第1幕 解散
(1)① ホラ吹き大根――赤城七菜
【こんな家――】
今夜こそは建設的な話し合いになるはずだった。
【誰のおかげで、誰のお金で……もういいよ、それ。だったら大学も辞めるよ】
【おい、座れ!】
声を荒げることなく、発言はまずは相手の言葉に耳を傾けてから、
【分からず屋!】
【親の言うことを少しは聞け!】
根気強く話し合えば、100パーセント解決とまではいかないにしても、これまでよりかはお互い歩み寄れると、食事どき以外で久しぶりに同じ席についた二人だったが――やはり頑固親父と跳ね返り娘だった。
母親のスズは(この問題もやっと解決するかしら)と、彼らの話し合いを淡い期待を胸に見守っていたが、期待は5分と経たないうちに萎れていった。
【だっておかしいじゃん!】
せっかく設けた話し合いの場も結局はいつもと変わらず、平行線のまま。……いや、平行のままならまだよかった。少なくとも衝突だけはないから。
その正面衝突は、アカネが両親の話を持ち出したことがきっかけで起こった。
【お父さんはお母さんのことが好きで結婚したんでしょ? お母さんだってお父さんのことが好きだったからプロポーズに応えた。
なのに、なんで私とケンタさんの交際には反対するの?】
【ケンタは、魚屋のせがれだ】
【知らないよ、肉屋と魚屋のいがみ合いなんて。親同士の仲が悪いからって、子どもにまで押しつけないでよ】
【ア、アカネちゃん。それは違う。お父さんが反対するのは――】
【お前は黙ってろ!】
コウジの一喝で、リビングが、しん、と静まり返る。
激しく燃え続けていた炎が、ふっと消えると、あとは無言の冷たい対立しか残らなかった。
【……もういい】
やがてアカネが口を開いた。
そして、コウジに向かって【こんな家――】と言い放った。
【こんな家、絶対出ていってやる!】
【この!】
父親は手を振り上げ、アカネの頬を――
「そこまで!」
彼女は、アカネがリビングを飛び出していったところで手を打ち鳴らした。
その瞬間、夜のリビングは、劇団の稽古場【創作活動室②レッスンスタジオ】に戻り、娘も、父親も、母親もいなくなった。
(……暑い。ウィッグ取りたい)
演出家の合図は、共同幻想の始まりと終わりを告げる魔法である。
「15分休憩。稽古の再開には遅れないように」
【
「1秒でも遅れたら、稽古場から閉め出します」
いや、魔女か。この人に睨まれたら、泣く子がさらに尻餅つくわ。
「カンさん。この前みたいに遅れたら、今度はバケツも持たせますからそのつもりで」
――そりゃ勘弁。俺、今年46よ? 小学生じゃないんだから。
――ははは。
「……まったく。おじさん達の子守も疲れるわ」
困ったものねと溜め息をつく教子さんは、今日も無地の黒シャツに、黒のチノパンと、機能性重視の服装だ。
髪もヘアゴムで束ねているだけで、まさに「現場にはお洒落も女もいらない」とばかり。
42歳のいまでもスラッとしたスタイルを保ち続けているから、こういうシンプルな格好がまたよく合うのだ。
「――窓竹さん、休憩後の稽古は任せてもいいかしら」
もっとも、影山教子の黒尽くめスタイルは、動きやすさの他にも、汗でシャツの下が透けないよう、舞台人としての配慮もある。
汗を掻いてシャツの下が透けるとみっともないし、周りも目のやり場に困る。
若い女の子だろうと、おばさんだろうと、おじさんだろうと、そういうことに気が回らない人間は、舞台人失格。どんなに優れた才能の持ち主でもアウト!
かくいうあたしも、以前、服装のことでこっぴどく怒られたことがある。
あれは夏場の稽古だった。
(今日はクッソ暑いし、明るいシャツ着て、気分上げていきますか)
と、なにも考えることなく、買ったばかりの薄手の明るい色のシャツで、稽古場に来たことがあった。
ウォーミングアップが終わったあと、稽古場の外に呼ばれたあたしは、
「今日はこれを着なさい」と、替えの黒シャツを渡されたとき、このシャツがなんなのか、はじめ分からなかった。
「……水色」と言われても、まだちんぷんかんぷん。
教子さんの視線をゆっくり辿ってみて、ようやくなにを言われているのか分かった。わざわざ稽古場の外で渡してきたわけも。
――あなたは観客に、その子どもっぽい下着を見せたいの? それとも演技を見せたいの?
――す、すみません! シャツお借りします!
ただ、借りたはいいものの、身長150ジャストのちんちくりんに、170近くある彼女のシャツが合うはずもなく、その日の稽古は、まともに動けなかった。
(お泊りデートで彼氏のシャツを借りた女の子かっつうの!)
そんな迂闊なところも含めて、あたし――赤城七菜は【南国演人】に入ってから1年半近く経ったいまでも、教子さんにしょっちゅう怒られている。
劇団員の平均年齢が40代半ばの中、あたしだけ20歳だからとか関係なく、未熟者は未熟者なのだ。
……とはいえ、あたしだって好きでボロカス言われているわけではない。
だから、いまもしれっとした顔で稽古場を出ようとしていたところだった。
「そこのちびっ子」
しかし、あと一歩のところで呼び止められた。
座長の窓竹さんに稽古の続きを任せると聞こえた時点で、嫌な予感はしていたけど、
(やっぱし、見つかったか)
いまさら聞こえなかったふりはできそうにない。なんせ、呼ばれた瞬間にぎくっとなって、足も止まってしまったのだから。
「七菜、あなたは休憩が終わったらホワイトボードの前。分かった?」
振り返ると、案の定、教子さんは険しい表情で腕組みをしていた。
「……あの、メモ帳は必要ですか?」
赤点の心当たりはいくつもあった。
「いらない。取っている暇もないぐらい言うことがあるから。――それと、ウィッグも取っていいわ」
「ウィッグも取っていい」と言われ、あたしはますます気が滅入った。
ウィッグを取っていい=演技の稽古は終了。
つまり、残りの時間はずっとマンツーマンでとことん詰められるということだ。
――なぜ、そんなミスを?
――なぜ、集中力が途切れたの?
――あなたにとって下手な演技とはどういう演技? 上手い役者との違いは? 違いが分かっていながら、なぜ、あなたの演技には挑戦や変化が見られないの?
こんな具合にミスの原因をとことん掘り下げていく。役者が自分の頭で考えに考え抜いたものでないと、冷たい叱責はいつまでも終わらない。
ミスした瞬間、台本が飛んでくるとか、人格否定すれすれのパワハラ発言とか、教子さんがその手の指導者なら、こっちもスポ根モードで食らいつけるほど、
――……すみません……今後は気をつけます。
――今後は気をつけます。なにを?
こうくるとお手上げだ。
「えっと」と詰まった瞬間、またはじめから「なぜ?」が始まる。
影山教子は、曖昧な受け答え、口先だけの反省を許さない。――東京で活動していた20代の頃は、「なぜ?」より先に手が出ていたそうだけど。
「さぁ休憩に行きなさい。――頭のネジをしっかり締めて戻ってくるのよ」
好きでやっていることだけど、役者は大変だよ。ホント。
さっそく胃が痛くなってきた。
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