無敵のチーズ令嬢

 急に、どこか気の抜けたような声がした。

 振り返るとそこには、いい感じに力の抜けた印象の、妙齢みょうれいの美女が立っていた。そして――。

 リヴァイアサンの漆黒の巨体は跡形もなく消えていた。

 カティは目をパチクリさせながら尋ねた。

 「あなた、リヴァイアサンさんですか?」

 「そうだよぉ、リヴァさんだよ、よろしく。ねえ、それ、すっごくおいしそう。リヴァさんにもちょうだい?」

 「はい、もちろんです。どうぞ、こちらへ」

 『チーズを食べたい』と言われれば、なにがあろうと断ったりはしないカティである。満面の笑顔で、人間の美女の姿に変異したリヴァイアサンを輪のなかに招き入れた。

 リヴァイアサンはチーズを一口、食べると頬に手を当て、幸せに震える表情となった。

 「ああ、おいしい~。これ、リヴァさんのおっぱいから作ったのよねえ? 知らなかったわあ、リヴァさんのおっぱいからこんなにおいしい食べ物が作れるなんてぇ」

 「もちろんです! おっぱいは母の愛。その母の愛から作られるチーズがまずいなんて、そんなことはあり得ません」

 「そうねぇ。こんなおいしい食べ物を毎日、食べられたら、リヴァさんも陸を襲う必要なくなるんだけど……」

 「陸を襲う必要がなくなる? どういう意味です?」

 「リヴァさんねえ、体おっきいでしょお? だから、食べても食べてもお腹、空くのよねえ。でも、リヴァさん、一応、海の王だから、海の仲間は食べられないの。だから、陸地目がけて高波を起こして、陸の幸を引っ張り込んで食べているの」

 「リヴァイアサンさんが陸を襲うのは、そう言う理由だったんですか」

 「そうなのぉ。一応、遠慮はしているのよ? 普段は眠っていて、お腹が空いてどうしようもなくなったときだけ起きて、食べることにしているんだから」

 「おお、なるほど。おぬしが一〇〇年に一度しか活動しないのはそう言う理由だったのじゃじゃ」

 「かわいそう! お腹いっぱい食べることも出来ないなんて……。でも、もうだいじょうぶです。リヴァさん、あたしたちと一緒に旅をしましょう!」

 「あなたたちとぉ?」

 「そうです! あたしたちは世界中の魔獣神獣のおっぱいからチーズを作って世界を幸せにするために旅をしています。あたしたちと一緒にいれば、おいしいチーズをいつでも食べられます。それに……」

 「それにぃ?」

 「リヴァさんのチーズならいくらでも売れます。ご自分のチーズを売って、そのお金で食べ物を買えばいいんです。そうすればいくらでも食べられますよ」

 「わあっ、素敵! それじゃもう、空きっ腹を我慢しながら眠らなくてもいいのねぇ?」

 「もちろんです! お腹いっぱい食べてください!」

 「わあっ、素敵だわあ! これからよろしくね。カティ……で、いいのよね?」

 「はい! カティと呼んでください」

 「では、リヴァイアサンよ。そなたも我々と共に旅に加わるのだな?」

 フェンリルが尋ねた。

 「ええ。そうさせていただくわ」

 「では、もう陸を襲うことはしないと、そう誓うのだな?」

 フェンリルが、陸の王として海の王に尋ねた。

 海の王は答えた。

 「ええ、もちろんよ。こんなおいしいものを食べられるなら、わざわざ陸を襲う必要なんてないし。それに……」

 チラリ、と、人間の美女の姿をとった海王はカティを見た。

 「カティには寝ている間におっぱいもまれちゃったし……責任、とってくれるんでしょぉ?」

 「もちろんです! 一生かけて責任、とります」

 「ふふ、嬉しいわあ。と言うわけよ、陸王さん。カティが責任とってくれる以上、カティのお仲間を苦しめるわけにはいかないもの。もう二度と陸を襲ったりしない。そう誓うわ」

 「ふむ。それは良いが……」

 「じゃじゃ。この両者、絶対に『責任』という言葉の意味がちがうのじゃ」

 「考えたら負けだな」

 フェンリルがそう答えた、そのときだ。

 「ちょっとまてーいっ!」

 怒りに満ちた叫びが響いた。

 「黙って聞いておれば、勝手にいい話風に締めおって! そんなことは、おれが許さん!」

 ドスドスと足音を立ててやってくるのは海水と胃液にまみれ、全身がグシャグシャになった老人。エイハブ船長だった。

 「あら、エイハブ船長。まだ生きてたんですか」

 と、カティ。目を丸くして驚いている。

 「だから、おれはエイハブなんたらではない! と言うか、それが人間の言う台詞か!」

 「でも、リヴァさんに飲まれたんじゃないんですか?」

 「飲まれたわい! だが、そやつが人の姿になったときに外にはじき出されたのだ。だが、そんなことはどうでもいい。問題なのは……」

 カティを一喝しておいてリヴァイアサンに向き直る。

 「こやつはわしの故郷を滅ぼした! わしの仲間を、家族を、友人を、はじめてできた恋人までも殺したのだ! わしはこやつを許すことは出来ん。この場でなんとしても殺して皆の仇を……」

 その弾劾だんがいに――。

 リヴァイアサンは身をちぢ込ませて謝った……かと言うとそんなことはまったくなかった。逆に『ムッ』とした怒りの表情を浮かべた。両手を腰に当て、エイハブ船長を睨み付ける。逆に弾劾だんがいした。

 「なに言ってるの⁉ あなたたち人間こそ海をさんざんあさって、リヴァさんの仲間たちをたくさん食べてるくせに」

 「そ、それは……おれたちとて食わねば生きていけんのだから」

 「嘘ばっかり! あなたたち人間って大きな網で海のなかをあさりまくるから、食べない魚まで一緒に網に絡め取っちゃうじゃない。巻き込まれただけのかわいそうなお魚たちを平気で海に捨てていく。それに……」

 ビシッ、と、リヴァイアサンは港の一画を指差した。そこには、古くなり、傷んだ大量の魚が樽に積まれ、廃棄されるときをまっていた。

 「あれはなに⁉ 食べもしない分までとって腐らせてるくせに! リヴァさん、知ってるのょ、あなたたち人間は獲った魚の半分ぐらいは食べもしないで捨てているじゃない。それのどこが『食べるための殺害』なの⁉ 海の仲間たちの怒りが爆発したら陸地なんて一瞬で壊滅よ。それを抑えるためにリヴァさんがどれだけ苦労していることか。あなたたちこそ反省して、謝罪しなさい!」

 「し、しかし、おれたちは人間であって、海の魚とは……」

 「ひどいです、エイハブ船長!」

 エイハブ船長の言葉に過敏に反応したのは、意外なことに同じ人間である――と思われる――カティだった。

 「エイハブ船長! あなたは人間だけで生きていけるとでも思っているんですか⁉ 果樹が実をつけるのは昆虫たちが花粉を運んでくれるからです。昆虫たちがいなくなったら果樹は実をつけなくなります。食べ物がなくなっちゃいます。それとも、エイハブ船長、そのときはあなたが、世界中をまわって果樹を一本いっぽん受粉していくんですか」

 「い、いや、さすがに、そんなことはできんが……」

 「でしょう。それになにより、あたしたちの毎日まいにち出すウンチ! そのウンチを分解し、大地に戻してくれているのは大地に住む目にも見えない小さな生き物たちです。人間だけの世界になって、微生物たちがいなくなったらウンチを分解してくれる存在がいなくなります。世界中がウンチに覆われて滅びてしまうんですよ! それでもいいんですか⁉」

 「い、いや、それは良くないが……」

 「だったら! 『人間は偉い! 人間は特別!』なんて思わないことです。人間以外の生き物は人間抜きでも生きていけますが、人間は人間以外の生き物抜きでは生きていけない。そのことをわきまえなさい!」

 エイハブ船長はリヴァイアサンの反撃とカティの援護射撃にタジタジだった。そんなエイハブ船長にフェンリルが声をかける。

 「あきらめろ、人間。実力においても、倫理においても、おぬしに勝ち目はない」

 「その通りなのじゃ。こやつが本気になったら沿岸地域一帯、一夜のうちに全滅じゃぞ。そんな事態を招きたいわけではないじゃろう? それに……」

 と、フェニックスはいったん、言葉を切ってからつづけた。

 「このカティを敵にまわして、ただですむと思うか?」

 そう言われて――。

 エイハブ船長はカティたちを見回した。他の三者よりもカティひとりを一〇倍も長く見つめたあと――。

 ガックリと肩を落としながら言った。

 「……わかった。もう陸を襲わんと言うのなら、おれも昔のことは水に流そう」

 「わかればいいのです! さあ、これからも世界一のチーズを求め、世界の果てまで行進です!」


 このとき――。

 カティはまったく気がついていなかった。

 フェンリル。

 フェニックス。

 リヴァイアサン。

 三界の覇者を従える自分はすでに史上最強の『王』なのだと言うことに。

              第三話完

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