ペルティカの箱庭
綿貫灯莉
第1章 穏やかな暮らし
第1話 目覚め
ずいぶん長く眠っていたような気がする。
閉じたまぶたの向こうに光を感じ、私はゆっくりと目を開けた。だが薄い膜が目の前にあるかのようにまわりの様子がよく見えない。
「あれ……?」
思考がまとまらず、少しの間ぼんやりしていた。
「何があったんだっけ……?」
もう一度目を閉じて、だんだんと覚醒してきた頭でしばらく記憶を探った。
「そういえば、車にはねられて……」
あの日はいつも通り仕事を終えて、道路の反対側のバス停にむかうため、横断歩道を渡っていたんだ。
そうしたら遠くから悲鳴が聞こえて……。
何だろうと悲鳴のする方に顔を向けようとしたら、強い衝撃とともに体を飛ばされたんだ……。
──あの時は死んだと思ったけど……
ずっと死にたいと思いながら、でも自殺する勇気はなく、ただ漫然と生きていたのだ。
──あのまま死んでしまって良かったのに……
私の胸に暗澹たる思いが広がった。
結婚どころか恋人もおらず、職場と安アパートを往復するだけの毎日で、自分のやりたいこともわからず、先の見えない渇いた人生を送っていたのだ。
──どこで終わってもいい人生だったのに……
虚無感に襲われながらふたたび目を開けた。
しかし、薄い膜のようなものが目の前にあるようで、まわりがよく見えない。
これは一体何だろうと手を伸ばした瞬間
膜が破れて、ザッと水が落ちる音が聞こえた。
そして、目の前に原色のまぶしい世界が広がった。
そこは熱帯の森だった。
木々のすきまから光が差し込み、根っこがそこらじゅうの地面を這っている。蒸し暑い空気には土と緑のにおいが満ちていた。
よく見ると木の根を避けるように石畳があり、どこかへ続いているようだった。
「あら、生まれたのね」
突然、大きな木の向こうから声が聞こえた。
目を向けると、その人は石畳を歩いてやってきた。
その姿が私の記憶にある一般的な日本人とはかけ離れていて、思わず目を見張った。
細身の体にゆったりと大きな布を巻きつけ、青緑色の長い髪を、ゆるく三つ編みにしている。そして、美しく整った顔立ちにある、澄んだ茶色の瞳をおだやかに細め、こちらの様子をうかがっている。
「早速だけど、左の手に握っているものを確認させてちょうだいね」
目の前までやってくると、目の高さが合うようにかがみ、握りしめている私の左手を指差した。
言われるまま左手を開くと、そこにはほんのりと光り輝く、金属の小さなプレートがあった。
その人がプレートを大事そうに両手で持ち上げると、ほんのり輝いていた光が消えた。そして、そこに彫られている何かを確認した。
「あなたの名前はエルライというのね。これからよろしくね」
そう微笑みながら私を見つめた。
「えっ、と、あの……」
状況が飲み込めない私の頭をそっと撫でてから
「色々分からないわよね。大丈夫、あとで説明するから。まずは体を洗って服を着ましょう」
そう言って、先ほどのプレートを木の箱にしまい、私の手を取って立ち上がった。手を引かれて歩き出した瞬間、先程から感じていた違和感の正体に気がついた。
──体が子どものものになっている……!
手も足も、自分の目から見える範囲の肢体は小さな子どものものだ。
──しかも裸だ……!
軽くパニックになりながらも、必死にあたりを見て何が起きているのか確認しようとした。
深い森の中にはいくつもの小さな池があり、その池に向かって石畳が敷かれている。振り返って確認すると、私がいたところも池だったようだ。
手を引かれるまま歩いていくと、前方の石畳がだんだん広くなり、森がひらけ、遠くに石の建物が見えてきた。
建物の手前には湯気をあげた露天風呂のような場所がある。そこには茶色の髪を紐でうしろに結んだ、少し体格のいい若者がいた。同じようにゆったりした布を巻きつけた衣装で、すそが濡れないように腰あたりで結び、腕組みをして立っている。
「ルクバト、この子はエルライよ。よろしくね。私は次の子を迎えに行ってくるわ」
青緑色の髪の人はルクバトと呼んだその人に私を託して、再び森に戻っていった。
「エルライか。これからよろしく」
ルクバトは茶色の髪に青い瞳の人物で、私を安心させるためか、ニカっと白い歯を見せて笑った。
──この人も整った顔立ちをしてる……
眩しい笑顔を見てドギマギしている私の手を引いて、ルクバトは露天風呂のようなお湯がためてある場所へ連れていく。
あっという間に身体中を洗われると、乾いた布で拭かれた。そして、Tシャツと短パンのような服を着せられ、藁のサンダルを履くように促された。
体を拭かれているときにアレッと思ったのだが、恐らくこの体は性別がない。
──これは夢……?
夢は見る方だが、こんなにも鮮やかな夢は見たことがない。こっそり太もものあたりをつねると痛みがあるし、夢というにはあまりにもリアルだ。
少なくとも以前、私が生きていた世界ではない。
状況は分からないが、自分の力でどうにかできる気もしないので、一旦考えるのを放棄して現状を受け入れてみることにした。
──夢ならいつか覚めるし……
そう思うと少し気が楽になり、落ち着いてまわりを見られるようになった。
「あっ……」
今まで気がつかなかったが、建物側の石のベンチに五、六歳くらいの可愛らしい子どもが、座ってこちらを見ていた。
淡い栗色のふわふわした髪で、目が合うとニコッと笑ってこちらへと手招きをした。
ためらいつつ歩いていくと、待ちきれないと言わんばかりに、その子はベンチから立ち上がって私の前まで走ってきた。
「こんにちは」
笑顔であいさつをして、私の手を握った。
「こんにちは」
子どもらしい可愛らしさに目を細めて、私もつられてあいさつをする。
もしかしたら、この子も自分と同じような状況かもしれないと思い、質問してみた。
「君はどこから来たの?」
その子は深緑の美しい瞳で森のほうを見て
「あなたと同じ森の中だよ」
さも当然だと言わんばかりに返されて、確かに質問の仕方が悪かったなと質問を変えた。
「その前は?」
「その前……?」
その子は不思議そうに首を傾げて、少し考えたあとに首を振った。
「わからない。わたしはあの森からきたの。あなたはどこか別のところにいたの?」
どうやら自分と違い、この子は森で生まれてここにいるのだと判断して、話を合わせることにした。
「私もあの森から来たよ」
「じゃあわたしと同じだね」
ほっと安心したように握った手を引いて、ベンチの方へ歩き出した。
「さっぱりしたらお腹空いたよね」
そう言われて、自分もかなり空腹だと気づきコクリと頷いた。
「もう少しかかるからここで待ってて、って」
その子はベンチに座って、隣に座るよう握っている手を引っ張った。隣に座ると私の手を離して、それから自分の左手をじっと見た。
「わたしはアルドラっていうの。あなたは?」
「……エルライ」
先ほど言われた名前を伝えた。
「ステキな名前ね」
アルドラはニコッと私を見た。
「アルドラも良い名前だと思うよ」
そう言うと、アルドラはへへっと嬉しそうに笑った。
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