34、黒太子とワインのお話


 皇帝の傍らで、『客人』が仮面に手をかける。


 父と同年代の男は、浅黒い肌に艶のある黒髪で、瞳は印象的な紫だ。精悍せいかんという言葉がよく似合う顔立ちである。

 

 仮面を外した顔を見て、カッセル伯爵とゼクセン公爵が同時に声をあげた。


「エディワール黒太子!」

 

 呼ばれた名に、会場中から悲鳴のような怒号のような声があがった。

 

 ディリートは驚愕の中で思い出した。

 

(あの方は、敵国ナバーラの王太子だったの? あっ、白い仮面の人……?)

 

 ランヴェール公爵とデートをしているときに会った黒衣の男性貴族だ。浅黒い肌に黒髪をしていて、白い仮面をつけていて。ディリートを「ユーディト」と呼んだ人だ。


「皇帝陛下は、捕虜ほりょを夜会にお連れだったのですね」

 ランヴェール公爵も不思議そうに呟いている。妻にだけ聞こえる声量なので、ディリートは安心した。

「捕虜、なのでしょうか?」

(そんな雰囲気ではないけれど……)

 

 皇帝は「皆、自由に飲食を楽しむといい。歓談も自由だ。皇子たちが望むので、父であり皇帝である余は心のうちを語るが、興味がある者だけ聞けばいい」とおおらかに許した。

 

 この皇帝は「争いを好まぬ」と宣言していた。

 第一皇子とのやりとりからも、皇帝がパーティを「楽しむ場」と決めているのは明らかなので、皆は「まあ、そんなに刺激的なことにはならないのだろうか……? たぶん?」と食事に手を伸ばしつつ、動向を見守った。


 

 皇帝は語った。


「父王が病床にあり、ナバーラの実権は彼が握っている。何代も前に争いをきっかけとして南北に国が分裂したが、ナバーラ王族と我らは元は兄弟。親族である。よいか、諸君の皇帝は争いが嫌いだ。特に親族の争いが、本当に悲しい。余は、亡き妹とも仲良くしたかったのだ……」


 ランヴェール公爵は、小声で妻に教えた。

「皇都に情報が届くまであと数時間はかかるでしょうが、当家の精霊獣の早馬がもたらした知らせによると、数日前にナバーラ王は病で逝去せいきょしています」

 

 皇帝が「自分がいかに妹と争って嫌だったか、妹が亡くなりどんなに悲しかったか」「争いはもう嫌だ。皆そう思わないか」と語る。

 

「ナバーラ国とは、もう何代も敵対している。民はそれぞれが自分の国こそ正義と伝える歴史を教えられて信じ込み、相手こそが悪だと思っている。そんな時代を、余が終わらせたい!」

 

 ランヴェール公爵が小声で頷く。

 

「ええ。そんな時代は、もう終わるのです」


 皇帝はうっとりと夢をみるような顔で語り続けている。

 

「ナバーラ国には、我が国にない技術もある。友笛ともぶえも、植物を改造する技術も興味深い。技術革新により、帝国はより豊かになるだろう。余はギスギスした争い事よりも豊かさを追求したい。平和が一番だ。もうほんのちょっとでも、誰かが争うのは……見たくない……!」 

 

 ランヴェール公爵が小声で眉を寄せる。

「私は友笛が嫌いです」


(う、うーん……? ど、どうリアクションしたらいいか、わからないわ……!)

 ディリートは戸惑いながら、夫が赤ワイン入りのグラスを傾けるのを見た。


 ゼクセン派では白ワインが好まれていたが、ランヴェール派では赤ワインが好まれている。さらっとした明るく鮮やかな赤色を魅せるワインをたたえるグラスを軽く揺らすと、夜会会場の光を反射してキラキラと煌めくのが美しい。香りはフルーティで、熟成された、上質で複雑な香りだ。


(けれど公爵様は、白ワインのほうがお好きなのよね) 


 ランヴェール公爵と過ごす日常を経て、ディリートは「実は夫が赤ワインより白ワインを好むのだ」と気づいていた。

 

(それなのに、ランヴェールの当主は赤ワインを好んで飲むべき、って思っていらっしゃるのだわ)

 

 夫には、そんな一面がある。自分の肩書や身分に対して他者が期待する姿を理解して、その通りの自分であろうとするのだ。それはもちろん、公爵家の後継教育が「そうであれ」と教えたのであろう。

 

 ディリートは侍従に白ワインをお願いした。

 

「公爵様。白ワインが美味しいですわ。ディリートは同じ味をあなたにも楽しんでいただきたいのですが、いかが」

 

 微笑んで白ワインを夫に差し出させると、周囲からは意味ありげな眼差しがチラチラと寄せられる。


「なんと、ランヴェールの当主に白ワインをすすめるとは」 

「ランヴェール公爵夫人はやはりゼクセン派だな。白ワインを好まれるらしい……」

「郷に入っては郷に従えという言葉がありますが、最近の若者は嫁ぎ先の気風に合わせるということを知らぬのか」


(ああ、こうなるのね。これでは、白ワインが飲めないわけね)

 ディリートは夫が何かを言うより先に、白ワインのグラスを掲げて微笑んだ。


 上品に、淑やかに。

 ゼクセン派で良しとされる貞淑で清純な気配をまとい。

 ありし日のフレイヤを思い出しながら、小鳥のように首をかたむけた。


「聖書にはこのように書かれているのです。『火は水とまじわらぬ、水は火とまじわらぬとかたくなだった。そんな中、ふたつと交わった若者は王となれた』……夫は雪が苦手らしいのですが、さきほど苦手な雪を楽しもうと雪遊びに誘ってくださいました。苦手なものもふところいだいて楽しめる――まさに王者の器といえましょう。赤ワインだけでなく白ワインも飲む……これは、そういった度量の大きさを見せる儀式なのです」

 

「そ、そうだったのか」


 なにせ「第一皇子の聖女」として有名になったディリートの言葉である。

 周囲は「なるほど、俺も白ワイン飲むか」「惚気では?」とささやきを交わした。


「さあ、召し上がって」

 ニコニコとグラスを勧めれば、ランヴェール公爵は驚いた様子で「王者……」などと呟き、周囲に言い聞かせている。

「聖女が私に王者の器と言ったので、私はちょっと王になってみましょう。そなたらは神聖な儀式の見届け人となりなさい」


(いけない。また夫に聖女だと誤解された気がするわ……)

 あとでコッソリ訂正しなければ。

 

 ランヴェール公爵は、優雅にグラスを傾けて「美味しい」と微笑んだ。


「おめでとうございます!」

「お祝い申し上げます……!」

 謎の祝辞が周囲のランヴェール派からかけられる。ディリートは「ちょっと盛り上がりすぎでは」と思いつつ、場をおさめた。

 

「それでは、私は赤ワインをいただきますわ。ゼクセン派出身の私が赤をいただき、公爵様が白をお召しあがりになる。これはまさに両派閥の友好の証といえましょう?」


 ちなみにその間、皇帝は延々と「争いはいやなんだい、平和がいいんだい。聞いてる?」とクダを巻いていたのだが、ようやくその話も落ち着いた様子であった。

 皇帝の代わりに話し始めるのは、黒太子だった。

   

「ナバーラ国も帝国さえ友好的なら、争いをやめる気持ちはあるのだ」


 黒太子はそう言って、過去を語り始めた。

 

「以前もそうだった。20年ほど前になるが、若かりし頃の私は友好の道を探り、この国を訪れたのだ」


「そこで私は、ゼクセン公爵令嬢ユーディトに恋をした。父を説得し、休戦して『彼女を妃に欲しい』と申し上げたが、ゼクセン公爵は渋り……返答代わりに彼女をカッセル伯爵にめとらせたのだ」


 

「……!?」


 ディリートはワイングラスを置いて、まじまじと黒太子を見た。

 

 それは、知らない話だったのだ。

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