肉食菜食論争
蟹場たらば
1 肉食主義者の言い分
「本日は貴重なお時間をいただきありがとうございます。よろしくお願いします」
メールと電話でアポを取ったので、直接顔を合わせるのは今日が初めてだった。私は挨拶をしながら、相手に名刺を差し出す。
『フリーライター』
それが私の肩書だった。
「こちらこそよろしくお願いいたします」
私と同じように、彼も挨拶をし、また名刺を渡してきた。
彼の肩書はこうである。
『ヴィーガン推進協会 会長』
つまり、私は今日、取材のために彼の下を訪れたのだった。
一口にフリーライターと言っても、ピンからキリまであって、私は明らかにキリの方だった。自前のブログに記事を上げて、それでわずかな広告収入を得ているだけの、零細ウェブライターだったからである。最近とある大手ニュースサイトに声を掛けられて、連載を持つようになったものの、その稼ぎも雀の涙ほどのものだった。
そのため、私の収入の大半は、アルバイトによるものというありさまだった。姉には「フリーライターじゃなくてフリーターでしょ?」と、顔を合わせるたびに定職につくように説教されていたほどである。
今回彼に取材を申し込んだのにも、実はそういう事情が絡んでいた。
一般人が普及のための活動を行ったり、芸能人が転身を宣言したり、年々ヴィーガニズム(ヴィーガン思想)が広まりを見せている。また、それに比例するように、抗議デモやネット炎上など、反対活動も激しいものになってきている。賛否の立場は違ったとしても、人々にとってヴィーガニズムが関心の高い話題であることには違いないのだ。
だから、今回の取材には、純粋な好奇心や正義感以外に、「アクセス数を稼いだり、名前を売ったりするのにちょうどいい」という邪な期待もあったのである。
もっとも、打算があるのは彼の方も同じだろう。他のヴィーガンの団体と比べて、ヴィーガン推進協会は小規模である。少しでも売名をしたいから、私のような無名のライターの取材にも会長直々に応じることにしたのではないか。
「紅茶とコーヒーどちらがよろしいでしょうか?」
「では、コーヒーをいただけますか」
私の返答を聞くと、彼はすぐにテーブルを離れて、キッチンへと向かった。
取材を行う場所として、私は最初喫茶店を考えていた。しかし、彼の方から自宅にしてほしいという指定をされた。「協会のメンバーともよく集まっていて、自宅兼事務所のようなものだから」というのがその理由である。
私も当初はその説明で納得していた。だが、実際に家を訪れてからは考えが変わった。もしかすると、彼は私の記事を通じて、ヴィーガニズムはオシャレでセレブな趣味だという印象を人々に与えたいのではないだろうか。そう思うほど、彼の自宅は豪華で瀟洒なものだったのだ。
もっとも、これは単に私の邪推かもしれない。資産家の父親から援助があるため、彼自身は協会の活動以外には何の仕事もしていないという。その上、まだ若く、一流大の出身だそうだから、その気になれば就職先はいくらでも見つかるはずである。さらに言えば、長身で顔立ちも悪くない。これで
案の定、彼は私が見たこともないような高級そうな食器を手に戻ってくる。おそらく、コーヒーも同じように高級品なのだろう。
しかし、それ以上に面食らうことがあった。
「お砂糖とミルクが必要でしたらこちらを。ソイミルクですが」
「豆乳ですか?」
「牛乳は家にないもので」
その理由にはすぐに察しがついた。
「初歩的な質問で恐縮ですが、ヴィーガンというのは肉はもちろん乳製品や卵も食べない、完全な菜食を行う方だという認識でよろしいのでしょうか?」
「概ねその通りです」
ベジタリアン=野菜や果物だけを食べる、と考えがちだが実際には違うという。乳製品や卵はもちろん、頻度が低ければ肉を食べてもベジタリアンはベジタリアンらしい。そんな中で、植物性の食品しか食べないのがヴィーガン(ピュアベジタリアン)なのだ。
「ただ厳密なことを言えば、ヴィーガンは毛皮を使った衣類など動物由来の製品の使用にも反対しています。そこがベジタリアンとの違いですね。ベジタリアニズムを菜食主義とするなら、ヴィーガニズムは脱動物搾取主義とでも言えばいいのでしょうか」
彼はまた「もっとも、ベジタリアンやヴィーガンという言葉は多義的で、動物の搾取に反対しているベジタリアンもいれば、健康を目的として菜食をするヴィーガンもいます。そのため、脱搾取を目指すヴィーガンを特に
わざわざ細かい注釈を入れてきたところから言って、彼がその点にこだわっているのは明らかだった。
「では、あなたは動物の搾取に反対して、ヴィーガンになろうと思われたのですか?」
「人間には人権がありますよね? 健康的な生活を営む権利、思想や信仰を強制されない権利、平等な法の下に扱われる権利……
同じように、動物には動物の権利があるはずです。そのようなアニマルライツを尊重するべきだと考えて、私はヴィーガンになることを選択しました」
アニマルライツという言葉に聞き覚えはあったが、ぼんやりとした知識しか頭になかった。ヴィーガンに詳しくない読者と同じ目線に立とうと思って、下調べはあまりしてこなかったのだ。
「動物にはどのような権利があるとお考えですか?」
「大原則として、人間による狩猟や飼育の対象にされない権利が挙げられるでしょう。
また、仮に家畜やペットを認めるとしても、栄養的に満たされる権利、恐怖や苦痛から解放される権利、通常の行動様式を取る権利などが保証されるべきです。
「たとえば、畜産というと広々とした牧場で動物たちが放し飼いにされているような、牧歌的なイメージを我々は抱きがちです。しかし、現実には乳牛は牛舎に縄で繋がれて、ろくに身動きも取れない悲惨な生活を送らされていることがほとんどです。
それでも乳牛はまだマシな方と言えるかもしれません。肉牛の場合はある程度大きくなったらすぐに屠殺ですからね。中には、自分が殺されることを理解して、涙を流す牛もいるそうですよ」
そこまで説明すると、彼は私に問いかけてきた。
「あなたは牛乳をお飲みになりますか?」
「……ええ」
「牛肉をお食べになりますか?」
「……ええ、そうですね」
乳牛や肉牛が過酷な目に遭わされているという話を聞かされたばかりである。肉食主義者であることを認めるのは少々気まずい。
だが、事実である以上、認めないわけにはいかないだろう。
すると、彼はさらに続けて問いかけてきた。
「逆にお尋ねしますが、どうしてあなたは肉をお食べになるのですか?」
この質問には、明らかに批判的な響きがこもっていた。
私は――というか多くの人間がそうだろうが――肉が好きである。牛肉ならステーキに牛丼、豚肉ならとんかつや生姜焼き、鶏肉なら唐揚げ、焼き鳥…… 三種の肉すべてを食べられる焼肉ももちろん好きだし、羊肉を使った火鍋や馬肉を使った馬刺しもちょくちょく食べている。
しかし、そのことを彼は「動物の搾取だ」と、「やめるべきだ」と主張しているのだ。
だから、私はすぐに反論を始めるのだった。
「あなたのお話によれば、動物にも権利があって、それを侵害するのは許されないということでしたよね?」
「その通りですよ」
「でも、代わりに野菜は食べるんですよね? 植物の権利はどうなっているんですか? 植物は可哀想だと思わないんですか?」
「植物には痛覚がありませんから」
彼はさらりとそう答えた。自明だとばかりに、それ以上は何も言わなかったのだ。
その態度に、私はつい勢い込んで尋ねる。
「痛覚だけの問題なんですか? 動物も植物も同じ命だとは思いませんか?」
「あなたは本気で動物と植物を同じ命だと考えていらっしゃるのですか? たとえば動物を屠殺するのと野菜を収穫するのを同じ気持ちで見られますか?」
「いや、それは……」
「あるいは動物愛護法はどうですか? 植物を無視して動物の権利だけを守る法律ですが、これも同じように『同じ命なのに区別するなんておかしい』と批判されますか?」
確かに、私は動物と植物を同じ命だと見なしていなかった。動物の死体に眉を
それどころか、「牛や豚は食べられても、犬や猫は食べられない」と、同じ動物の命に対しても差をつけてしまっていた。自分さえ納得させられないような理屈で、他人を説得できるはずがないだろう。
しかし、だからといって、彼の理屈に納得できるかといえばそういうわけでもなかった。
「菜食のために農業をすれば、農作物につく害虫を駆除する必要が出てきますよね? 確か近年の研究で、虫にも痛覚があることが分かってきていたはずですが」
「畜産のための飼料は、その農業によって作られるものですよ。そして、1キロの肉を作るには、その何倍もの飼料を家畜に与えなくてはいけません。菜食よりも肉食の方が多くの虫を苦しめることになりますね」
想定通りとばかりに、彼はすぐにそう再反論してきた。
それどころか、皮肉めいたことまで口にし始める。
「そういえば、あなたは先程動物も植物も同じ命だとおっしゃられていましたよね? 本当に植物が可哀想だと思うなら、肉食をやめて犠牲になる植物を少しでも減らすべきではありませんか?」
まさか自分の主張に足を引っ張られることになるとは思わなかった。こんなことなら、最初に反論された時点で、さっさと取り下げておけばよかった。
どうも生命倫理の観点から攻めるのは分が悪いようなので、私は別の話を持ち出すことにする。
「あなただって病気になれば薬くらい飲むでしょう? あれはマウスや猿を使った動物実験を経て作られたもののはずです。それは許されるんですか?」
「ヴィーガンの中には薬さえ拒絶される方もいますが……私は人間が生きるためにやむを得ない場合は、動物を犠牲にすることを許容してもよいと考えています。病死しそうなら薬を飲んでもいいでしょう。餓死しそうなら肉を食べてもいいでしょう。
逆に言えば、必要以上に動物を搾取することは許されないという風にも考えていますけどね」
人間の生存に必要な場合に限っては動物を犠牲にしてもよい。一見もっともらしい言葉だろう。
だが、その言葉に、私は彼を論破する糸口を見つけたような気がした。
「肉は健康の維持に必要なのではありませんか?」
「それは典型的な誤りですね。肉から摂取できる栄養が人体に不可欠ということはありません。最近はヴィーガンのアスリートだって出てきているくらいですよ。
それに肉食にはガンの発症等のリスクあることが指摘されています。本当に健康のことを考えるなら、むしろ控えるべきではないでしょうか」
本当にそうなのだろうか。私の持つ知識では、菜食が一方的に肉食より優れているとは考えられなかった。
「『肉を食べるようになって体調がよくなった』と話す元ヴィーガンの記事を読んだことがありますが」
「それは菜食に関する知識が足りないせいで、栄養不足に陥ってしまっていただけでしょう。菜食ではビタミンB12やタンパク質など、一部の栄養素の摂取が難しいのは確かですから。
あるいは、『肉を食べた方がいい』『肉を食べるのは必要なことだ』という思い込みによるプラシーボ効果だとも考えられますね」
はっきり言い切るくらいである。菜食でも栄養的に問題はないというデータが存在しているのかもしれない。しかし、どうにも腑に落ちなかった。
「でも、人間はずっと雑食でやってきたわけでしょう? 野菜だけでなく、肉も食べる方が自然なのではないですか?」
「それは自然主義的誤謬です」
「自然……なんですか?」
「よく同性愛は自然の摂理に反していると批判されますが、実際には動物にもしばし同性愛は見られます。しかし、たとえ動物の間で確認されなかったとしても、個人の自由を尊重する意味で、人間の同性愛は認められるべきでしょう。
このように、自然な状態がAであるからといって、それを根拠にAであることが正しいと主張するのは間違っているんです。これを自然主義的誤謬と言います」
私は自然主義的誤謬を知らなかったことを恥じた。また、それゆえに的外れな反論をしてしまったことを恥じた。
「あなたはインターネットを使いますか? 恋愛結婚をしたことはありますか? 国民皆保険を利用した経験は? どれも古い時代にはなかった不自然なものですよ。それなのに、何故ヴィーガニズムだけを不自然だから良くないと否定されるのですか?」
赤面して黙り込む私に、彼はそう畳みかけてくる。どうやら栄養学の観点から攻めるのも難しいようだ。
「ヴィーガニズムが広まると、畜産業に従事している方が困るでしょう?」
「文明の発達とともに消えていった職業はいくつもありますが、あなたはそれらを復活させるべきだとお考えなのですか? あるいはAIの発達によって、多くの職業が将来的に消滅することが予想されていますが、AIの研究に反対されているのですか?」
無論そんなことはなく、むしろ研究に賛成しているくらいだった。AIが社会を進歩させ、我々の生活を豊かにする、と。仮に失業問題が起こるとしても、それは補助金などで対策すればいい、と。
「人間が畜産をやめたら、家畜は絶滅するのではないですか?」
「絶滅を防ぐだけなら、動物園や保護施設で事足りるでしょう。畜産をしなくてはならない理由にはなりませんね」
コストが……と言いかけて私はやめた。家畜化された動物を飼育するのに、さほどのコストは必要ないだろう。もっと金や手間のかかる動物の保護を先にやめるべきだという話になってしまう。
「ラ、ライオンはどうなんですか? 肉食動物が肉を食べるのはいいんですか?」
「動物には食物の種類を選択する能力がないのだから、彼らが肉食をするのはやむを得ないでしょう。それとも、あなたはご自分の知能をライオン並みだと思っておられるのですか?」
憤怒と羞恥に私は顔を赤く染める。
ここまでずっと彼に論破され続けていた。そのせいで、自分の知能が動物レベルだと見なされているかのように思えてならなかったのだ。
そんな私に、彼は改めて尋ねてきた。
「この通り、人間が肉を食べなくてはいけない理由はないんですよ。それなのに、あなたはどうして肉を食べるんですか?」
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