第一章 無気力男と社長少女
第一話 覚悟=夢想
薄暗い朝のワンルームには、昨晩脱ぎ捨てたジャケットから錠剤がこぼれている。
もう用がない身体には不要のものだった。
現実に生きる自分たちは、夢を目指してもどこまでも続く現実に生きるしかなかった。
瑞の身体は耐えることができず、精神も霧散して今がある。緊急搬送の末に休職を余儀なくされ、朝を迎えても膝を抱えていた。
すぐそばにある影におちていきそうな身体は呼吸のために動くだけだった。
その様子は突然ひびく音にも変わらない。瑞のそばに転がってきた軟式の野球ボールの先に割れたガラスが飛び散る。
さらに先から一筋の何かが射す。瑞の足元におちたそれは鏃のない矢だった。
もう一矢飛びこみ、それは瑞の肩に当たる。ようやく認めた瑞は緩慢に窓の先を見る。
ガラスの割れた窓はカーテンがそよぎ、快晴の青と逆光の影を伝えた。
逆光の影は再び矢をつがえる。そして届いた矢は今度こそ瑞を射抜く。
ゆったりと肩を抑える瑞のそばにおちた矢には紙が巻かれていた。
「見ろ!」
女性だったらしい射手の怒鳴り声がひびき、瑞は読み始める。流し読みを終えると、すでに射手はいなくなっていた。
そして、瑞は部屋を片し始めるが、何かがよくなったということもなく緩慢なままだった。
おちていたジャケットや錠剤、散乱したガラスの欠片の始末をすませ、窓にゴミ袋を貼る。
ただそれだけのために半日が過ぎていた。
改めて読む手紙はどうやら射手の主からのものだった。丁寧な筆跡と時候の挨拶と射手のことをよく知っている故かの謝罪、いつ知ったのかわからない休職となったことに対する見舞いの言葉は老練のものだった。
差出人は
天からの手紙は明日、瑞の家を訪ねるということが書かれていた。
読んでいた時に不思議だと思うような感情を見せなかった瑞であったが、今の自分を見せることができないと判断できる程度にはプライドがあった。
自分があこがれたアナウンサーは感情にのまれずに伝えるべきを伝えたのだ。ならば、恥とならないように、たとえ死にたくとも理想を人に見せなければならない。
昼まではなんともなかったが、今の瑞は表情を歪ませていた。錠剤と水を用意して、どうにかのみこみ、大きく息を吐く。
しばらく続く息苦しさに耐え、ようやく薬が効いてきたころにもう一度大きく息を吐く。
その日は、シャワーだけはどうにか浴び、他に何もしないまま終えていた。
カーテン越しの太陽光が瑞の身体を照らし、瑞は目を開ける。身支度を整え、何も食べないままに天の来訪を待つ。
そして、インターホンが鳴る。年若い女性の声がひびいた。
「花芽瑞さんはいらっしゃいますか」
瑞は言葉少なく応対し、玄関のドアを開ける。外につながる先には、長い黒髪を大きな赤いリボンでまとめた少女がいた。
羽雁天は人懐っこい笑みをうかべ、瑞の反応を待つ。瑞は見惚れているのか天から目を離すことができずにいた。
そこで咳払いをする人影が一つ現れる。
刺々しい音は昨日の射手と同じものだった。
「
天の咎める声に奏は「失礼しました」と頭を少し下げた。
「ごめんなさい、瑞さん。瑞さんのことが奏にもわかるように話していたのですが、どうしても私の言葉では瑞さんのすばらしさを伝えることができなかったみたいです」
あまりにも過分な言葉に、瑞はたまらず頭を下げるしかなかった。
「私のほうこそ失礼いたしました。何もない部屋ですが、どうぞお入りください」
瑞は二人を部屋に入れる。天は小声で「失礼します」と挨拶し、奏はぶっきらぼうに頭を下げるだけだった。
部屋はあいかわらず殺風景のまま、カーテンを閉じられうす暗い。カーテンを閉じている理由は射手のせいだが、当の本人は気にしていないようだった。
「瑞さんは日中もカーテンを閉じられているのですか」
天の問いかけにぎこちない笑みでうなずく。きっと気づかれただろうが、天は何も触れずに用意していたクッションに腰かける。
「改めまして、羽雁天です。本日は突然の訪問となり申し訳ございません」
天は瑞に頭を下げ、言葉を続ける。
「瑞さんは体調を崩されたと伺いました。私にとっての憧れの人、ですのでどうか何でもおっしゃってください」
作ったような笑顔は、無理に繕ったような邪気はなく、単純に苦しみを見せまいとするもののようだった。
「そんな憧れを抱かれるような人間ではないですよ」
「いえ、瑞さんは私にとって憧れの人です。私にとって、毎朝の目覚めは瑞さんの声によるものです」
途端に顔を赤く染める天はわちゃわちゃと手を振って、否定する。
「あの、違います。そんなフェチズムとかではなくてですね、毎朝ニュース番組を観るのですが、その担当キャスターが瑞さんというだけで、ずっと観ていたら聴きやすいお声で、わかりやすい言葉使いですので憧れているというだけですので、私が瑞さんを変態的に好きというわけではないのです。決して、録音して自分好みのセリフボイスを作って目覚ましにしているというわけではないのですからね」
あまりの必死な弁明に瑞は笑ってしまう。思わず漏れてしまったかのような笑い声に、天はむくれてしまう。
「申し訳ないです。小学生のときから社長を務める人の意外な一面を見てしまい、ほほえましいなと」
うめきながら天は下を向いてしまうと、近くによりそう奏に話の続きを促される。恥ずかしさがまだ拭えないようだが、おずおずと天は言葉を続ける
「それで、ですね。私も社員の方から少し休むように言われてしまいまして、できれば瑞さんのお世話をさせてもらえないかなと」
「有難い話ではありますが、それでは羽雁さんのお休みにはなり得ないでしょう。もっと自分のために使ってください」
一般成人男性がどうして中学生女子のお世話になれるだろうか。
そんなことを思って瑞はキャスター時代に浮かべていた笑みをどうにか取りつくろう。
「私がしたいことなのです」
「それでも私のことは私がやりますし、体調不良だっていつもの発作が強く出てしまっただけですよ」
「違うのです」
突然の声音の変化は、空白の時間をもたらした。仮面越しのものではなく、ありのままの天の表情が瑞の瞳に映った。
「このままだと、瑞さんが死んでしまうのです」
泣きそうな表情の天は嘘をついているようには見えない。それでも、瑞は何の感慨も抱かなかった。
「たとえそうだとしても、私の望んだことですよ」
「私は瑞さんに死んでほしくないのです。どうして、憧れの人の死に納得ができる人がいるのでしょうか」
一瞬の逡巡のあとに、瑞は落ち着き払った様子で天を見つめる。
「どうして私に生きていてほしいのですか」
「死んでほしいと思える人はこの世のどこにもいないからです。それが私の手が届く場所であれば、私自身が死んでしまったとしても手を差し伸べます。その方が憧れの人であれば尚更です」
どこから生じるのかわからないほどの覚悟に、瑞は開けた口を閉じる。
「瑞さんがすぐにでも死んでしまいたいと思っていることは存じています。その原因を解決することはすぐにできるものではありませんし、ましては過去の出来事をなかったことにはできません。しかし」
一度を口を閉じ、天は抉るように瑞の目の底を見つめ直す。
「私は瑞さんを救ってみせます」
この覚悟こそが、羽雁天という人物が小学生でありながら社長を務め上げた要因であり、また瑞自身が過去に抱いていた夢想であった。
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