▽残り一週間と六日の狭間

 どこかで物音がした。僕は辺りを見回す。ここは、僕の家だ。

 どうやら僕は自分の部屋で寝ていたらしい。

 物音は下から聞こえてきた。物が軋む音と、女性の声。この声は、多分母の声だ。

 寝起きでふらつく足で立ち上がり、部屋を出る。下からはまだ音と声が聞こえる。

 足音を立てないように階段をゆっくりと降りる。ゆっくりと。母が泥棒に襲われているのだろうか。ならば下には降りない方がいいのだろうか。そんな考えが頭の中を駆け巡るが、僕は下に降りるという選択をした。一階の床が見えてきた。音は左側、つまりリビングの方から聞こえる。

 階段からゆっくりと顔を出し、一回の廊下を見渡す。誰もいない。

 音はやはりリビングから聞こえる。

 階段の最後の一段を降りて、一階の廊下に降り立つ。心拍数は少なくとも一〇〇は上がった。抜き足差し足で廊下を歩き、リビングのドアの前まで来る。リビングのドアにはガラスが入っていて、そこから中を見ることが出来た。

 おそるおそる中を覗くと、一人の男と母がいた。母は全裸でテーブルの上に寝ていて、男は半裸――下を脱いでいる――で立っている。物音と声はしなくなっていた。

 理解できない光景を見ていると、男が母に重なった。再び物が軋む音と、女性の声がした。やはり声の主は母で、物音はテーブルが軋む音だった。

 僕は二人のしている行為の意味が分からなかった。母は全裸で、男は半裸で何をしているのだろうか。

 だが、ドアを開けることはしなかった。僕の中の何かが、ドアを開けてはいけないと云っている。自分で開けてみようと思っても、体がその行為を拒絶する。

 僕はただただその行為を眺めることしかできなかった。

 突然男が「ああ!」と叫んだ。母は苦い物を食べたような顔をしていた。

 男が母から離れた。母は全裸のまま足を開いて、テーブルに寝そべっている。

 と、そこで僕の目線が――いや、いる場所が変わった。

 僕は……ああ、そうだ。僕は昔思いを寄せていた子の家にいた。今、その子の部屋の前に立っている。

 中から手を叩くような音と、さっきと同じような女性の声が聞こえた。

 僕は少し開いているドアの隙間から、それを見た。二人の全裸の男の間に、全裸の彼女がいた。彼女は四つん這いで、男達は彼女の前後で何かをしている。が、僕にはその行為にどう云う意味があるのか全く分からない。

 しばらくすると姿勢を変え、彼女は一人の男の上にまたがり、もう一人の男は彼女と唇を合わせている。

 何が何だか全く分からない。彼らは、何をしているんだろうか。

 しばらく見ていると、男達が服を着始めた。彼女も服を着、男達に「お金」と云った。

 二人は個人個人で封筒を――つまり合計二つの封筒を彼女に渡した。

 男達がドアに向かって歩いてきた。僕は廊下の奥まで逃げた。

 男達が部屋から出てきて、階段を下っていった。僕は彼女の部屋の前に戻って、ドアを開ける。彼女は完全に服を着終えていなかった。

 彼女は下着だけを身につけた状態で僕に微笑んだ。

「これが私の人生」

 と、そこで目が覚めた。辺りを見回す。ここは……あの車の中だ。

 外を見ると、まだ暗い。時計がないから何時か分からない。

 毛布を置き、白狐を起こさないように静かにドアを開ける。

 車から降り、少し歩いて体育座りで座る。目を膝に当てて泣く。夢の中では何が何だか分からなかったが、夢から覚めた今ではあの行為が何なのかが全て分かる。だからこそ悔しい。

 後悔があふれ出る。母を救えなかった後悔、彼女を諦めた後悔。もし家の借金のことに気が付いていれば、母は死なずに済んだのではないか? 彼女に「大丈夫。これが私の人生だから」と云われたときに諦めずにいたら、彼女を救えたんじゃないか? 二人は、僕に救ってもらえなかったのが悲しかったんじゃないか? 何も云わず、平気なふりをしていつつも、本当は誰かに助けて、救ってもらいたかったんじゃないか?

 したって仕方のない後悔があふれ出る。それに比例するように涙もあふれ出る。

 ずっと自分を恨んでいた。自分を取り巻く環境も恨んでいた。

 何で僕がこんな目に遭わなきゃならない?

 何で僕は何も変えられない?

 ずっとそう思っていた。そして、答えは簡単だった。

 そう云う環境に生まれたから。

 決して変えられない物だから。

 そう、単純なことだった。だが、僕はもっと何か深い理由があると考えてやまなかった。そしてどんどん深く考えていき、必ず一つの答えに辿り着くことが分かった。

 深淵。

 このときだった。深淵から逃れられないと気が付いたのは。糊と云う深淵が体に纏わり付いていると気が付いたのは。

 そこで僕は全てを止めた。考えること、努力すること……。何もせず、今いるところに止まり続けた。這い上がれないなら、これ以上落ちないようにすればいい。そう考えたのだ。

 死ねば全てが終わると考えたこともあったが、死ななかった。死ぬのも面倒に思えたからだ。

 しかし、今日――昨日かも知れないが時間が分からない――と云う日に白狐に会えて、もしかしたら深淵を抜け出せるかも知れない、と初めて思った。

 だが、どこに行っても僕は僕だった。深淵で味わった悲しみや後悔は絶対に振り落とせない。深淵は環境だけではなかった。心の中にも深淵が出来ていた。

 もう無理だ。

 涙の量が増した。膝が生ぬるい。もう、全てがどうでもよくなった。白狐が好きな筈なのに、気が付くとどうでもいいと思っていた。深淵は僕の心を完全に浸食している。僕の意思や感情まで深淵が入り込んでいる。

 不意に、小学校の頃に云われたことを思い出した。

「ねぇ、生きてるの、楽しい?」

 楽しくない。全く楽しくない。

   (ねぇ)

 どこに楽しみがあるんだ? そんな物探したってありっこないんだ。

          (生きてるの)

 ああ、死にたい、消えたい。ああ、死ねば楽になれるのかなぁ?

                    (楽しい?)

 あの建物から飛び降りれば死ねるんじゃないかな。でも痛いのやだな。

「泣いてるの?」

 背後から声がした。その声は僕のネガティヴ思考を全て吹き飛ばす程、僕の心で共鳴した。白狐の声たっだ。

「ねぇ、大丈夫?」

 大丈夫じゃなかった。絶望で口が動かなかった。

「え、本当に大丈夫?」

 白狐が体を揺さぶってくる。

「あ……」

「え? 何て?」

 別に深く考えて云った訳じゃない。何も考えてなくて、口が勝手に動いた。

「死にたい……」

 白狐は驚いていた。

「え、急にどうしたの? え、何かあった?」

「ねぇ、何で僕は生きてるんだ? 何のために生きてるんだ? 生きてる意味はあるのか?」

 白狐は困っていた。僕の過去を知っているから、何を云っても無駄だと思ったんだろう。そうだ、今の僕に何を云っても無駄だ。放って置いてくれ。

 だが、白狐は僕を抱きしめた。そして、耳元で囁いた。あの時のように。

「夜トは私が好きで、私は夜トが好き。私は夜トのために生きる。夜トは私のために生きて?」

 何故かは分からない。ああ、さっきから分からないことだらけだ。

 何故かは分からないが、白狐の言葉は誰の声よりも僕の心に響いた。今日――もしくは昨日――会ったばかりの、たまたま知り合って、たまたま好きになっただけの白狐の声が、恐ろしい程に誰の声よりも僕の心に響いた。大好きだった母の褒め言葉より、まだ好きだった頃の父の褒め言葉より、気に入っていた学校の担任の励まし言葉より、思いを寄せていた彼女の甘え言葉よりも、心に響いた。

「生きる意味が見つからないなら、見つければいいよ。この世界なら何でも出来るから。だがら、見つかるまで私のために生きて? ね?」

 本当に見つかるのか。確証はあるのか。そう問いたかったが、止めた。僕の好きな白狐が云うなら間違いない筈だ。

「……分かった」

 白狐は「よしよし」と云って僕の頭をポンポンと優しく叩いたり、撫でたりした。小さい子供をあやすように。そして、それをやられると無性に心が落ち着いた。どうやら、僕は白狐に子供扱いされるのが好きらしかった。

 白狐の腕から出て、袖で目を拭う。

「ああ……柔らかかったです」

 白狐は笑い転げた。

「あはは! 私がまだネタを振ってないのに! いいね、夜ト!」

  空を見上げた。と、その時。赤い物から流れ星が生まれた。それは一気に光り輝き、消えた。

「白狐、今流れ星が見えた」

「ええ! 消える前に云ってよ!」

「いや、でもあれから生まれた流れ星だし」

 赤い物を指さした。

「ああ、砕けて小さくなったのが流れ星になったのかな」

「多分、そう」

 願うなら白狐とずっといたい、そう思った。白狐と一緒にいられる世界なら、少しは楽しくなる筈だ。たとえ自分を取り囲む物が深淵でも。

 でも、それは叶わない。世界はもうすぐ終わるから。

 赤い物が深淵を壊してくれると期待を寄せていたのに、気が付けば赤い物を恨んでいた。深淵が壊れると同時に、僕も白狐と一緒にいれなくなる。

 何で世界がこうなる前に白狐に出会っていなかったんだろう。何でもっと前に白狐に出会えなかったんだろう。ああ、やっぱり神は意地悪だった。幸福を与えても、それは一ヶ月にも満たない短い期間だけだった。

「白狐」

「うん?」

「云いたいことがある」

 白狐はあぐらになった。「どうぞ」

「僕は白狐のことが――」

 そこで白狐が手を振った。

「一緒に云おう」

「……分かった」

 せーの。

「僕は白狐のことが」「私は夜トのことが」

 もう一回。せーの。

「好きです」「好きです」

 二人の声が綺麗に重なり、暗闇に消えた。

 僕は白狐に抱きついた。「よしよし、もう一回して」

「あ、うん。え、よしよし好きなの?」

「何か気に入った」

「ははは、子供だなぁ」そう云いながら白狐は僕の頭を優しく撫でた。

 しばらくすると瞼が重くなってきて、気を抜くと眠ってしまいそうな程にまでなった。

「……眠くなってきた」

「車に戻ろっか?」

「そうしよう」

 車に戻り、寝転んで毛布をかける。

「ああ、そうだ。何で白狐起きたの?」

「いや、ドアが開く音がしてさ。それで外見たら夜トが座ってて、何してんのかなって見てたら泣いてるっぽかったから降りて話しかけに行った」

「ああ、ごめん。起こしちゃったのか」

「いいよ、楽しかったし」

「……何が?」

「色々」

 おやすみ、と云って白狐が毛布を頭までかけた。僕もおやすみ、と云って目を閉じた。

――ねぇ、生きてるの、楽しい?

 ああ、今は凄く楽しい。

 微かにくぅ、と白狐のいびきのような音が聞こえた気がした。

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