美しい後妻と義姉

「あらあら、まだ床を磨き終わっていないの? なんてのろまなのかしら?」


「まぁ、お母様ったら、のろまなんてひどいわ。この薄気味悪いギャラリーは古くて広いのですもの、この子の能力なら、この程度ではなくって?」





 静寂を引き裂いた甲高い母娘の声に、床に這い蹲って布巾を握っていたクリスティアナの背中がピクンと震えた。

 微かな息を吐いて手を止め、諦めたように項垂れて、おずおずと立ち上がっる。


 「・・・お、奥様、お嬢様、ご機嫌麗しゅうございます」


顔を伏せたまま、両の手をエプロンの前でぎゅっと組み、弱く掠れ気味の声音とともに草臥れ感を醸した斜め45度のおじきを繰り出した。




 お義母かあ様、お義姉ねえ様と、家族呼びすることは禁じられていた。もちろん、父ジョエルを父扱いすることも許されてはいない。


それはクリスティアナの望むところだったから、問題ないのだけれど。





 「残念ね。床磨きが終わっていたら、観劇のお供の小間いに連れ出してあげようかと思っていたのよ?」


亜麻色の髪に鮮やかなサファイアの瞳を持つ、お色気ダダ漏れの熟女美女は、4年前、前侯爵が他界してすぐにドローネ男爵家から後妻に迎えられたリリアだった。


 普段から気合いを入れて着飾っているが、今日は輪をかけて煌びやかに装っている。きっと今王都で評判になっている新作オペラでも観に行くのだろう。



 クリスティアナが背中で儚げで悲しげな空気を醸し出すと、リリアは口角を上げて満足げに目を細めた。





 「お母様、私、絶対にイヤ。こんな貧相で見窄らしい小間使い公衆の面前で侍らせたくないわ。これが半分でも血のつながっている妹だなんて。みんなに知られたら、私、恥ずかしくて生きていけない」


はらりと淡いピンクの羽扇を開いて、ローズピンクの口紅を刷いた愛らしい口元を隠し、灰色のお仕着せ姿で項垂れるクリスティアナをチラリと一瞥したのは、アリスだ。


 4年前の冬、オーウェンを失った侯爵家にリリアの連れ子として意気揚々と乗り込んできた時は14歳だった。


 15歳になる年に、クリスティアナが行くはずだった3年制の貴族学園に入学し昨年卒業した。クリスティアナよりも少し早い冬生まれで、すでに18歳を迎えて成人している。


 母譲りの亜麻色の髪、瞳の色は父親ジョエルと同じ明るい空色だ。公爵家出身の母を持つ美貌の父ジョエルによく似た顔立ちの、嫋やかで可憐な美少女だった。



 正妻クロエの娘クリスティアナよりも、後妻の連れ子のはずのアリスの方が明らかにジョエルに似ていた。


 ジョエルも自分の美貌を受け継いだアリスが血を分けた実の子であることを隠そうともせず、社交界に繰り出しては正々堂々と溺愛ぶりを披露している。





 実のところ、ジョエルとリリアの関係は長い。


 2人は王立貴族学園のクラスメイトで、在学中から周囲を憚らない色気ダダ漏れの恋人同士だった。が、前侯爵オーウェンが侯爵家を継ぎたいなら優秀な伯爵令嬢のクロエを政略で娶れと迫り、それをジョエルが承諾したという経緯があった。


 ドローネ男爵家には少なくはない手切れ金が支払われたはずだし、『クロエを唯一の妻のとして侯爵家に迎えたのちは、一切の関係を断つ』という、ジョエルとリリア、それにドローネ男爵家の名前のある誓書もグリンガルドには残されているはずなのだけど・・・



 リリアとアリス、さらに一番の当事者であるジョエルまでもが、その点を全く考慮していないように見えるのだから、何か秘策があるのかもしれない、と勘繰ってしまうのは仕方のないことだったろう。





 ジョエル一家の侯爵家における暮らしについて、いくつか指摘されてもおかしくない点はあるのだが。クリスティアナが今それを指摘することはない。



沈黙は金である。


伏せた顔、震える手や背中を見て、怯えて話すこともできない情けない弱虫めと、思う存分に侮り蔑んでくれて構わない。どうせ現状では、クリスティアナの身体に傷を負わせて詰むのは、彼らの人生の方なのだ。


 成人するまでの間に、次期侯爵クリスティアナの身体が傷つけられるようなことがあれば、それは保護者たる侯爵代理ジョエルの責任である。祖父がそう、誓約書で明示してくれていたから。



裏を返せば、18歳になって成人してしまえば、祖父の残した保護は効力を失う。

そして、次期侯爵指名の誓約の失効までの期間は、あと30日しか残されていなかった。





 「まぁ、アリス、こんな子、連れ出したって誰も侯爵家の娘だなんて思わないわ。美しいジョエルにだってちっとも似ていなのですもの。アリスはお父様に似て、こんなに美しくて愛らしいのよ? これが妹だなんて、気付く人は絶対にいないわよ。洗濯メイドだってもう少しマシな姿をしているのではないかしら?」


 使用人エリアにあるランドリーで働く洗濯メイドの姿など、リリアは目の端にも入れたことはなかろうに。




 「ほんと、お父様の血を分けた娘なら、私ほどではなくても、ほんの少しぐらい美しいところはあってもいいはずなのに。薄ぼんやりと黄ばんだ髪に、薄気味悪い夜の色の瞳なんて。おかしいわよ。お父様の実の子なんて信じられないわ」

アリスがニンマリと口角を上げて、震えて項垂れている義妹に悪意を突き刺せば、


「そうね。前侯爵とクロエの子と言われた方が納得がいくわね。本来侯爵位を継ぐはずのジョエルを差し置いて、こんな薄汚い小娘を後継者に指名するなんておかしいもの」

と、応じたリリアが、憎々しげにクリスティアなと肖像画のオーウェンを見比べ、吐き捨てる。


「舅と嫁の不義ですって? 嫌だ、なんてゲガらわしいっ」

アリスは、美しい眉間を寄せて嫌悪感を露わにし、ありったけの侮蔑を込めてクリスティアナを睨みつけた。





 クリスティアナの瞳の色は母クロエ譲りだ。すっきり整った淡麗怜悧な顔立ちは、華やかで甘い美貌のジョエルよりも肖像画の祖父のオーウェンに似ている。



 それが、リリアの憎悪を煽る。


 先代侯爵に選ばれジョエルと結婚した地味な群青色の髪と瞳のクロエは、貴族学園の1学年下で学年代表にも選ばれた万年首席のガリ勉令嬢だった。


 特待生資格を失えば授業料も払えないような貧乏伯爵家の貧相な娘が学園の成績だけで金で買われ、嫡子ジョエルをその魅力で虜にしている裕福な男爵家の娘である自分が金で追い払われたのだ。



 ジョエルは、嫌々迎えた初夜以外でクロエに手を触れたことは一度もない、美しいリリアにこそ己の真実の愛はあるのだと言った。


「初夜の、たった一度だけの交わりで私の子を孕むとはな。本当に意地汚い女だ」と忌々しげに眉間を寄せていた夫を、リリアは信じている。



 父侯爵に気に入られ重用される妻クロエの存在は相当に疎ましかったようで、ジョエルはさまざまな口実を設けては外出し、そのたびにドローネ男爵家に忍んできたものだ。


もちろん、ジョエルの苛立ちと鬱憤をリリアは優しく受け止め、甘やかし優しく慰め続けた。


 手切れ金をもらい誓書も書かされてはいたが、少し工作をして家ぐるみで隠せばバレることはなかった。ジョエルに似た美しい娘のアリスも授かった。


愛されない正妻を、愛される愛人が蹴落とすことは、そんなに難しくないはずだったのだが。




 クロエが、10歳の娘を残してあっけなく世を去たとき。ジョエルは元恋人リリアとの再婚を熱心に希望した。しかし、前侯爵は、誓書を反故にしてリリアを後妻として侯爵家に迎えることを許さなかった。


 オーウェンがクリスティアナを次期侯爵に指名すると公表したのは発病後だったが、懐刀であるモーリスを10歳のクリスティアナに付けた時点で、前侯爵の腹は決まっていたのだろう。



 実に、実に忌々しい。


クロエと前侯爵。憎い二人を彷彿とさせるクリスティアナが、夫のジョエルを差し置いて次期侯爵に指名されているなんて。


婚姻を否定され続けたリリアに、許せようはずはない。






 後妻と連れ子の、侯爵家醜聞推理を聞かされていたクリスティアナは、頭を下げたままグッと息を呑み込んだ。思わず拳を握り込み、体を震わせてしまう。


母と祖父の不義などと、さすがに聞くに耐えない。



怒りを鎮めようと軽く頭を振ったら、ぽたりと一滴、額の汗が床に落ちた。


 思わず「あっ」と小さな声をあげて我に返ると、すぐに跪いて両手を床につき、汗の落下地点の状態を確認した。

幸い、コート剤の定着作業は終わっていた。汗は見事に弾かれて玉粒のように浮かんでいる。


・・・よかった。




 この一連のクリスティアナの仕草を、リリアとアリスは、心の痛みに落涙し床に崩れ落ちたと捉えた。

それで「よいきみだわ」と満足げに目を細めて、ふふんと二人仲良く鼻を鳴らして笑ったのだった。


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