猫被り姫

野原 冬子

1、ロングギャラリー

次期侯爵


 グリンガルド侯爵家は、戦乱の時代に”王家の盾”と讃えられた忠臣グリンガルドを始祖に持ち、その名を家名としているアルタイル王国屈指の名家である。


 その邸宅は、王都ロンドアルを東西に分断しながら縦走しおおらかに右曲して東の海に流れ込むアルライン川の、東岸地域の川沿いにあった。


 対岸上流の段丘上に白亜の王宮を望む高台を占める敷地は、古い時代には海から上陸し王宮へ至ろうとする敵の渡河を阻むための防衛の要所でもあった。




 川縁には敷地に沿って走る乱世名残の石垣があって、その北端には、生い茂る樹木に埋もれるようにして円形の石塔がひっそりと立っている。


 石塔から東に向かい、キッチンガーデン、使用人専用の別棟、裏庭を含む主棟北面部に至るまでが初代からの敷地で、南側の主棟新館と前庭はのちに増設された。


 川を挟んだ向こう、王宮の更に西側に広がる貴族の邸宅地域からは外れてはいるものの、新旧を合わせた広大な敷地は、格上の公爵家に勝るとも劣らない。






 この物語の最初の舞台となるのは主棟北面の旧館部分、吹き抜けの大広間を改装して作られたロングギャラリーである。


 暗色の壁には、歴代当主の肖像画がずらりと並べられており、北面には明かり取りの大窓が等間隔に並ぶ。



 窓を背に眺める壁の右の端、4年前に掛けられた最も新しい肖像画の人物は、オーウェン・グリンガルド。宰相として王を支え老朽化著しかった国政を改め、侯爵としては領地領民の安寧を堅守した傑物と名高い。


 永久凍土、凍てつく銀の侯爵、氷の宰相と、冷酷冷徹鉄面皮を表現する異名に事欠かなかったオーウェンは、緩やかにうねる渋い銀色の髪と、冷ややかで硬質な翡翠色の瞳を持つ美丈夫だ。


 姿絵になっても射竦めるような冷たい威圧を感じさせるのは、絵の前に立つ者の、彼に対する生前の記憶の残滓の影響だったろうか。





 ギャラリーの床には、色合いの違う木材を組み合わせて模様を描き出す、寄木張りという技法が用いられていた。


 クリーム色の地に焦茶色の縁取りのある正方形の枡の中に、少し赤味の強い茶色の菱形というパターンを繰り返し敷き詰めたシンプルでメリハリの効いた意匠は、吹き抜けのだだっ広い空間に適度な緊張感を加え、見るものを飽きさせない。


 百年以上も前に名を馳せた城造りの名工が導入した床の装飾技術だが、特に、グリンガルド侯爵家のロングギャラリーに保全されている寄木張りは、王都でも最古の部類に入る。歴史資料としても貴重なものだった。






 そんな、侯爵家の長い歴史を反映する、とっても大切な木の床の、窓に向かって睨みを利かせるオーウェンの肖像のちょうど下の辺りを、せっせと磨く人影があった。


 その形の良い額には玉の汗が浮かんでいる。


 4年前、死期を悟ったオーウェンに次期当主として指名された、クリスティアナ・グリンガルドだ。


 裾の擦り切れた灰色のお仕着せに、洗いすぎて生地が薄くなった白いエプロン、背の半ばほどの長さの乾燥気味なクリーム色の髪を一本の三つ編みにして、頭には三角巾を被っている。


 とてもではないが、由緒正しい歴史を持つ侯爵家の跡取り令嬢の姿ではなかったが・・・


 次期侯爵の様子から推して知るべし。目下のグリンガルド侯爵家には、秘めやかに、後継者をめぐるお家騒動が発生している。





 端緒は、オーウェンが嫡子ジョエルではなく、孫のクリスティアナを次期侯爵に指名したことにあった。



 永久凍土に例えられていたはずの侯爵閣下だったが、夜空の群青を写したような瞳に月色の髪の、神々しいほど美しい幼児を溺愛した。


 それはもう、全身全霊でもって溺愛した。


 えっ!? そんな小さな女の子にそこまでするの? と周囲がドン引きするほどの情熱と苛烈さ。逆に振り切れた、穏やかで深く揺るぎない慈しみ。


 敏腕剛腕辣腕と畏れられたオーウェンが、クリスティアナを掌中の珠とし、己の持てる全てを持って、丹念に入念に孫を磨き鍛え上げた。


 


 またまた、そんなふうに燦々と注がれる、やもすると重荷でしかない祖父の大きな愛情と期待を、クリスティアナもしれっと丸っと呑み込んでみせた。


 公爵家出身の母を持つ、美貌は最上級でも内情がアレレレレ?の嫡子ジョエルよりも、秀才を見込み政略で迎えた聡明で思慮深い嫁クロエの資質を受け継いだのだろう。



 クリスティアナは、すくすくと成長していく。





 オーウェンに重用されて侯爵家の大切な一柱を立派に担っていた母クロエが儚く世を去ったとき、クリスティアナは10歳だった。


 オーウェンは、孫娘の世話役兼指導係に己の右腕である侯爵家筆頭の敏腕執事モーリスを当てた。その期待の大きさに怯むことなく、クリスティアナは母の抜けた穴を埋めようとする気概と奮闘をみせた。


 孫の活躍を報告するモーリスの前で、オーウェンがだらしなく目尻下げて感涙したとかしないとか、、、


 後々に、侯爵家に忠義を誓い身も心も捧げる腕っこきの家臣の口から、明かされることもあるかも知れない。



 とにかく、順調だった。オーウェンは、クリスティアナが18歳で成人を迎えた暁には早々に爵位を継がせ、自身は本領から睨みを利かせつつ、茨の道に踏み込む次代の若き女侯爵の手腕を、己の擦り切れくたびれた命をできる限り長く保って見守るつもりでいた。




 ・・・しかし、孫の成人まであと4年という冬の終わりに、侯爵当主としての激務と気苦労に耐えてきた身体が悲鳴をあげた。


 無念だった。


 美しく逞しく強かに育った自慢の孫を最高のドレスで飾りたて、自らエスコートで王宮に連れ立ち、離宮に引きこもっている腐れ縁の元国王とひよっこ国王に「どうだ」と自慢する。そして、孫の侯爵位継承の義を立会人として見届けるのがオーウェンのささやかな楽しみだった。


 他者の望みは叶えても、自分自身の望みについてはついぞ口にすることのなかった永久凍土な男の、たった一つの、己のための望みだったのだけれど・・・





 宰相とし侯爵として、その辣腕を存分に振るってきたオーウェンだ。死の床にあっても最後の力を振り絞り、目に入れても痛くない孫のため最後の策略を張り巡らせた。


 クリスティアナを王家認証付きの誓約をつけて次期当主に指名し、王立学府の卒業資格を得て18歳で成人を迎えたと同時に、正式に侯爵位を継承する道筋を引いた。


 「あとはお任せください」ときっぱり宣言し、首っ玉に齧り付いて嗚咽を堪えるクリスティアナの細い背中を抱きしめながら、オーウェンは静かに息を引き取った。


享年71歳だった。







 

 王家認可付きの誓約で次期侯爵の指名を受けているクリスティアナは、あとひと月で18歳の誕生日を迎える。


 オーウェンが最後の辣腕を奮って敷いた道筋に従えば、正式に侯爵位を継ぐための準備を進めていなければならない頃合いだった。


 しかし、クリスティアナは、父であり王都侯爵代理でもあるジョエルの妨害にあい、祖父の用意した道筋を違えざるをえなかった。






 それで、今はただ、ただただ無心に真摯に真剣に床に臨み、手を動かしている。


 手抜きの”テ”の字もない。本気の床磨きに、身も心も没頭していた。





 ロングギャラリーに、クリスティアナ以外の人影はない。


 時節は冬の終わり頃。太陽が間もなく空の一番高いところに差し掛かろうかという時刻で、北面にズラリと並ぶ窓から冷たい外気が染み込んでくる。


 体を動かしていなければ身震いがくるほど、だだっ広い空間は冷え切っていた。




 んが、余計な熱が外から入り込まない冬の終わりの晴れた日は、クリスティアナ的には、寄木張りのお手入れ日和である。


 蜜蝋のワックスを布にとって、升目と菱形のパターンの一つにムラなく伸ばし、もう一方の手にした乾いた雑巾でワックスを刷り込むようにして磨き上げる。


 仕上げに青いバケツに入った透明なコート剤をを刷毛で慎重に塗りつけて、刷毛を持たない方の手のひらをかざし、魔術で軽く温風を送って乾かしてゆく。


 この作業を寄木張りのひとマスずつ、弛まずに繰り返しているのだから、寒さなんて感じない。額に玉の汗も浮かぼうものだった。



 程よく冷たい周囲の空気は、温風の魔力操作を容易にしてくれる。体を動かしているから、寒くもないし、作業が捗る。


 放射冷却が起こった今朝方の冷え込みには、さすがに手が悴んで手間取ったから、今の作業条件には、正直、喜びしかない。


 壁に向かって左手、古い時代の当主の肖像方面から作業を開始したのが昨日の朝。最新最愛の祖父の肖像の前にたどり着いたのが翌日の昼前である今だった。 




必ずや、なんとしてでも今日中に、この作業を終えねばならない、絶対に。


クリスティアナの決心はダイヤモンドよりも固いのだ。




 時折、汗を床に落とさないようにお仕着せの上腕部に額を擦り付け汗を拭った。


 スライムを素材としたコート剤はクリスティアナ渾身のお手製だ。まだ量産は出来ないから、汗を落とすようなヘマはできない。

 塩分を落とせば、濁りが出て、仕上がりに影響してしまうから。


 汗を拭うため雑巾を床から離しても目線は固定したまま、集中を保って再び床に雑巾を落とし、ひとマスひとマス着実に確実に仕上げてゆく。



これは試練であり鍛錬だ。

クリスティアナはそう思い極める。



 歴代当主の肖像の目を楽しませて来たであろう年代物の寄木張りの床と、愛すべきグリンガルドの歴史を語り合う心意気を持って、ただひたすらに丁寧に、丹念に仕上げてゆく。



 コート剤での仕上げに息を詰め、音も立てずに床にのめり込むようにして作業にのめり込んでいる。ロングギャラリーの空気はしんと静まり返っていて清廉で神聖なほどだった。





 祖父の肖像の前、横一列をすぎて残すところ10列で作業が終わろうかという地点に達し、「いざラストスパートっ」と、無心に作業に打ち込んでいたクリスティアナの形の良い眉間に、薄く嫌の色が浮かんだ。


 古い年代の姿絵がかかった左手奥の出入り口の扉の外に、騒々しい気配が現れ濃度を増してゆくのに気づいたためだ。





 やがて、扉が開いて、程よい緊張感を孕んだ静寂は木っ端微塵に破壊されてしまった。




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