」

「だろうな。で? 服がどうしたんだ?」

 白狐が窓の外を指さして云う。「服、服屋」

 そこでやっと意味を理解した。白狐は服を変えたいらしい。

「服変えたいの?」

「うん」

「いや、でもさ。風呂に入ってない訳だし、服変えてもそんな意味なくない?」

「それはそうなんだけど……」

 納得しつつも白狐は不満そうだった。よっぽど服を変えたいらしい。

「じゃあ、先に風呂に入ってからな」

「え? お風呂なんてあんの? 水道すら機能してないのに……」

「まぁ、深く考えなくていいよ」

 小学校の頃に習い事のチームでキャンプに行ったとき、自分たちで風呂を作るという謎のことをやった。今でも作り方は覚えているから作れる筈だ。

 再び白狐が喋った。「ああ、それとさぁ」

「何?」

「ちゃんとしたところで寝たい」

「ちゃんとしたところって……何?」

「ベッド」

「わがままか。どこにベッドがあるって云うんだよ。てか白狐の家にベッドあっただろ?」

「あの家のベッドは何かやだ。ねぇ、この辺にホテルない?」

「あー、あるよ。町の外れに」

「今日、そこで寝よ」

「はいはい、分かりました」

 車は商店街を抜け、普通の住宅街に入った。そろそろ俺の町に入ると思う。

 霧がなくなったと思うと、今度は雲が空を覆い尽くした。朝の日光の明るさは全くない。

 俺の町の標識が見えてきた。スピードを上げ、一気に進む。

――一体、俺達はどこに向かっているのか。

 亞部輪湖で考えていたことが脳裏に浮かんだ。

 俺らは何に向かっている? 何をしようとしている?

 結局死ぬ世界で、俺達は何をしようとしているのか。今から俺の家に行って、それから何をすればいいのだろうか。一体、何のために生きているのだろうか。不思議でならなかった。

 俺がしたいことは何だろうか。答えはすぐに出る。白狐と一緒にいれればそれでいい。

 では、白狐も俺と一緒に入れればいいと云った場合は何をすればいいのだろうか。死ぬまで――世界が終わるまで何かをし続けるのか?

 何かが違うような気がする。もっと、もっといい生き方がある筈だ。もっといい終わり方がある筈だ。世界が終わるから俺らも死ぬ。そんなつまらない終わり方でいいのか?

 だが、じゃあ何をする? と聞かれても答えは出ない。何かが違うような気がするが、どこがどう違うとは云えないのだ。

 どうすればいい人生が送れるのか、どうすればいい終わり方が出来るのか。後で白狐に聞くことにしよう。


 俺の家の前に着いた。帰ってきてしまった、この家に。深淵の根源に。

 改めて自分の家を見た。ボロっちい二階建ての家。庭の代わりにコンクリートの駐車場がある。

 捉えどころのないつまらない家だ。

「入っていい?」

「どうぞ、ご自由に」

 白狐が「失礼しまぁす」と云いながら入っていった。俺は心の中で「ただいま」と呟いて中に入る。

「靴……」

「ああ、脱がなくていいよ」

 どうせなくなるんだし――とは云わなかった。

「うわぁ、アニメとかで見る普通の家だ」

「そうだよ、これが普通の家だ」

 上がってすぐの左側に階段があって、右側にはクローゼット。奥の扉がリビングに繋がっている。

「どこに行きたいんだ?」

「ええと……夜トの部屋!」

「じゃ、階段上がって」

 ギシッギシッと鳴る階段を一歩一歩丁寧に上がっていく。何故か白狐は

「ギシギシ云うー」と、階段が軋む音を楽しんでいた。慥かに白狐の家の階段は軋まなかったが、軋む音がそんなに珍しいのだろうか。ただただ音が鳴るだけじゃないか。

 階段を上がり終えた白狐がキョロキョロしているので、「右の一番奥」と自分の部屋の場所を告げる。

 白狐は何故かゆっくりと足音を立てないように歩き、俺の部屋の前まで行った。

「開けていいよ」

「ええ、何か……怖い。夜ト開けてよ」

「びっくり箱じゃないんだからさ……」

 ドアを開けて白狐を中に入れる。

「うわぁ、男子の部屋っぽいなぁ」

「どこがだよ?」

「雰囲気だよ、雰囲気」

 そう云って、白狐はクンクンと犬のように部屋の匂いを嗅ぎ始めた。

「……匂いで想像する変態?」

「いやいや、夜トが薬物をやっていないかの検査」

「そんな鼻があるなら、警察になれるよ。あれだ、麻薬探知犬の代わりになれる」

「酷い! 私は犬じゃない!」

「別に代わりになれると云っただけで、白狐が犬とは云ってない」

 そう云って、敷きっぱなしだった布団に身を投げる。

「こら! 勝手に寝るんじゃない!」

「ここは俺の家」

「むうぅ……」

 白狐は俺の本棚を漁り始めた。

「何? 何か読みたい本でもあるの?」

「いや、夜トがそう云う本を持っていないかのチェック」

「持ってる訳ないだろ」

 本当は一冊、それらしい本があった。水着姿のキャラの雑誌だ。題名は慥か『激カワ! 美少女キャラクターの水着スキン!』だったような気がする。

 だが、それは全く別の本のカバーを掛けてあるから開かない限り分からない。それに、普通は読まないような難しい本のカバーをかけたから、白狐がそれを開く心配はない。

「本当だ……普通の本ばっかり。難しそうなのも一杯……」

「当たり前だろ」

「むうぅ、面白くないなぁ。……ん? これカバーがたるんで……?」

――⁉

 嘘だろ嘘だろ嘘だろ⁉ と心の中で連呼しながら飛び起きると、白狐があの本を持っていた。今まさに開こうとしている。

「ちょっ! ちょっと待って!」

 思いっきり手を伸ばしたが、白狐が上手く躱して本を取ることは出来なかった。

「ふっふっふぅ、これが夜トのお宝かぁ」

「ちょ! 返せ! いや、返してください、お願いします」

 こんなに簡単に、さらにこんなに早くバレるなんて全く予想していなかった。なんとか中を見られないで済まそうと思い、返してくださいと連呼しながら土下座する。それだけは本当に見られたくない。

「土下座しても駄目だ! さて、夜トはどんな趣味なのかなぁ……!」

 パラッと紙を捲る音が聞こえてきた。終わった。

「うおおぉぉぉ! おっぱいでっけぇ! 何カップあるんだこれ!」

 この雑誌を最初に見たときに自分が思ったことをそのまま白狐が云っている。どうでもいいが、白狐が見ているページが最初のページならそのキャラはIカップだ。

「許してください、何でもするのでそれ以上は見ないでください……」

「何でもするならそこで何も云わずに座ってなさい!」

 どうやら白狐は何をしてでもあの本を見たいようだ。

 うわっとか、おぉと云いながら白狐が一ページ一ページ丁寧に捲っていく。俺はそれをただただ眺めることしか出来なかった。

 最後のページまで見終えた白狐は、その本を本棚に戻して腕を組んだ。

「ふむふむ、夜トの好みが分かった……!」

「……何? あってなかったら罰ゲーム」

「ふっふっふぅ。男の人はボンキュッボンが好きだと云われてるけど、夜トが好きなのはボンキュッキュッ!」

「それってどう云うこと?」

「ストレートに云うなら巨乳痩せ型小尻、かな」

「ブッブー、不正解」

「嘘つけ!」

「正解を云おうか?」

 コクコクと頷く白狐。

「正解、俺の好みは白狐」

「え? 私、そんなに胸でかくないけど……?」

 そう云いながら自分の胸を触る白狐。

「云わなかったっけ? 白狐がタイプだって」

「あー、そんなこと云ってたな」

「うん、そう云うことです」

「つまり、夜トの好みはキュッキュッキュッ、だね」

「訳分からんこと云うな」

 それから白狐は、読めそうな本を探して読んでいた。俺も本棚からお気に入りの本を取り出す。有栖川有栖さんの『46番目の密室』だ。ついでに、白狐が読んでいるのは綾辻行人さんの『びっくり館の殺人』だ。

 びっくり館の殺人の厚さは、46番目の密室の四分の三程の厚さなのにも拘わらず、読み終わるのは白狐の方が遅かった。多分、俺がミステリを読み慣れているからだろう。

 白狐が読み終わるまで、他の本を何冊か読んだ。三冊目の『黄昏の囁き』を読み始めた頃に白狐が叫んだ。「ふあぁ! 読み終わったぁ!」

「お疲れ様」

 その時、白狐の腹がぐううううぅぅぅぅぅぅぅぅぅと鳴った。最初に出会ったときに聞いた音と同じだ。

 白狐は急いで腹を押さえるが、腹は正直でもう一度鳴った。

「……昨日から何も食べてないよね?」

「ああ、そう云えばそうだね」

「食べ物をください」

「俺の家に何かあったっけかなぁ」

 下に降りて、リビングにあるお菓子を入れておく箱を開けてみた。既に食べ終わっていると思っていたのだが、中にはOREO二箱とグミが五パック入っていた。それらを左手に持って、ついでにもう機能していない冷蔵庫を開けると、中にぬるくなったエナジードリンクが一〇本程入っていた。それに、何故か大量に入っていたのは二リットルの水。一体何本あるのだろうか。

 水は無視して、エナジードリンクを二本取り出してポケットに突っ込むと、二階に上がった。

 部屋に戻ると、白狐は俺が置いていった『黄昏の囁き』を読んでいた。見た感じ、ちゃんと最初から読んでいるようだ。

「夜トぉ、これ難しい……」

「どこ読んでんの?」

「序章」

「序章で難しいとかあるのかよ……」

 横から覗き込むと、本当に序章を読んでいた。

「これって結局どう云うことなの?」

「だから――」

 実は『黄昏の囁き』は既に読んだことがあったので、覚えている限りで序章の話をしてやった。

「――って云うこと」

「ふうぅん、で? それがどうなるの?」

「ミステリなんだから、読み進めていけば分かるよ。てか小説だから読めば分かるよ」

「あ、そうか」

 そう云って再び本に目線を移す白狐。あの空腹はどこに行ったのだろうか?

「……白狐? 食べないの?」

「え? あ、忘れてた! 欲しい! くれ!」

 持っていたOREOとグミを差し出すと、白狐はそれを奪い取るようにして取った。

 そして、俺がやって欲しくない行為をした。

「白狐……?」

「うん?」

「食べ物食べながら本読むのやめてくれないか?」

 そう、白狐はOREOを食べながら本を読み始めたのだ。匂いが付くし、汚れるから絶対にやって欲しくない。

「読むのは右手、食べるのは左手。これで大丈夫じゃない?」

「噛んだお菓子が飛んで本を汚さないという確証があるのか?」

「はいはい。分かりましたよ、ミステリマニア君」

 白狐は不満そうにしながら本を置いて、食べるのに集中し始めた。悪いが、本を汚されることは何をしてでも避けたい。もう終わるこの世界であっても。

 本は俺の生きる理由の一つだった。

 元々漫画が好きで小説なんて見向きもしなかった俺だが、星新一さんのショートショートで小説を好きになった。そして、綾辻行人さんの『Another』で初めて長編小説を読み終えた。

 そこから俺の小説好きはエスカレートし、今部屋には一〇〇〇冊程の本がある。

 小説にのめり込んだ俺は、現実を忘れて本を読んだ。その行為は依存化し、いつしか現実を忘れるために本を読んでいた。途中で「それは可笑しいだろう」と気づいて本は楽しむために読むと決めたのだが、読む理由が何だったにせよ俺の人生を支えてくれたのは本だった。

「ん? 夜ト食べないの?」

「いや、食べるよ」

 白狐がOREOの箱の中の一パッケージ分を差し出してくれた。ありがとう、と云ってそれを受け取って開け、食べた。何でかは知らないが、OREOのクッキー部分にパンダが掘られていた。

「……パンダ」

「ね、何でパンダなんだろ。今年……いやパンダ年なんてないか」

「ないな。てか、全部黒いパンダって変だな」

「白くしてあげれば?」

「どうやって?」

「中のクリームを、白くしたいところに塗ればいいじゃん」

「天才かよ」

「へへへ」

 別に本当にやる必要はなかったのだが、本当にクリームをパンダの白くしたいところ――顔や尻尾に塗った。

「出来た」そう云って白狐に完成したパンダを見せた。

「おお! 可愛い!」

「はは、じゃあいただきます」

「あー! もったいない! てか可哀想!」

 何も聞かずに口にOREOを放り込む。サクサクとして甘いクッキーと絡みつくように甘ったるいクリームが合わさって、凄くおいしい。

 白狐は俺のことをまねして、パンダにクリームを塗っていた。

 不器用なのか、それとも……いや不器用なんだろう。随分手こずっている。

「む、むむう……」

「下手だな」

「へ、下手じゃないし! 手先が少し……」

「不器用なんだろ?」

「むうぅ……」

 やっとできあがった白狐のパンダは、俺の物よりも不細工だった。

「俺の方が上手いね」

「不器用で悪かったな!」

 白狐はふてくされた顔で不細工なパンダを口に放り込んだ。

 OREOを食べ終えてグミを開けるのかと思ったのだが、白狐は立ち上がって俺の手を引いた。

「何て?」

「あれ、見せて?」

「あれって?」

「夜トの、お父さんの日記」

「え? あ、ああ。いいけど。見て楽しい物じゃないぞ」

「楽しむために見る訳じゃないよ」

 俺の部屋を出、父さんの部屋に行く。『日記50』が床に置かれたままになっていたので、一応机の上に置いた。

 引き出しを開けて指さす。「これが云っていた日記」

「これかぁ……」

 白狐は掴めるだけ日記を掴んで外に出した。全部出して読む魂胆らしい。 途中で、白狐が「ん?」と云った。

「どうした?」

「これ、見た? 何かあるけど」

「え? 何かあるって……何が?」

「いいから見てよ。何か封筒みたいなのが入ってる」

――封筒?

 自然と白狐の家で見たあの写真が入っている封筒が浮かんだ。母が犯されているあの写真が。

 そのことを思い出すと、身構えてしまった。一体何が入っているんだ? 俺が見なければいけない物なのか? と。

 だが、よく考えればそこまでショッキングな物が父さんの机の中に入っている筈がない。

 引き出しに近寄り、中を覗く。慥かに、白い封筒が入っていた。

「多分、日記の下敷きになってたんだろうね」

「隠してたってことか?」

「さぁ、夜トのお父さんのことは分からないよ。はい、どうぞ」

 白狐が差し出してきた封筒を恐る恐る受け取る。

――見られたくなかった?

――だから隠したのか?

――父さんが見られたくない物とはなんだ?

 振り払った筈の不安が再び心に襲いかかる。手が震えてうっかり封筒を落としそうになった。

 一度深呼吸をして、ぐっと力を入れて封筒を持つ。大丈夫だ、父さんが可笑しな物を持っている訳がない、そう自分に云い聞かせながら封筒を開く。のり付けされていて、開くとベリッと音がした。

 中身は便箋だった。

 封筒を腕に挟んで、折りたたまれた便箋を開く。父さんの字が目に飛び込んできた。

[この手紙は誰かに読ませるために書いた訳ではない――と云えば嘘になる。そこかで誰かに見つけてもらって読んでもらいたい、と思っている。が、今のところは誰かに読ませるつもりはないということにしておこう。

 さて、何故俺がそんな物を書こうと思ったのか。それは、俺の子供への謝罪だ。

 と、その前に必要事項を記しておこう。

 俺は**市で生まれ、結婚をしてこの町に来た。ところが、妻は借金を返すために体を売っていた、つまり売春をしていた。どうすればやめさせられるのかを考えていると、妻は妊娠した。不幸の連鎖だ。

 最初、どこの馬の骨か分からない子供を育てるのは反対だった。と云うより、育てる気なんてなかった。しかし、妻は子供を産んで育てた。

 現に育てる気がなかったし、俺の子供じゃない子供がいるとなるとストレスでならなかった。

 だから、気が付けば俺は子供に暴力を振るうようになっていた。最初はストレスのはけ口としてだったが、いつしか俺は虐待を楽しんでいた。

 虐待を楽しみ始めると、やる内容がエスカレートしていった。そしてついには、子供を病院送りにさせてしまった。

 そこで俺は気が付いた。と云うより目が覚めた。俺は自分に聞いた。

 俺は何をしているんだ? と。

 そこでやっと自分のやっていることが間違っていることに気が付いた。だから、退院した子供にはできる限りの愛情を注いで接した。

 ときには殴りたくなる衝動にかけられたときもあった。だが、そこでぐっと堪えて、堪えに堪え抜いてやってきた。

 すると、妻が自殺した。理由は当然売春。

 ここで俺の心は完全に崩壊した。何もかもを諦めるようになり、子供を捨てようと思った。だが、どこかで止まっていた。子供を捨てていいのか、と悩んでいた。そう、気が付けば俺は子供を愛していたのだ。

 しかし、その止まっていた心もなくなった。

 この町がそれを後押ししたからだ。

 普通、妻が自殺した家庭をどう云う風な目で見る? 普通は『何か問題のある家庭だった』とか『これからどうするのか心配だ』とかそういう風な目で見るだろう?

 しかし、この町の目は違った。この町の人間は『まぁ、仕方ないよね』と云う目で見てきた。

 どこかで納得しているような、そんな目で見てきた。

 そこで俺は痛感した。

 この町には住めない、と。

 そこで俺はこの町を出ることにした。子供を置いて。

 これを書いている今は、まだこの町にいるのだが。

 さて、前置きが長くなったが本編に行こうか。

 どうだった? 自分の父親の人生を読んでみて。すまない、最初に誰にも読ませるつもりはないと書いたが、お前に読ませるつもりだった。もし、誰か、赤の他人様が読んでいるのならばこれから先は読まないでください。俺の、息子への謝罪なので。

 お前はいつこれを読んでいるのだろうか。もし、日記の最後を読んだ後なら『ああ、あのじじいが同じようなことをほざいていやがるよ』と思って読んでくれればいい。だが、お願いだ、決して読まずに捨てることだけはしないでくれ。一度は、一度は必ず読んで欲しい。

 さて、前置きが長くなったな。

 俺はお前に謝らなければいけないことが山程ある。だが、あれで悪かった、これで悪かった、なんて書き続けたら便箋が何枚になるか分からない。だから、申し訳ないが一言で済まさせてくれ。

 すまなかった。

 全てを謝る。すまなかった。

 俺がお前にしたこと全て、すまなかった。

 いや、これで済ませるのは流石に可笑しい。やはり、いくつかピンポイントで謝らせてくれ。

 お前の目の上にある傷、もう一生消えないんだよな。本当に申し訳ない。そして、お前を置いて逃げてすまない。ああ、そうだ。かあさんを守れなくてすまない。

 すまない、云い訳をさせてくれないか。

 俺は、かあさんの売春と妊娠が発覚した後に自律神経失調症と診断された。簡単に云えば、気持ちのコントロールが出来ない。そう云う物だ。だからお前に暴力を振るった――そう云っても何にもならない。だが、俺がそう云う状況だったことは分かってほしい。

 さて、ここからはお前へのアドバイスだ。最初にも聞いたが日記は読んだか? 日記にもアドバイスが書いてあるが、それとは違う物だ。だから、ちゃんと読んで欲しい。

 この町を出ろ。

 それが、俺から出来るお前への最大のアドバイスだ。いや、アドバイスでは甘い。この町を出ろ、これは俺からの最後の――命令だ。

 詳しくこれがどうだ、あれがどうだとは云わない。と云うより、お前はもう何か気が付いているんじゃないか? この町が可笑しいことに。

 そうだ、この町は可笑しいんだ。他の町と、何かが違う。何が? と聞かれると答えられないが、慥かに何かが可笑しい。

 絶対に、この町にいてはいけない。この町にいていいことなんて、おそらく一つもない。ただただ、日常が壊れていくだけだ。

 逃げろ、この町から逃げろ。この町に飲み込まれてしまう前に逃げろ。

 それが、俺が出来る最大のアドバイスだ。]


 手紙を読み終えた俺は、しばらく放心状態だった。

 俺は、この手紙に気付くのが遅すぎた。父さんは、俺がするべき事を全て書いて置いてくれていた。もし、もっと早くこの手紙に気が付いていれば俺の人生は少し変わっていたかも知れない。

 父さんは、やっぱり俺の大事な、大切な、尊敬できるただ一人だけの父さんだった。最高の、素晴らしい父さんだった。

 放心状態から抜け出し、体がしっかりと動くようになった。

 白狐はまだ、父さんの日記を読んでいた。

「どう? 白狐。何か見つけた?」

「夜トのお父さんは……凄い人だね」

「え?」

「どんなに壊れそうになっても、いや壊れてもちゃんと治ってる。誤った方向を向いても、ちゃんと方向修正が出来てる」

「ああ……うん」

「夜トの……心の強さはお父さん譲りなんだろうね」

「ああ、多分そうだ」

 その後も白狐は日記を読み続け、俺は父さんの手紙を何度も何度も読み返した。

 ついに白狐が日記を最後まで読み終え、全冊一気に引き出しにしまおうとしたので、封筒をもとあった場所に戻してから日記を戻してもらった。「お疲れ様でした」

「うん、ちょっと疲れた」

「そりゃそうだ。相当な量だもん」

「……あ!」と、白狐が叫んだ。

「何だよ?」

「グミ食べるの忘れてた!」

「……今更?」

「グミ食べよ!」と云いながら白狐がぴょんぴょんと跳びはねる。

「幼稚園児かよ……」

「お肌は幼稚園児並みですが?」

「誰がそんなこと聞いた?」

 俺の部屋に戻って、白狐にグミを投げる。

「ほれ!」

「ちょっ、投げないでよ!」

 白狐はそう云いながらグミを開け、口に放り込んだ。

「グミにはコラーゲンが沢山含まれてるから、お肌にいいんだぞ」

「そんなこと知ってるよ。てか、袋の後ろに書いてあるし」

「え?」袋の裏を見る白狐。「本当だ」

「まぁ、白狐は元々肌が綺麗だからそんな物気にしなくていいと思うけど」

「さらっと嬉しいこというの止めてもらえるかな?」

 グミを食べ終えた。

 外は明るく、日光はいよいよ強くなってきている。本が日焼けするのは嫌なので、カーテンを引いた。部屋に入ってきていた光が徐々に遮られ、ついには完全に断たれた。

 とは云っても、完全に光を遮断するカーテンではないので部屋は明るい。

「ねぇ?」

「うん?」

「今日、この後どこ行く?」

「行きたい場所……他にあるか?」

 白狐は右手の人差し指を立てた。「一カ所だけ」

「どこ?」

「あの、商店街に行こう」

「何で?」

「まぁまぁ、いいじゃん。行こうよ」

「了解」

 と、そこでポケットの重みを思い出した。エナジードリンクを入れっぱなしだったのだ。

 エナジードリンクを取り出すと、何故か白狐が珍しそうな目で見てきた。「え?」

「それって、エナドリ?」

「そうだけど、え? 見たことなかったの?」

「私ずっと飲んでみたかったんだよ! でも、親が駄目だって……」

「何で? 一本が高いし、お金持ちの飲み物っぽいところもあるけど?」

「そう、そこなんだよ。金持ちじゃない奴が金持ちを装うのに使うような物を飲むなって」

「あー、別にお金持ちじゃない子が凄くいいシャーペン持ってるとお金持ちに見える。そんでもって、そう云うのを本当のお金持ちは嫌う、ってことか」

「そう云うことだねぇ……」

「飲みたい?」

 そう云うと、白狐は思いっきり首を縦に振った。「うん!」

「でもなぁ、冷えてないんだよ。冷えてないと本当のおいしさが分かんないと思うんだが……」

「そんなこと云っても冷蔵庫は機能してないよ?」

「そうなんだよなぁ……ん? あ、あ!」

「え? 何? 何?」

「いいこと思いついた」

 部屋を出て玄関まで行き、家を出て隣の家に入る。

 裏に回ると、小さな池が見える。試しに手を入れてみると、果たせるかな、日光が照っていながらも水温は低かった。

 その中にエナドリを二本放り込む。

「これで冷える筈」

 白狐も池に手を入れた。「本当だ、これなら冷えそうだね」

「じゃ、行こうか」

「商店街へー?」

 せーの、と云わずとも声が綺麗に重なる。

「レッツゴー!」「レッツゴー!」


 隣の家を出、自分の家の前に止めてある車に乗り込む。

 俺が先に乗り込み、次に白狐が乗り込む。バタンッと白狐がドアを閉める音が聞こえるのと同時にアクセルを踏み込む。

 少しずつ踏み込んで行き、スピードを徐々に上げていく。外の景色がぱっぱと流れていき、目で追えなくなってくる。

 頬杖をついて外を見ている白狐に問う。「商店街の、どの店行きたいの?」

 白狐はこっちを見た。「ヒント、私の特技」

「乙女とか云って男を翫ぶこと?」

「そろそろ怒るぞ?」

「すまんすまん。えーと、白狐の特技……最初に云ってたよね。何だったっけ……? 読書、違う、それは趣味だ。えーっと。あ、楽器だっけ? ピアノ……?」

「そう! 正解。で、ピアノと云えば……?」

「何? 楽器屋?」

「そう云うこと」

 気が付くと太陽は雲に隠れ、少し涼しくなっていた。

 雲のおかげで少し暗くなった世界が、俺は好きだった。英語の授業の最初のお決まりの「ハウ、イズ、ザ、ウェザー、トゥディ?」「イッツ、サニー!」「ドゥ、ユウ、ライク、サニー?」「イェス、アイ、ドゥー!」のときも、俺はいつも一人で「ノー、アイ、ドント」と云っていた。

 好きな順で天気を並べたら、雨、曇り、晴れ、だろう。

 本当に晴れは嫌いだ。晴れの世界は五月蠅い。五月蠅い日光に五月蠅い暑さ、五月蠅い子供。

 曇りの日は五月蠅い子供だけだからいい。

 そして、雨の日は素晴らしい。全てがなくなる。雨の音が五月蠅いと云う人間もいるが、俺はそう思わない。自然が生み出した天然のリズム、パターンのない不規則な音。俺からすれば快音そのものだ。

 ただ一つ、雨で嫌いなことと云えば窓を開けられなくなることだ。

 窓を開けながら本を読むのが好きな俺にとって、窓を開けられないと云うことは多少なりともストレスになる。

 だが、五月蠅い日光と五月蠅い暑さと五月蠅い子供がいる世界に比べれば、雨の日程素晴らしい世界はない。

「白狐ってさ、ピアノ習ってたの?」

「うーん、習ってたって云えるのかな。そう云うレッスンに通ったことはあるけどすぐにやめて、独学でやるようになったんだよね」

「へぇ、そうなんだ」

「ま、習わないと音が出せない楽器じゃないからね」

「あー、そっか。ヴァイオリンとかって習わないと綺麗な音出せないもんね」

「そうそう。でも、ちゃんと習ってたらもっと綺麗に弾けたのかなぁ、とは思うよね」

「うーん、それはどうだろうね。自分で満足できる弾き方が出来ればいいんじゃないかな。多分、誰かに聞かせること、ないでしょ?」

「……何云ってんの。今から夜トに聞かせるじゃんか」

「あーらら」

 車は商店街に入り、どんどん進んでいく。相変わらず公衆電話の緑が目立っていた。

 すると、とある店の中から黒猫が出てきた。どこかで見たあの黒猫の集団の中の一匹だろうか。ならば、おしくらまんじゅうをしていて気が付かなかったのだろうか、随分と痩せ細っている。

 今思えば当たり前かも知れない。人間がいた頃はゴミなんかが大量にあって、それが野良猫の餌になっていたことは云うまでもない。だが、人間ないなくなってゴミが出なくなった。つまり、野良猫の餌がなくなった訳である。

 人のいなくなった店から盗むことは出来ただろうが、それは喧嘩が強い猫だけであろう。弱い猫は餌にありつけず、今目の前にいるような猫になるのだろう。

 不意に白狐が叫んだ。「っ! ここ! ストォップ!」

「五月蠅いなぁ、そんな大声で云うなよ」と云いながら車を止める。

 そこには慥かに楽器屋があった。

 楽器屋と云えば、なんとなく高級店と云うか、綺麗で高そうな店を想像するのではないだろうか。現に、店に着く前の俺はそうだった。

 しかし、着いた店は陰気にまみれて今にも潰れそうな店だった。もちろん、人間がいなくなって全ての店が陰気にまみれているのだが、この店は段を抜いて――つまり元々こう云う雰囲気、外見の店だったのだろう。

 車を降りて、店に入る。

 グランドピアノはもちろん、ヴァイオリンやトランペット、ギターもあった。

 白狐は他の物には目もくれず、グランドピアノに直行し、蓋を開けて露わになった白と黒の鍵盤を押した。

「ポーン」

 高くも低くもない音が店内に響き渡る。だが、どうもその音は少し変な気がする。どの音にも属さない、少しズレた音のように聞こえる。

「白狐?」

「うん?」

「何か、音ズレてない?」

「わお! 夜トにも分かるの? そうなんだよね、長い間使ってないと音がズレるんだよ。直すには調律しないといけないんだけど、残念なことに私は調律できない」

「どうするんだよ」

「ズレてないピアノを探す!」

 白狐は店内に置いてあるピアノを全て弾き、ズレてないピアノを探して行った。

「ポーン、ポーン」

「ん?」

「ポーン、ポーン、ポーン」

 何か気になったのか、白狐が二度そのピアノを鳴らした。

「うむむ?」

「ポーン、ポーン、ポーン」

 その後も何度かそのピアノを鳴らし、叫んだ。

「これだぁ! これズレてないぞぉ!」

「叫ぶなよ」

 白狐は俺の云ったことは無視して椅子に座り、ピアノを弾き始めた。慥かこの曲は……そう、月光の第一楽章だ。

 その後も白狐は幻想即興曲、悲愴第三楽章、革命のエチュードなどと云った、有名なクラシックをどんどん弾いていった。

 子犬のワルツが終わったところで白狐に声をかけた。

「ちょっといいか?」

「え?」

「ちょっと、俺にもやらせて」

「え?」

「え? じゃないよ」

「いや、え? 夜トピアノ弾けんの?」

「まぁ、人並みには」

「うわぁ、絶対に上手い奴だ」そう云いながら白狐は席を俺に譲った。

 椅子に座り、音を鳴らさないように鍵盤をなぞる。久しぶりだった、ピアノに触れるのは。

 俺が最初にピアノに触れたのは小三の時だったと思う。とあるデパートの中に置いてあったピアノを弾いたのが最初だ。

 家に楽器はなかたためか、勝手に音楽は遠い存在だと思っていた俺にとって、初めて触れたピアノは〝驚き〟の一言だった。

 それからと云う物、暇があればそのデパートのピアノに通って練習する日々が続いた。

 楽譜なんかは友人に貸してもらって、白狐と同じく独学で弾いた。

 友人が貸してくれた楽譜がポップスだったから、クラシックは一度も弾いたことがない。

 何を轢くか迷ったが、一番お気に入りの『残酷な天使のテーゼ』を弾くことにした。

 鍵盤に手を置き、弾く。

 体が覚えるまで練習しろ、とよく云われ、体が覚える訳ないだろ! と云っている奴らがいるが、それは違う。体は、覚えている。現に今、次の音を忘れていたのに手が自然と動いて次の音を捕らえた。

 頭では忘れているのに、体は覚えているのだ。

 さびに入ったところで、白狐が歌い出した。

「ざーんーこーくーな天使のてぇーぜ! まーどーべーかーらやがてとーびたっつ!」

 白狐のボーカルを交えながら、最後まで弾き終えた。

 白狐が拍手をしながら近寄ってくる。

「凄! 夜トってハイスペック男子だね」

「まぁ、白狐とは違うよね」

「うわ、酷い」と云うと、白狐は近くにあるピアノの前に座って音を鳴らした。

「何してんの?」

「いや、これもまぁまぁ音があってるからさ」

「……で?」

「え? 分かんないの?」

「……分からん」

「一緒に弾こ!」

「いや……俺出来ないけど」

「大丈夫大丈夫。夜トはさっきと同じようにメインのメロディー弾いてくれればいいから。私が上手く合わせる」

「……まぁ、やってみる」

 せーの、と云って弾き始める。俺は云われた通り、さっき弾いたのと同じように弾く。一方白狐は、アドリブで俺の音に合わせて曲に立体感を持たせていた。

「いくよー! ちゃーちゃ!」白狐がそう云い、サビに入る。

 白狐のおかげで曲に立体感とボリュームが追加され、とてもいい仕上がりになっていた。

 ついに最後の和音を鳴らす。

 白狐が「伸ばしてー!」と云うので、離さずに鍵盤を押し続けた。白狐はその和音に合わせながら鍵盤を撫でるように弾いた。

 白狐も和音を鳴らし、鍵盤から手を離した。俺もそれに合わせて手を離す。

「できたー!」

「ね。凄いや。ちゃんと出来てた」

「ま、これがわ・た・く・しの実力!」

「何がわ・た・く・しだよ」

「何か凄い人ってわたくしって云わない?」

「ド偏見だな」

 その後も何曲か弾いた。白狐と二人で。

「うぅん、やっぱ夜トは何でも出来るねぇ」

「やったことがあるだけだから……」

「え⁉ 何を⁉」

「変なことは云ってないぞ?」

「え、あー、そうだよね。何でもない」

「変態が……」

「こら! そう云うこと云うんじゃありません!」

「事実を述べて何が悪い?」

「夜トが事実だと思っているだけで、それは実は事実じゃないかも知れない」

「健全なことを勝手に健全じゃないことと捉える人間のどこが変態じゃないと?」

「やったことがある、ってのも、殺ったことがあるって捉えたかも知れないでしょ?」

「じゃあ白狐はどうやって捉えたの?」

 しばらくの沈黙。そして白狐が口を開く。

「ごめんなさい、私は変態でした」

「おう、大丈夫。元々知ってた」

「……! もうっ! 次の曲弾こ!」

「俺の弾ける曲であれば何でも」

 いつか白狐と一緒にピアノを練習し、披露できる日が来ればいいのにな、と思った。


 俺も白狐も、思う存分ピアノを弾いて店を出た。

 外は相変わらず曇りで、直射日光はない。雲というフィルター越しに、やんわりとした日光が地上を照らしている。

 隕石は相変わらず赤く、雲の上からでもしっかりと見ることが出来る。――今日を入れてあと四日か……。

 残り〇日は、もう世界が終わるから入れないとしてあと四日しか自由に行動できる時間はない。

 あと四日で、一体何が出来ると云うのだろうか。俺には、何が出来るのだろうか。今、ここで何をすることが出来るのか。

 答えは簡単だった。精一杯生きて、白狐と人生を楽しむことだ。残り四日の人生を、楽しむことだ。

 白狐は、俺の隣でぴょんぴょんと跳ねている。よっぽどピアノを弾けたことが嬉しかったのだろう。

――本当に高校生なんだろうか。

 と不思議に思った。どこをどう見ても中学生、いや小学生にしか見えない。

「ねぇ?」

「うん?」

 ストレートに問うてみた。「白狐って本当に高校生?」

「はぁ?」

 キレそうな感じの声だったので、急いで訂正――出来ているか分からないが――をする。

「いや、何か幼いように見えるから……」

「幼いから私なんだろ!」

「なんだよそれ……」

 白狐は俺の前に出てきて、下から俺を睨んだ。

「じゃあ、夜トは本当に中学生なの?」

「え?」

「本当は高校生なんじゃないの?」

「何で?」

「言動が大人びてるし……」

 白狐は俺のことを褒めていることを分かっているのだろうか。

「え、ああ。ありがとう」

「あぁ! もう! これ褒めちゃってるじゃん」

 どうやら今気が付いたらしい。

 白狐はドスドスと歩き、わかりやすく怒りを表した。

 俺を置いてどんどん歩き、車を通り越してどんどん歩く。

「え……ちょ……どこ行くん――」

 その瞬間、白狐が消えた。俺は最後に白狐を見たところまで走る。

 そこに着くと、白狐はすぐに見つかった。ただ、近くの店に入っただけだった。

 急いで入ったので看板を見なかったが、店内に置いてある物でここが服屋であることが分かった。

 店内を見回すと、奥の方で服を漁っている白狐を見つけた。

 白狐のところに向かいながら店内を今一度見回す。どれくらい放置されているのかは分からないが、店内は比較的綺麗だった。男性用と女性用で区別され、さらにはパジャマ、下着、アクセサリー、クッションなどで分類されていた。

 面積はさっき入った楽器店よりも広く、品揃えがいい。変にショッピングモールに行くよりも、この店に来た方がいいだろう。

 白狐のいるところに着く。が、白狐はまるで俺がいるのを知らないかのように振る舞っている。そんなに〝幼い〟と云われたのが嫌だったのだろうか。

「なぁ……白狐?」

「何?」

 口調も、どう聞いても怒っているようにしか聞こえない。

「ごめんて……」

 白狐は服を漁りながら云う。「何が?」

「幼いとか云ってごめん……」

「さあね」と、答えになっていない言葉を残して白狐は他のコーナーに行った。

 俺もそれに続く。が、足を止める。白狐が向かったのは下着コーナーだったのだ。もちろん、女性用の。

 たとえ周りに誰も――白狐を除いて――いなかったとしても、そこに入るのは躊躇われた。

 俺が着いてこないことに気が付いたのか、白狐が振り向いて云った。

「悪いと思ってるなら私のところまで来て」

 本当なら今すぐにでも「嫌だ!」と云いたいところだが、今の状況で嫌だと云う訳にはいかない。

 なるべく周りを見ないように、下を向きながら白狐のところに向かう。床のタイルでまっすぐ歩けているかを確認しながら少しずつ進む――?

 刹那、視界が天井を捉えた。背中にはひんやりとした感覚がある。

 どうやら、俺は転んだらしい。

 しかし、転んだだけなら次のことが説明できない。

 俺の上には白狐が乗っかっている。

 俺が仰向けに寝て――転んで――いて、白狐が俺に馬乗りになっている。

 そして何故か今、腹が痛い。腹痛、と云う物ではなく、誰かに腹を殴られたときのそう云う痛みだ。

 つまり、何かが俺の腹にぶつかった……? 一体何が。

 そんなこと考えなくとも答えは分かっている。

 白狐だ。

 白狐が俺に突進してきて、俺を転ばせて馬乗りになった。

 そう考えれば、全ての辻褄が合う。

 と、推理が終わったところで白狐が笑い出した。

「あはは! 夜ト、何でそんなにびっくりしてんの?」

 俺は呆気にとられた。さっきまで怒っていた白狐はどこに行った?

「え……どう云う……こと?」

「ははは、夜トって純粋だなぁ。私が怒ってる〝ふり〟をしてたの、気付かなかった?」

「え……あれ、ふり、だったの?」

「そりゃそうでしょ! 幼いって云われただけで、そんなに怒ると思ったの?」

「いや……少し可笑しいとは思ったけど……」

 白狐は俺の上から退くと、手を差し出してきた。その手を握って立ち上がる。

「はい、と云う訳で。ドッキリでした」

「本当に怒らせた――って云うか嫌われたと思ったからやめてくれ……」

「ごめんごめん」

 一度息を吸ってから云う。「で、ここから出て行っていいか?」

「え?」

「この――場所から」

 白狐は辺りを見回して、やっと気が付いたらしい。

「あーね。え、でも大丈夫だよ。私以外いないんだし」

 それはそうなのだが――。

「何か、無理なんだよ。白狐以外に人がいないとしても」

「大丈夫大丈夫! 夜トが変なことしても引かないから」

「変なことする訳ないだろ」

「我慢しなくたっていいんだよ。思春期の男子にはお宝だろうから」

「……今度は俺が本気で怒るぞ?」

「ははは、ごめんごめん」

 その後、自分の欲しい服を個人個人で探すことになった。

 とは云っても、俺に欲しい服なんてないので適当に手にぶつかった物を取った。

 一方の白狐は、まるでメイド服のような物を持ってきた。

「…………」

「いや、何? 何か云ってよ」

「メイド服じゃん」

 白狐は首を思いっきり横に振って否定する。「メイド服じゃないよ!」

「じゃあ……何なんだ?」

「別にこれ、って云う名前はないよ。私が可愛いと思った服とスカートを持ってきただけだから」


 服を持って店を出、服を車に放り込んでから車に乗り込む。

 毎回思うが、代金を支払わずに商品を店から持ち出すのはドキドキする。今となっては犯罪の〝は〟の字もない世界だが、それでも緊張というか、変なことをしている気分になる。

 白狐に出会う前、入った店のレジの中の一万円札を取り出して広げたことがあった。当然、銀行員ではないため綺麗に広げることは出来なかったが、一万円札を扇子代わりにして仰ぐことは出来た。

 その時も、何故だか心臓がよく仕事をした。おそらく、通常時の二倍の血液を体中に送っただろう。

 ふと思った。

 俺は犯罪を犯すことが出来ない人間なのかも知れない。

 今思い返してみても、俺が犯罪を犯したことは一度もない。記憶にある限りでは。

 おそらく、周りの奴らの中には万引き常習犯がいたに違いない。少なくとも、一人はいた。

 万引きしたシャーペンを自信満々に周りに配っている奴がいた。

 しかし、そんな中でも俺は犯罪を犯さなかった。と云うより、犯罪を犯すのが怖くて何もしなかった。

 慥かに、何度か万引きをしようとしたときはあった。

 だが、いざその時になってみると手が震え、全身から汗が噴き出た。チラッと天井を見ると、防犯カメラが俺を睨んでいた。そして、怖くなってその場を逃げ出した。

――俺って、普通の人間だったんだなぁ……。

 なんて、そんなことを思いながらアクセルを踏み込んだ。

 雲は相変わらず空を覆い尽くしている。

 さっきは真上にあった太陽は、少し下がってきていた。

 さて、風呂を作りますか。

 そう思いながらハンドルを切った。

「夜ト、どこ行くの?」と白狐が問いかけてきた。

「お風呂、入りたい?」

 白狐は思いっきり首を縦に振った。「うん!」

「じゃあ、お風呂を作りに行こう」

「え?」

 白狐の目が「何するつもり?」と問いかけてくるのを無視して、家の近くにある木材加工の工場へと向かう。

 途中で白狐が問うてきた。

「夜ト?」

「うん?」

「夜トって……どこの学校行ってたの?」

「えぇと、小学校? 中学校?」

 白狐は少し悩んでから云う。「中学校」

「杉浦中ってところ」

「あー、あっちの方のね?」

 実際、白狐が本当に分かっているのかは分からないが「そうそう」と返しておく。

「で? 何で急に学校のことを?」と俺が問うと、白狐は少し考えてから「いや、その……さ。いじめとかって大丈夫だったのかな、って思って」と聞いてきた。

「いじめねぇ……」と云って、自分の過去を思い出す。

 無論、いじめはあった。当然のように。教師も表向きでは「いじめゼロの学校に!」なんて云っていたが、実際は見て見ぬふり、放置だった。

 だが、俺はいじめられなかった。

 いわゆる「陰キャ」に俺は属していた。陰キャと云っていじめられる奴もいたが、俺は何故か全くいじめられなかったのだ。

 理由はなんとなく分かる。

「あの子の家庭は危ないから近づくな」だろう。おそらく、それ程俺の家庭は終わっていたのだろう。もちろん、真実は分からないが。

「俺はいじめられなかったよ」

「俺は……ってことは……」

 頷く。「もちろん、いじめられている奴はいた」

「……先生達はそれをどうしたの?」

「無視、放置だよ、もちろん」

「……じゃあさ、例えば先生がいる目の前で一人の生徒が三人に殴られてても、先生は何も云わない訳?」

「うーん、『おいおい、やめろ』ぐらいは云うかも知れないけど。それ以上はないよね。多分」

「酷いね……」

 じゃあ……と聞き返す。「白狐の学校はどうだったの?」

「私の学校はねぇ……」と白狐は一度そこで言葉を切って、再び話し始めた。「高校は県立に行ったからいじめは殆どなかったんだけど、中学の方は私立だったからいじめは一杯あった」

 俺は疑問に思った。県立と私立でいじめの有無が判断できるのか? 俺の行っていた中学は市立だから、そこのところは分からない。

「私立だから……ってのはどう云うこと?」

「ほら、云ったでしょ? 私立の方は金があればどうにかなるって」

「……ええと、ごめん、分かんない。どういうこと?」

 白狐はふぅっと息を吐いてから話し始める。「県立は皆頑張って勉強して入るから、いじめとか、そう云うのは比較的少ないんだよね。

 でも、私立はそうじゃない。金があればどうにかなる。

 私立の中学は入試があるんだけどさ、お金持ちからすればそんな物関係ないんだよ。お金を払って点数を上げてもらうんだ。

 でもね? もちろんちゃんと勉強して入ってくる子もいる。でもさ、そう云う子って、当然お金持ちじゃない」

「あ……」

「分かった?」

「金持ちが金持ちじゃない子をいじめるってことか」

 白狐は手を叩いた。「そう云うこと」

「どっちが屑なんだろうね?」

「え?」

「陰キャとか、そう云うのをいじめる奴らと、金持ちじゃないのをいじめる奴ら、どっちが屑だと思う?」

「そりゃ、もちろん――?」

 せーの、と心の中で呟く。

「どっちも」「どっちも」

 俺は笑いながら云う。「まぁ〝どっちが〟って聞いてるから〝どっちも〟は答えになってないんだけどね」

「答えになってない答えがあってもいいんじゃない?」

「まぁね」


 しばらくして、木材加工の工場に着いた。幸運なことに、シャッターは開いていた。

 車から降りて、工場内に入る。

 当然人はおらず、機械も作動していない。

 見た感じ、入口付近から奥の方まで加工してある木材が大量にある。この中から、俺の目当ての形の木材を探すだけだ。

 俺が探している木材の形は、組み立てれば円柱を作れる木材――つまり縦長でまっすぐではなく曲線の木材と云うことだ。

 もちろん、そう云った注文がなければこの工場にその形の木材がある訳がない。

 だが、俺は絶対にあると云う確信があった。

 前にも云ったが、習い事のチームで風呂を作ったことがある。その際に使ったのは木材だった。そして、チームのコーチがこの工場で木材を加工してもらって受け取っているのを見たことがある。さらに、風呂を作るのは毎年の恒例行事だから毎年、必ずワンセットはこの工場で加工されている筈なのだ。

 そして、今年は隕石騒ぎで風呂作りの時期の前に人々は逃げ出した。

 つまり、加工された木材はまだ使われておらず、工場の中にある筈なのだ。

 入口付近にはなさそうなので、奥に入る。

 奥に入ると、もう動かない機械が沢山置かれていた。電動のドリルや糸のこなどがある。

 よく見てみると、電動糸のこの刃が木材に刺さりっぱなしの物もあった。

 後ろから足音が聞こえてくる。白狐も工場の中に入ってきたらしい。

 そんなことは気にせず、目的の木材を探す。

 機械の間をくぐり抜け、どんどん奥に進んで行く。どうやら、小さい木材は手前に置いて大きい木材は奥に置いてあるらしい。と云うことは、俺の目的の木材は相当奥の方にあるのだろう。

 工場の一番奥に着くと、大きい木材が壁に立て掛けられていて、その中に目的の木材があった。

 それは重ねて立て掛けてあって、合計四枚だった。俺が昔組み立てたのは六枚だったような気がしたので、試しに手で押さえながら組み立ててみると綺麗な円柱状になった。どうやら枚数が減らされたらしい。

 四枚を担いで引き返す。白狐は俺がどこに行ったのか分からなくなったのか、入口付近まで戻っていた。

 白狐に「もうちょっと待ってて」と云って、もう一度工場の中に入る。

 当然、あの木材だけでは風呂を作ることは出来ない。組み立てる道具が必要だ。

 それは機械が置いてあるところにある棚にあった。その中から金槌と釘を持って、もう一度引き返す。金槌を持つと、金槌で自販機を破壊したことを思い出した。

 入口まで戻った。金槌と釘を木材の上に置いてふぅっと息を吐いた。

「これで全部?」白狐が聞いてきた。

「多分」

「え、でもさ。これで円柱状のお風呂作るんだよね?」

「うん、そうだけど」

「じゃあさ……」白狐はにやっと笑って云った。「底板どうすんの?」

「あ……」

 すっかり忘れていた。これでは組み立てても水を入れることが出来ない。底なし鍋と一緒だ。

「ちょっと待ってて!」と叫んでもう一度工場に入る。

 底板はさっき持って行った木材が立て掛けてあったところにちゃんと置いてあった。綺麗に円形に切り取られていている木材と金属板。フリスビーが出来そうだ。底板をフリスビーのように持って一度投げるふりをし、白狐の元へ戻った。

「これで全部だよな?」と今度は自分から聞いた。

「多分、全部だと思うよ」

「じゃあ、組み立てていきますか」

「私は何もやんなくていいよね」白狐があぐらをかいて座った。「見てるね。最高の傍観者になるわ」

「えーっと、なんだっけ」

「何? 変態怠け者天才JK?」

「天才は取り消しで」

「取り消しなんて出来ません! って云うか、私組み立て方知らないから本当に何も出来ないわ」

「まぁ、それはそうだね」

 とは云っても、既に木材には穴――補助線から考えて補助穴とでも云うのだろうか――が開いていて、そこに釘を刺して叩けばすぐに出来る。

 まずは周りの枠を作る。

 四枚の木材を一気に繋げることは不可能なので、まずは二枚を繋げる。

 二枚を立てて、ぴったりと合わせる。そして、釘よりも少し細めに開けられた穴に釘を刺しこんで金槌で叩く。それを六カ所繰り返し、二枚を完全に繋げる。

 次に余った二枚を同じように繋げる。叩きすぎると罅が入ってしまうため、上手い具合に力を調節する。

 二枚が合わさった木材が二つできあがった。それを向かい合うように立てて、ぴったりと合わせる。そして、同じように穴に釘を刺して叩く。

 これで風呂の枠ができあがった。

 次に――さっき忘れていた――底板を取り付ける。

 枠を寝かせ、木材の底板をはめ込む。素晴らしい、ぴったりだ。底板を釘で固定し、さらに上から鉄板を釘で固定する。これで、火で熱しても木が燃えることはない。

 できあがった風呂を立てて、金槌を投げる。

「できた?」と白狐が聞いてきた。

「できた」そう云い、こっちに来いと手招きをする。白狐はそれに従って立ち上がり、こっちに来た。

「……漬物が出来そう」

「こんな大きな容器で漬物をすると思うか?」

「巨人専用の漬物」

「小説家にでもなれば?」

「ははは」

 白狐は風呂の周りをぐるぐると回り、俺に問うた。「で? 水はどうするの?」

「俺の家に何故かあった、大量のペットボトルの水を使う」

「足りる?」

「多分……ね」

 車に乗り込んで、俺の家に向かう。日は少し傾いてきた。まあ、風呂に入るなら暗い方がいいか。

 家に着くと、意味のない冷蔵庫から大量の水を引っ張り出す。

「あれ……」と云って白狐が部屋の隅を指さした。白狐の指したところには、段ボールに入ったままのペットボトルの水があった。それも、大量に。

 どう考えても段ボールに入った水の方が運びやすいので、段ボールの方を優先して運ぶことにした。

 白狐と二人ががりで車の後ろを、段ボールに入った水で埋め尽くした。「これさ、車動く? 大丈夫?」

「車はそんなに弱くないさ」

「本当に?」

「……多分……ね?」

 大丈夫だった。車はしっかりと動き、しっかりと進んだ。

 木材加工の工場まで戻り、車から水を取り出す。段ボールをベリベリと開け、ペットボトルをどんどん並べていく。

「これで終わりかな?」

「多分ね。じゃあ、水入れていこうか」

 白狐がペットボトルの蓋を開ける。

 そこで俺は、何かが足りないように感じた。何が足りないのだろうか。風呂はできあがった。ちゃんと底板のある風呂が。水もちゃんとある。沸かすのには火が必要だ。ライターは持っている。

 白狐が水を注いでいく。

 風呂もあるし、水もあるし、火もある。何が足りないんだろうか? 

――ん? あ……あー!

「白狐、ちょっと待って!」

「え?」

 そうだ。あれが足りない。

 そうだよ。風呂のそこを地面に付けて、どうやって風呂を沸かすというのだ。それに、何を燃やすというのだ。馬鹿か、俺は。

 足りなかった物は、燃やす物と風呂を地面から浮かせるための台だった。

 工場に入り、台になりそうな金属製の物を探す。木製だと燃えてしまうからだ。

 予想に反して、台になる物は簡単に見つかった。形は、何というか簡易椅子のような形をしている。だが、僕が飛び乗っても壊れない程丈夫だった。これなら風呂を乗っけて入っても壊れないだろう。

 木材加工の工場だから、当然燃やす物は腐る程ある。その中から手頃な大きさの物を持って工場から出る。

 白狐はその場から微動だにしていなかった。待って、と云っただけだから動いてもよかったのに。

「白狐、これ持って」と云って台になる物を渡す。

 そして、風呂を持ち上げて白狐に云う。「それ、下に入れて」

 水を殆ど入れていなかったので、風呂は軽かった。白狐が台になる物を下に滑り込ませ、その上に風呂を置いた。

「オッケイ。じゃ、水入れて」

 白狐はさっきのペットボトルを持ち上げて、風呂に注いだ。俺もキャップを開けて風呂に注ぎ込む。

 ペットボトルの水は、十分な量あった。風呂に必要な分、水を入れても余る程だった。

 台の下に木材を入れて、ライターで火を付ける。このライターを使うのは、煙草を吸おうとした日以来だ。

 ぐつぐつと水が沸騰したら、火を消して人が入れる温度まで冷ます。チームでやったときは温度計を入れて温度を見ていたが、今温度計がある訳がないので冷ますという手段をとったのだ。

 定期的に手を入れ、やけどしそうになりながら温度を確かめていった。

 少し熱めだが人が入れそうな温度になったので、車に戻って白狐に云った。

「白狐ー、そろそろ入れるよ」

 辺りは既に暗くなっていて、世界は月明かりで照らされていた。

「ねぇ、夜ト」近寄ってきた白狐が話しかけてきた。

「うん?」

「バスタオル――体ふくものどうするの?」

「あー」

 考えていなかったが、頭の中ですぐに代用品が思いついた。

 余っていた毛布を一枚持ってくる。

「悪いけどこれで……」毛布を差し出すと白狐は「毛布で体ふくなんて初めてだよ……」と云った。そりゃそうだろう。

「じゃ、ごゆっくり」

「夜トも……」どんどん声が小さくなったので、最後のところが聞き取れなかった。

「え? 何て?」

「夜トも一緒に入る?」

「一人しか入れない大きさだから遠慮しとく」

「じゃ、こっち見ないでよね」

 そう云って白狐は、毛布と着替えを持って車を降りた。

「分かってますよ」

「けど……たまには見てもいいよ」

「え、それじゃあ遠慮なく……」

「嘘だよ! 馬鹿!」

 しばらくすると白狐がお湯に浸かる音が聞こえ、次に白狐の叫び声が聞こえた。「夜トぉ! ちょっと熱いけど最高! 最高だぁぁぁぁぁ!」

 俺も叫んで返す。「よかったなぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 とは云え、俺も男だ。チラッと白狐の方を見た。

 しかし、離れていて月明かりだけでは風呂本体しか見えなかった。やめておけ、と自分に云い聞かせながらも目を凝らして、どうにか見ようとする。が、やはり暗くて見えない。

 潔く諦めた。

 数十分後、白狐が車に戻ってきた。

「上がったぜい」そう云ってピースサインをしてきた。

「テンション高いな」

「そりゃそうでしょ! ひっさしぶりにお風呂入ったんだから」

「あっそう。じゃ、俺も入るか」

 毛布と着替えを持って、風呂に向かった。

 服と靴をその辺に脱ぎ、着替えと毛布を近くに置いて湯船に入る。

「ふうぅ……はぁ……」自然と息が出る。

 縁に両肘を置いて、空を見上げる。家があって見えない部分もあるが、綺麗な星空だった。昼の雲はどこに行ったのだろうか。

 半月が見え、その近くに赤い物が見える。毎日毎日、しっかりと大きくなってきている。

――終わるんだなぁ……世界。

 一体、俺は何のために生きていたんだろうか。

 結局、世界に貢献せずにただただ生きてきただけだ。当然、俺がいなくたって世界は回る。俺がいなくたって、時間は過ぎる。俺がいなくたって、周りの人間は生きる。俺がいなくたって、学校は続く。俺がいなくたって、家族は生きる。

 俺がいなくたって。俺がいなくたって……。

 俺がいなくたって何も変わらない。そして、俺がいたって何も変わらない。

 何故生きているのか。それは本人ですら分からない、永遠の謎なんだろう。

 上がって、毛布で体を拭く。しかし、毛布は全然水を吸ってくれなかった。買ったばかりのタオルのように。

 それでもなんとか体に付いた水をふき取り、服を着る。

 と、そこで靴下がないことに気が付いた。まぁ、別に靴下はそこまで汚れていないので、今まで使っていたものをそのまま履く。

 毛布を持って、車に戻った。

「お、お帰りぃ」

「ただいま」

「早いね」

「白狐が、てか女子って風呂長くない?」

「女子にはすることが一杯あるの!」

「はいはい、そうですか」

 濡れた毛布を端に置く。「じゃ、寝る?」

「はぁ? 何云ってんの?」

「え?」他にどこか行くところがあっただろうか。「何?」

「ベッドで寝るって云っただろ!」

 慥かに、そんなことを云っていたような気がする。

「え、そうか。ホテルか」

「そうだよ! 忘れてんじゃないよ!」

「ごめんごめん」

 車のライトを付け、アクセルを踏み込む。

 徐々にアクセルを踏み込んで行き、スピードを上げる。ハイスピードになれたのか、白狐は何も云わずに座っていた。

 やはり、どこからどう見てもメイドにしか見えない。真っ黒な服に真っ黒なロングスカート。そして、その上からフリフリの白のワンピースのような物を着ている。

 もう一度云う。メイドにしか見えない。

「ねぇ、夜ト」急に白狐が聞いてきた。

「ん?」

「車内の照明ってないの?」

「え? あ、ああ。あるんじゃね?」

 月明かりを頼りに、スイッチを探す。

「これ……かな」それらしきスイッチを押すと、車内が一気に明るくなった。「大正解」

 明るくなったので、さらにアクセルを踏み込む。理由になっていないが。

 ホテルまではほぼ一本道なので、スピードを落とす必要はない。

 しばらく走ると、月明かりでぼんやりとホテルが見えてきた。そのままのスピードで直進し、ホテルの駐車場が見えてくる。

 スピードを落とし、駐車する。

「白狐、着いた――」そこで止めた。なんと、あのハイスピードの車の中で白狐は寝ていたのだ。明るい車内では、その寝顔が隠されることなく晒されていた。

 頭を垂らして寝ているのではなく、頭を座席に預け、少し上向きで寝ていた。

 しばらくその寝顔を見ていると、俺の目線は自然と白狐の唇へと吸い寄せられていった。あの日、キスされたことが脳裏に浮かぶ。あの、白狐の唇の柔らかさが思い出される。

 自然と俺は白狐に近づいていった。そして、白狐の唇に俺の唇を近づけて――。

「むぁ?」と、そこで白狐が目を覚ました。

 俺は急いで体を白狐から離して〝何もしてないですよ〟アピールをした。が、白狐は気が付いていた。

「ははは、隠せてないぞ」

「な、なんのことかなー」

「いいから、そういうの。はい」

「え?」

「はい!」そう云って白狐は目を瞑った。

「え?」

「ん!」白狐は唇を前に出した。

「外国の挨拶……?」

「あーもう! 早くしてよ! 恥ずいんだから!」そう云って白狐は再び口を閉じた。

 俺は覚悟を決めて、少しずつ白狐に近づいていった。そして、顔を近づけ……唇を合わせた。一瞬だけ。

「離すの早っ」

「仕方ない。俺は慣れてないんだ」

「私だって慣れてないわ」

「え? そうなの?」

「乙女だってば」

 ポケットにライトを入れて車を降り、ホテルに入った。


 ホテルは服屋と同様、綺麗だった。さっきポケットに入れたライトを頼りに動く。

 一回には作動していない自販機などがあり、他に待合室や遊戯室があった。もちろん、フロントもある。

 巫山戯てフロントの呼び出しのベルを鳴らしてみる。

「チーン」

「誰もいる訳ないでしょ」白狐が冷静にツッコむ。

「お遊びだよ」

 ホテルのフロアごとの見取り図にライトを当てる。

「どこの部屋がいい?」

 見たところ、六階建てのホテルで一フロアに一〇個程の部屋があるようだ。

 白狐はうーん、と唸りながら見取り図を睨み、最上階――六階の真ん中辺りの部屋を指さした。

「一番上?」

「うん、見晴らし良さそうだし」

「でも……エレベーター動いてないぞ」

「階段で上ればいい!」

 どうやら白狐は何が何でも最上階がいいらしい。

 ため息をついて「はいはい」と云うと、階段に向かった。手すりにつかまり、足下をライトで照らしながら慎重に歩く。ここで落ちたら洒落にならない。

「白狐? 大丈夫? 足下見えてる?」

「大丈夫! そのライト案外強いから」

 床のカーペットが謎に赤く、目がいかれそうだった。それでも、なんとか一歩一歩慎重に登り、六階に辿り着いた。

 白狐が六階に着いたのを確認して、部屋に向かう。階段が中央辺りにあったので、中央辺りにある部屋はほぼ目の前にあった。

「六○五号室だね」

「そんなことどうでもいいよ。ほら、さっさとと入ろ」白狐が袖を引っ張ってきた。

「はいはい、分かりました」

 ドアノブを捻って、ドアを押す。特に軋むような音はせずに扉が開く。

 俺が先に入って、部屋の中をライトで照らす。ベッドが二つあり、その奥に大きな窓ガラスがあった。

 白狐はベッドを通り過ぎ、窓ガラスの鍵を開けて外に出た。外にはベランダがあるらしい。

 近寄ってみると、ベランダは人が二人は入れるかは入れないかのとても小さな物だった。

 不意に白狐が叫んだ。「わあぁーーーーーーーーーー!」

「うわっ!」思わず耳を塞いだ。

「何⁉ 急に」

 白狐は部屋の中に戻ってきて云った。「こう云うのって普通の世界じゃ出来ないじゃん。やってみたかったんだよね」

「なら叫ぶよ、とか先に云ってくれ」

「ははは、ごめんね」

 ライトをベッドに当て、指さす。

「こっち白狐のベッドな。ほら、寝て」

「はいはい、分かりました」

 白狐がベッドに入ったのを待ってから、俺もベッドに入る。ライトを消して近くの棚に置き、ベッドに潜り込む。

「フッカフカ

「な。凄いフカフカ」

「……おやすみ」

「ああ、おやすみ」

 すると、白狐が泣きそうな声で聞いてきた。

「いなく……なんないよね?」

「え? ああ。もちろん。俺は死ぬまで白狐と一緒にいるから。安心して寝な」

「……ありがとう」

「おやすみ」あえてもう一度云った。

「うん、おやすみ」

 世界は無音になり、どんどん眠気が大きくなっていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る