僕らのLOVEは恋より難し

九重いまわ

第一部

第1話 出会いはどこで?

「ドS会社員さんですか?」

「……は、はい?」


落ち着いた髪色。左耳には緑に淡く揺れるピアス。僕を捉えた瞳は優しい眼差しをしていて、初対面なのにドキッとしてしまう。


「ベージュのパーカーに青いスニーカー。うん、昨日メールで送ってくれたどおりの服装ですね。ドS会社員さんで合っていますか?」

「……あなたは」


ゆったりとした口調が耳に流れる。どうやら僕のことがわからないみたいだ。僕も今日の服装とか特徴をあらかじめメールで送っておけばよかったな。今更ながら後悔……


「あ、先に僕の名前ですよね!すみません、そういうの至らなくて。やっぱりマッチングで会うってなると先に名乗らないとわかんないですよね。僕の名前はつむつむですっ」


僕自身はマッチングで知り合った人と会うのは、今回が初めてだった。

いきなり本番があるのは怖かったので『数時間だけのデートにしよう』と相手であるドS会社員さんと事前にメールで決めた。

変な人たちに囲まれたり、誘拐されたり、お金を巻き上げられたり……いろんな想像を巡らせて家から歩いてきたけど、実際に彼と会って予想以上の安心感が僕を包んだ。

まだ会って数秒だが、全然そういうことをしそうな人には見えない。やっぱり見た目って大事な第一印象なんだな。


「……つむつむ」

「ひゃい!」


うおおおおお、びっくりした。

つぶやくように僕の名前を呼んだ。それだけでなんだかドキっとしてしまうのは僕が意識しすぎているからだろうか。子供か、僕は。

(あ、ちなみに”つむつむ”っていうのは僕のハンドルネームです。本名がつむぎだから、もじって可愛い感じにしたんだ。名前が可愛いとかっこいい攻めさんに見つけてもらえる気がして……)


「えっと、今日はどうします?……あ、この前気になってるって言ってた本屋さんとか行ってみますか?」


おもむろに言ってみた。ちょっとした沈黙が余計に僕の口を早める。見た感じじゃ本とか読まなそうだけど、何度かメッセージをやり取りしている中で彼が本好きなのは承知済みだ。これから行くところも決めていなかったので、咄嗟の思考で伝えてみたのだった。


「……本」


なにか考え込むように彼はつぶやく。彼が予想していた僕はどう見えているのだろうか。

彼の返事は帰ってこないまま時間だけが過ぎていく。それはきっと数秒の間なんだろうけど、非日常にいる今では永遠のように感じてたまらない。

風が吹く。街路樹を彩るイチョウの黄色が視界に舞って落ちる。

やっぱり秋が一番好きな季節だ。彩られた町並みも頬を抜ける寒風も、背筋を伸ばせば澄み切った青のような気持ちになれる。

彼の髪色とイチョウの葉が揺れる。まるで映画のワンシーンみたいだなと呑気なことを考えてみる。

……本屋という気分ではなかったのだろうか。そんな気がして僕は口を開いた。


「……あ、あの、やっぱり今日はお開きにしますか?」

「行く。行こう、つむつむさん」


ちょっとだけ僕の言葉を遮ってそう告げた彼の顔は、少しだけ火照っている気がした。

怒ってる…のか?なにか気に触るようなことを言ってしまっただろうか。それくらい勢いよく、でも焦ったときに出たような大きな声を出して彼は

ん?彼は僕の手を取る?


「えっ」

「本屋ってあっちなの?早く行こうよ、つむつむさん」


おぉ、まるで早く散歩に連れて行けとリードを引っ張る大型犬のようだ。さっきの冷静さはいったいどこに行ったんだ。

というか、手!!!!

手汗出てきたかも、どうしよう。案外彼の手は冷たいんだな。僕がそんなことを考えているとも知らずに、大股でずんずんと前を進んでいく。

……って自分が気になってる本屋の場所も知らないのか。”ゆるゆるドS会社員”っていうハンドルネームなんだから会社員なんだろうけど、こんなポンコツな感じで普段は仕事できているのか?まあ僕もその本屋の場所なんて知らないんですけどっ!?


「っちょっとまってください、今場所調べるからっ」


彼に握られた手をパッと無理やり剥がし、コサッシュからスマホを取り出して場所を調べようとしたとき手元が強く震えた。

メールだ。


(なんだろう『どこに居ますか?』って、これ誰からだろう。えっとマッチングアプリからの通知で宛名は……ゆるゆるドS会社員って……)


確かに僕の手の中には『ゆるゆるドS会社員』という宛名から『今、どちらにいらっしゃいますか』という内容のメールが届いている。これは数分前とかではなくて今、今この瞬間に僕のもとに届いたものだ。

ん?なんだ?まてまてまて……

では僕の目の前に居るのは一体誰なんだ。ドS会社員ではないのか?

そもそも考えてみれば、こんなに落ち着いてるこの人にドSの雰囲気なんて微塵も感じないじゃないか。

今になってよく見ればこの人、もしかしたら大学生なんじゃないか?

会社員ならもっとしっかりしてるだろうし……

うっっっわ。

やってしまった……ぞ。

なら話は変わってくる。ここで一言『人間違いでした』って謝れば終わることだ。さっさと伝えないと本物のドS会社員さんに怒られてしまう。まあ怒られるなら怒られるで僕的には嬉しいのだけど……っと、この話はあとでにしよう。


「あの、どうかしたの?」


小さくないけど耳に届くほどの、丁度いい音量で彼は問いかけた。

そうだ、冷静にならないと。


「……ごめんなさい。なんか人違いだったみたいなんデス」


額から首筋にかけて一筋、汗が垂れる。

ちゃんと事情を説明してさっさとこの場を離れないと。でないと僕の心が持たない。

心臓がバクバクして死にそうだ。

僕ってば急に知らない人にネットの名前で話しかけたりして本当に恥ずかしすぎる。これだから自分のことが嫌いなんだ。


「ほんとっ、すみません。変なことに巻き込んでしまって。お互い今のことは忘れましょう、じゃあ!」


吐き捨てるように言って僕はその場から逃げた。

もうこの際、冷たい木枯らしに乗せて忘れよう!!

早く本物のドS会社員さんのところに向かおう。人を待たせていると思う焦る気持ちから、不思議と歩幅も大股になる。スマホで地図を確認して、今度こそ正しい待ち合わせ場所に着いた。このあたりは大きな大通りがいくつも並んでいる。どうやら僕は道を一本勘違いしていたみたいだ。目的地には案外すぐに到着した。


「ベージュのパーカーに青いスニーカーの人……居なくないか?」


すると僕の肩を何かで二回叩かれた気がした。


「君、もしかしてつむつむくんかな?」

(誰だっ……!)


声色がほんの少しだけ温度がなくて一瞬、本当に一瞬だけ背筋が凍った。

けれど彼がニコッと笑いかけて、僕の見当違いだったと力が抜けた。

セットしてある黒髪。キリッとした目元。スラリと長い足に落ち着いたスーツの色。

左肘に上着がかかっていて、少しだけ息が乱れている気がする。

この人が”ゆるゆるドS会社員”さん!?

もしかして、もしかして僕のこと探してくれていたのかな。

すごい妄信な気もするけど、本当に申し訳ないぃ……


「ごめんね、メールにはパーカーとスニーカーですって書いてたんだけど、急遽会社に寄らなければいけない用事ができてしまって、ここに来る前に出社してきたんだ。だから予定と違ってスーツになってしまったんだけど、どうやら混乱させてしまったようだね」


この人は本当にゆるゆるドS会社員さんなんだろうな?

さっきのことがあるから疑心暗鬼になってしまうのは、仕方ない。うん、仕方ない。

まるでパソコンで打つかのように言葉を放つ人だと思った。

先程の彼と比べてしまうのは申し訳ないが、話し方や姿勢、ポケットからスマホを取り出す仕草でさえスマートで大人という感じがする。

きっと普段は仕事熱心でモテるんだろうな、知らない人に”つむつむです”って自己紹介してしまう僕とは違って……ハハ


「いえ、こちらこそ待たせてしまってごめんなさい」


本当なら土下座をしたい勢いだけど、流石に人の目が気になるのでやめておこう。


「今日は…どうする?どこか行きたいところがあるなら行ってもいいし、待ち合わせ時間を過ぎたにしても時間ならいくらでもあるからね」


どうやら選択権は僕にあるみたいだ。んーここは本屋とでも言いたいが、先程の失敗が僕の頭によぎって半分トラウマ化しているせいで、なかなか言い出せない。

ぐずぐず迷っているとあちらの方から提案された。


「個人的にはどっかで休みたいなって思っているのですが、どうかな?」

「あぁ分かりました。休日に出社なんて、ほんとにお疲れさまです」


……気を使わせてしまった。けど無事行き先は決まった。

この辺りは通学範囲ではないのであまり詳しくはない。僕の住んでいる街は栄えている方だと思っていたけれど、この街のほうが圧倒的にビルの数が多い。それに見上げると空がいつもより遠くの方にあるように感じた。


ドS会社員さんの先導で僕達は目的地へと歩いて向かっていた。


「そういえば、つむつむくんはアプリの職業欄に会社員って書いてあったけど、ここらへんの会社かな?」


そんなこと覚えていてくれたのか。すごい。圧倒的スパダリ感だ。

でも、すみません。違うんだなあ……

ちなみに僕、佐々木ささきつむぎは偏差値65のちょっと頭のいい高校2年生です!普段は優等生として振る舞っているけど、僕だってそういうことが気になるしお年頃ですし〜?

(※未成年のみんなは真似しちゃダメだぞぉ☆)


「っいえ自宅が隣町でして、そこから自転車で通っているんです。仕事の方なんですけど、本当は小説の編集者をしています。アプリだと自分で入力するタイプではなくていくつかの選択肢から選ぶタイプだったので」

「あぁ、そういえばそんな感じだったね。あれ、選択肢が会社員とか医者とかベタな職業しかないよね。」

「た、確かドS会社員さんは本がお好きなんですよね。どんな本が好きなんですか?良ければお話ききたいです」


ふう、なんとかそれらしい返しができたぞ。

(※未成年のみんなは真似しちゃダメだぞ)

隣町に住んでいるのは本当だし、本を読むことが趣味だ。仕事とか将来のことなんて考えていても埒が明かないし、今は、今日くらいは見栄を張ってもばれはしないだろう。

未だ心臓は自分でもわかるくらい脈打っているけど、きっと時間が解決するだろう。


「そうだな……よく読むのはミステリー小説かな。意図とか結末とか予想して読むのも面白いし、たいてい僕の予想は外れるけど視野が広がる気がして読んでいて楽しいと感じるね」


帰ってきた答えはやっぱり大人って感じがした。でもなんだかわかる気がする。

小説や物語は自分とは違う視点からの考えを知る機会にもなるし、決して体験できなようなことも自由自在だ。はっとしたり、涙を流したくなるほど胸が痛くなったり。僕は感情というものを、日常生活より本の中から教わってきた。中学生の頃からずっとそうだ。


「ここが一番近いみたいだね。ここに入ろうか」


ピアノの鍵盤みたいな柔らかい声が聞こえて、やっと考えることをやめた。くだらない考え事をしているうちに目的地についたようだ。

なんだか見た目はお高そうなビルだけど、金額は大丈夫なんだろうか。

そう思いながら自動ドアをくぐると内装は見た目ほど豪華ではなく、どこにでもあるようなビジネスホテルだった。

流れるように受付を済ませて、僕達はビル五階の一室に案内された。


「ちょっとシャワーを浴びてきてもいいかな?一応普段着の着替えも持ってきたんだ。ラフな服装にも着替えたくてさ」

「わかりました。僕のことは気にせずゆっくり支度してもらって大丈夫ですので」

「ありがとう。僕が出たあとに何したいか考えておいてくれるかい?」

「……承知ですっ」


僕のうわずった返事に対して『ふふっ』と控えめな笑みを返して彼はシャワールームに引っ込んでいった。

いちいち仕草に色気があって、ドキッてするなあ!?なんなんだ!!

とりあえずホテル特有のわくわく感のあるベッドに座って待つことにした。

本当ならベッドに飛び込んでバインバインしてみたい気持ちもあったが、今は僕一人でここに来たわけではないのでやめておくことにしよう。

なんだか、慣れないことの連続で心が緊張しっぱなしだ。彼はこういうことに慣れているのだろうか。

そうだよな。

だって所詮出会いのためのマッチングアプリだ。僕だって出会いを求めてほいほいとアプリ登録したわけなんだから。

実はだ。

けど精密に言うのならば、今日が初めての対面だった。

初めてマッチングした人と会うとき、待ち合わせをしている場所に行った。けれど、どうしようもない不安が僕を襲った。

怖かったんだ。文面では測れないその人自身に自分を委ねることが。実際に会うことでより分からなくなっていくことが怖かったんだ。

そして僕は待ち合わせ時間を満たす前にその場から逃げた。

次にマッチングしたときも同じだった。いやこのときのほうが酷いことをしたと思う。

僕は待ち合わせ場所にも行かず、ただ家で落ち着かない心をなだめていた。

怖かった。いや、情けなかったんだ。こんなにも自分の心もコントロールできない人間が、真剣に出会いを求めて優しさを分けてくれる人に対して会ってなにができるのだろうかと思った。

けど、やっと僕は一歩踏み出せたんだ。

今ここにいる。それが僕が進んでいる証拠だ。


ガコンッ


シャワールームの方から物音がした。きっとシャンプーやら何かを倒してしまったとか、シャワーヘッドをうっかり落としてしまったのだろう。

そうだ、ドS会社員さんがお風呂から出たあとに何がしたいか考えておかなければいけないのだった。

暇が空くとついつい考え事をしてマイナス思考になりがちなことは、昔からの癖で直さなければと思っている僕の短所だ。

せっかく今日は自分を変えられるチャンスなんだ。こんな自分とはこれでおさらばとしようじゃないか。


ドS会社員さんが戻ってきたら……そうだな。なにをしたいって言ったら喜んでもらえるのだろうか。

でも、彼は僕より年上だし凄い会社に勤めている感じもするので人生経験も僕なんかより遥かに上だろう。

だったら彼の話を聞きたいな。今まで何が面白かったとか、どんな趣味をしてきたのかとか、アプリでは分からなかった彼のことを知ってみたいと思った。

僕の考えにちょうど終止符が打たれたところで、シャワールームの扉が空いた音がした。


「っふう。お風呂上がりました。待たせてしまって申し訳ない」


体感では十五分くらいだったのでそんなに待った気はしていない。それに、彼がシャワールームに入ってから出るまでを時計を見て時間を測っていたわけでもないので僕は素直に応えた。


「いえ、汗も流せたようでなによりです。」

「っふふ、お気遣いありがとう。それで何かしたいことは見つかったかい?」


少し濡れた髪の毛をバスタオルで拭きながら彼は流暢に話す。服は待ち合わせたときのきちっとした会社員のスーツではなくて、休日感のある少しゆったりとしたシャツに変わっていた。


「はい、折角の機会なのでドS会社員さんのことを知りたいです」


僕はさっき考えていた事を整理して説明しようとした。したんだ。説明しようとした瞬間、僕の視界が揺らいだ。


「っは、なにッ急にっ」


体の肩の辺りを勢いよく押されたような気がする。いつの間にか僕はベッドに縫い付けられるようにして押し倒されていて、僕の身体のうえにはドS会社員さんが馬乗りになるような形になっていた。


「っどうしたんですか?離してもらえませんかっ?ぼくっ…なにか気に障ることしましたかッ?」


震えそうになる声をグッと押し込めて、あくまでも先程と変わらない声色を努める。

それでも僕はやっぱり馬鹿だったのかもしれない。

こうして押し倒されるまで彼の異変に気付けなかったのだから。先程までの穏やかで紳士な雰囲気を表面上保ちながらも、彼の目はしっかりすわっている。


「……ねえ、今日はこういうことされたくてのこのこついて来たんでしょ?だったらいいよね?」

「……ぁ」


彼の話す声は怖いくらい先程と変わらず穏やかだった。驚いて情けない声を上げる僕とは違い、にこやかに語りかける彼の意図がよくわからなかった。

そんな状況の中、ただわかる感情は『恐怖』だった。


「……っ」


声が出ない。


「俺がさぁ、S気質なのは知ってるでしょ?ハンドルネームにもなってるし…あのアプリだってこういうことする目的のために使っている人がほとんどだしさぁ」


わからない。

僕は自分の欲求不満のためにここで押し倒されているのだろうか。


「ッん!」


一度も誰かと触れたこともない唇に、彼の唇が触れる。


「……っは、抵抗もしないみたいだし…じゃあオッケーってことで」


たった数秒の触れ合いなのに、銀の糸が唇を伝う。

ちがうんだ。やめてほしい。

僕の意思とは裏腹に身体は思うように動かない。


こわい。


「っひゃぁ!!っややや、やめてくださいっ!!!」


服をまくられ彼の腕が入ってきたのを合図に、僕は音量調節もきかない拒否の意思を腹の底から叫んでいた。


「……うるせーなぁ……こっちがちょっと紳士になったら調子にのりやがってさぁ。

やっぱ初めから脅しとくべきだったなぁ」


僕が初めて彼に会ったときに感じた威圧感に似た空気を、感じる。

ここに来る間に会話を交わしたときにはその空気はなくなっていたけど、距離が縮まったわけでも緊張が解けたわけでもなかったんだ。


僕はずっと彼のコントロール下だったんだ。



「ッヴっ!」


頬、というか顔の左半分に今まで経験したことのない鈍い痛みがはしる。

左目が少しぼやけて上手く見えづらい。それに痛い。

僕の思考とは関係がなく、反射的に涙が流れる。流れた涙のしょっぱさにかぶせて口辺りにしみる痛さもある気がするので、きっと衝撃で唇が切れたのだろう。

こんなにも衝撃的なことをされたのに、冷静に状況が確認できているのはなぜなのだろうか。

それはきっと僕が馬鹿だからだ。


「お前はぁ俺に従ってればいいの。どうせ怖くてろくに抵抗できねぇくせに叫んじゃってさぁ、っは笑えるわ」

「殴られて興奮できるまでいっぱい殴ってやるから、安心しろ。な?」


にげなきゃ。

逃げないと、殺される。


次の拳が今度は僕の腹に向けて振りかざされようとしている。

その様子がスローモーションに見えたとき、僕ら以外のかすかな物音がわずかに聞こえた。


『お客様、いらっしゃいますでしょうか?』


部屋を挟んで扉の前でそう呼びかける声が、僕にははっきりと聞こえた。


『お客様?お休みのところ申し訳ありません、いらっしゃいますか?』


目の前の彼にもそれは聞こえたらしく、ほんの少し動きが止まった。

なんの用なのかは僕にも分からなかったが、彼が少しでも僕から離れてくれるきっかけを作ってくれたその声が僕の心臓を優しくなだめてくれた。

彼は一旦扉の方へ行くだろう。従業員が呼んでいるのだから。そう願っていた。

けど、その願いも虚しく僕にめがけられた拳はきちんとした痛みになってふりかかった。


「っゔぁ!!ぃいだぁぁい!」 『お客様、いらっしゃいますか?』

「……ちっ、はぁぁーうるせー」


幸か不幸か、僕の声に被さって従業員の呼びかける声も大きくなっていく。それを煩わしく思った彼は大きなため息を投げた。

すると彼はしびれを切らして僕にまたがるのをやめた。

ドスっとベッドから降りると、足音を立てて扉の方へと向かっていった。

チャンスは今しかない。

未だ、身体はわがままに倒れ込もうとするが大きく酸素を吸って無理やりベッドから這い上がる。


「っヒュウーっは……っは」


コサッシュから不造作に財布を取り出して、乱雑に一万円をベッド付近の机に置く。

出口は、たった一つ。

この部屋は五階だからベランダから飛び降りるわけにもいかない。真っ向勝負で扉を突破するしかない。扉には彼がいて、従業員の話を聞いているところだろう。彼に近づくのは、今の僕にとっては勇気のいることだがうじうじしていてはいけないと思った。

行こう。


「……ぅぅ……うわぁっあぁあああっ!!」


へろへろの嗚咽を漏らしながら僕は扉に突進した。


















拍子抜けた表情の従業員と、ポーカーフェイスを保つドS会社員さんの姿が脳裏を横切る。エレベーターは使わず、階段でフロントまで走ってかけ降りた。


今はあのホテルを出て気持ちが落ち着くまで街をぶらぶらと歩いている。

秋独特の寒さと生暖かい風がどうしようもなく心地良くて、無意識に呼吸が深くなる。この街のことは詳しくないから、帰り道がわからなくなったらどうしようかとか、自分がどこに向かって歩いているのかとか、そんなことはどうでも良くてただ歩くことで頭が冷えてきて正気に戻っている気がした。

考えないように、考えないように。

少しでも思い出すと、あの空気が蘇ってきてぬるりと僕の喉を締め付ける。


横断歩道を渡る。

大通りの信号で赤信号を待つ。

角を左に曲がる。

人にぶつからないように慎重に歩く。

自転車が僕の隣を横切る。

子供の笑い声がする。

落ち葉を踏む。

スマホを見て歩いていた女性にぶつかる。

道端のゴミを見つける。


「……この街にも本屋ってあるんだ」


イチョウの葉がひらりと舞うから、不意に目線を上にしてみた。

みたことのない街で見たことのない本屋。

ほしい本があるわけでもないし、勉強の参考にするために本を買いに来たわけでもない。暇をつぶしたり、店の外からみえた表紙に興味を持ったとか、そんな些細な理由の一つすらなかったのは初めてのことだった。

分からないけど、ずっと僕のことを待っていてくれたみたいなんだ。


──────────

──────

────


店内は特別広いというわけでもなかったけど、狭くもない。個人で経営している本屋なんだろうか。お客さんは休日だというのにあまりいなくて、大量の本が僕を迎え入れた。

だからだろうか、小説のコーナーにいるその人に目を惹かれた。


「ベージュのパーカーに……青いスニーカー」


落ち着いた髪色。左耳には緑に淡く揺れるピアス。


「……僕が、間違えた……あのときの人」

「……んー、なん……あ、……つ、つむつむさん?」


本から目を離してこちらをちらりと盗み見る、伏し目がちなその姿が無性にきれいだと思った。落ち着いた髪色の毛束が、こちらを向いたことによってパサりと動くことだってドラマの1ページに思える。


「っああ!!あんた口から血が……ちょっとこっち来て」


そう言いながら、僕の腕を引いてカウンターの方へと連れて行かれる。

手は相変わらず冷たい。


「母さん、救急箱ってバックヤードにあったっけ?この人怪我してるから手当する。入るよ」


母さんと呼ばれた女性は本を片手に「へーい」と返事をした。そのまま僕は腕を引かれながらずんずんと進む。

程なくして、パイプ式の椅子に座らせられた。


「……つむつむさん、なにかあったの?」


僕を捉えた瞳は優しい眼差しをしていた。









つづく─────



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る