第8話 記憶

『ねぇ、サクラ、あなたは私の大事な大事な宝物よ』


 ぼんやりする意識がハッキリとしてくると、目の前に見知らぬ女性がいた。黒い髪の毛に黒い瞳、とても優し気な目でこちらを見て微笑んでいる。誰だったかしら……なんだか懐かしい……。

 あわあわと伸ばした手が見える。とても小さな手。ん? 赤ちゃん? 声を上げようとしても「あうあう」としか出て来ない……。



『サクラ、立てるようになったのね! 凄いわ!』


 ようやく自力で身動きが取れるようになって来た頃に初めてつかまり立ちをした。目の前の女性はとても喜んでくれている。

 そう、この人は私の母親なのだ。でも、あれ? 私の両親は他にいたはず……おかしいな……うん、いたわよね。私は「サクラ」なんて名前じゃない。私の名前は……。



『もうすぐあなたも幼稚園に通うのよ、嬉しいわね』


 新しい制服に身を包んだ私は嬉しそうな母親に頭を撫でられた。どうやら父親はいないようだ。母親一人に育てられている。

 私は結局誰なのかしら……サクラじゃない、とは分かるのに、自分がサクラなのだとも分かる。一体私は誰?



『フフ、あなたにもあの子の可愛さが分かるでしょう?』

『ふん、知るか』

『フフフ』


 夜中に寝ぼけまなこのままトイレに立つと、母親のいる部屋から話し声が聞こえた。誰だろう。男の人の声だ。父親はいないのだから、誰かと電話でもしているのかしら……。でもとても親しそうな声。嬉しそうな声だった。いつか私のお父さんになるのかしら……などとぼんやり思いながら布団に戻るとすっかり忘れてしまっていた。



『小学校に入学かぁ、早いわねぇ。ランドセルがよく似合うわよ』


 母親と一緒に桜の前で写真を撮った。私の名である花だ。父親が付けてくれたらしい。私が産まれる前には亡くなってしまったそうだ。

 小学生になってからは母親の代わりに家事をするようになってきた。母親は私を育てるために朝から晩まで働いていた。

 それは中学生になっても高校生になっても続いていた。私を女手一つで一生懸命育ててくれているのが分かっていたので、傍にいられる時間が少なくとも不満はなかった。

 それよりも働き過ぎで倒れてしまわないか心配で仕方がなかった。



『サクラちゃん!! お母さんが!!』


 近所のおばちゃんが学校帰りの私に声を掛けて来た。母親が事故に遭ったと。必死に病院まで走った。

 お母さん……お母さん……お母さん……私を独りにしないで……



 お母さんは死んだ。赤信号を無視した車にはねられほぼ即死だった。泣いた。一日中泣き続けた。

 母親には身内がいなかった。近所の人たちが葬儀を手伝ってくれた。母親はあっという間に灰になってしまった。


 二人で暮らしていた部屋も、独りになると広く感じた。母親の遺品の整理をしていると、とても綺麗な石を見付けた。普段はアクセサリーなど身に着けない母親で、宝石の類も持っているのを見たことはなかった。

 しかしこの宝石はとても美しい石だった。紫色の丸い石。光に翳すとなにやらなかで光が揺らぐような不思議な石。母親の形見としてお守りにした。巾着に入れて肌身離さず持ち歩いた。


 母親がいなくなってからはなにをするにしても張り合いがなかった。高校も卒業間際だったため、すぐに働くことも出来て、生活自体は問題なかった。でも……なにをするにしても独りは寂しい……。私はこの先どうやって生きて行こう……。


 そうやって何年か過ぎた頃、まさか自分も車に轢かれて死ぬことになろうとは。




『―――!!』


 誰かに呼ばれたような……誰だっけ……


 懐かしいような温かいような……


 聞いたことがある声のような……



 私はなにかに引っ張られたかと思うと、赤信号の横断歩道へ飛び出し車に轢かれた。


 周りでは悲鳴や叫び声が響き渡るが、なんだか遠くに聞こえる。


 あぁ、これ、私はもう駄目なやつかな……。まあ私が死んでも悲しむ人はもういないし、それでも良いか……。



 遠くで誰かが呼ぶ声が聞こえる……。


 あぁ、そうか、まだお母さんが生きていた頃に聞いたことがある声なんだ……。

 だから懐かしい。


 会ったことはない人。


 それでもなんだか懐かしい声。



 あなたは誰…………




『サクラ……いえ、ルーサ、あなたを独り置いて行ってしまったこと、本当にごめんなさい。これからあなたはまた辛い想いをするかもしれない……でも、忘れないで。あなたには常に味方がたくさんいることを……』


 お母さん!? お母さん!! 叫んで抱き付きたいのに動けない!!


 お母さん!! お母さん!! 私を独りにしないで!!


『大丈夫よ、あなたは独りではないから……を大事にしてね……』


 とても優しい笑顔でそう言葉にした母親は私の頬をそっと撫でて消えた……。

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