15、夫婦はおやすみのキスをしてもよいのではないでしょうか

(イゼキウスには、夫とは不仲とアピールしているのよ。夫との良好な関係は望ましいけれど、あまり対外的には仲良く思われないほうがよいのではなくて?)

 

 そんな危惧を胸に、一つの寝台で身を寄せ合い眠る夜。


 事前の説明通り、そこに色めいた空気はなかった。


(これは、公爵様の罠かしら)

 

 ディリートの胸には戸惑いがあった。

 神々が丹精こめて造形した芸術的な彫像のような夫が無防備に目を閉じている。目を閉じているということは、いつもと違って眺め放題だ。見惚れても構わないのだ。

 

(いいえ。視線というのは意外とわかるものだから、油断してはダメよディリート)

 

 自分に言い聞かせつつ、ついつい観賞してしまう。

 まつ毛は長く繊細で、軽く結んだ唇が吐息をこぼしていている。がっしりとした肩と胸板が呼吸に合わせて上下していて、体温はあたたか。


(眠っていらっしゃる? いいえ、まだね。起きていらっしゃるわね)

  

 眠るだけなのだ。色めいた行為をするわけではないのだ。たいしたことではない。

 

 それを身をもって証明するように、ランヴェール公爵はじっとしている。自分は眠るつもりなのだという意思表示をしている。


(私も目を閉じて眠ってしまいましょう……、ん?)

  

 ディリートはドキドキしながら目を閉じて、ふと自分以外の鼓動に意識を向けた。とくんとくんと脈打つ気配が寄りそう胸板から伝わるのだ。それが、速い。


「……」

 

 うっすらと目を開けて視線を上に向けると、パチリと目があった。ランヴェール公爵が自分を見ている。

 

 シトリン・クォーツの瞳は相変わらず熱を宿すことなく、無感情だ。しかし、ずいぶん脈は速いのではないか。


「公爵様は……ご体調がすぐれなかったりなさいますか? それとも、私が寝首を狙ったりするのではと警戒なさっています?」

 

 ディリートがソワソワと問うと、否定が帰ってきた。

「いいえ」

 

「その……ご病気などは」

「私はこれ以上なく健康です、ディリート。そなたは?」

「私も健康ですわ、公爵様」

 

 なだめるように背中がぽんぽんと撫でられる。手付きは、優しい。声は落ち着いているように聞こえた。


「ディリート。私たちは、もっと互いについて知るべきですね」


(やはり、怪しまれているのね?)

 ディリートは身をこわばらせた。すると、背を撫でる手がいっそう優しくなり、言葉がゆっくりと続く。


「私の父と母は政治的な理由で義務を果たすのみの婚姻であり、まだ幼い頃に揃って亡くなったのです。私が育つまでは叔父が代理当主でしたが、彼には野心もあったので、よく殺されかけました」


 そなたの過去はロラン卿が報告済み、と付け足した公爵は、おっとりと自分語りをする。


 つまり、互いを知るとは夫を知れという意味らしい――ディリートは耳を傾けた。


「幼少期に少しばかり人として不安定だった私は、自他の安全のためにおりに入れられていた時期もあり、人肌に触れた記憶もあまりないのです」


「檻……ですか」


「ちなみに、叔父は荒ぶる獣の牙にかかり、不幸にも亡くなったのですが」

「いろいろあったのですね」


 なかなか濃い話を聞かされている――ディリートは遠い目をした。

 

(……カッセル伯爵家など、まだぬるかったのではなくて?)


「私は屋根裏で育ちましたが、檻と比べると贅沢に思えますわね、公爵様」

「屋根裏と檻で育った私たちがこうして共にいるわけです。世の中とは分かりませんね、ディリート」


 いつも通り感情の乏しい声の夫には、妻への親愛のような気配が感じられる。


(ずるいわ、こんなの)


 そう思った瞬間に、夫の声が続く。

 

「というのは、嘘ですが」


 

「……はい?」

「そなたの夫は嘘もつくのです」

「……は、はい?」


 

 まじまじと見る夫の顔は、何を考えているかわからない。無表情だ。


(嘘? 何が? 今のお話が?)

 

「では、おやすみなさい、ディリート」

「……お、おやすみなさい、公爵様」 

 

 何事もなかったように話を締めくくるのは、普通の挨拶だ。家族がするような挨拶だ。

 

(まあ、まあ……よくわからないけど……悪くはないわね、こういう感じ)


 そう思った瞬間、ディリートは危機感を覚えた。


『そなたに二度とこわい想いをさせません。このアシルがそなたを守りましょう』 

 

 ――その声が、優しさが、ぬくもりが。


 心地が良い。

 悪い気持ちがしない。

 

 ……それが、あやうい。

 

 この妙な公爵と一緒にいると、なんだか甘やかな毒を少しずつ流し込まれていくようで、危険な感じがする。

 

 イゼキウスに覚えた怒り。憤り。恨み。使命感――そういった大切な感情を、復讐の誓いを、忘れてしまいそう。


(……いいえ)


 ディリートは心に誓った。


(この公爵様がなんだというの。ちょっとおかしくて、意表を突かれて、戸惑っているだけだわ。ペースを狂わされているだけだわ)

 

 ディリートがあれこれと考えを巡らせていると、ランヴェール公爵は大切なことを思い出した様子で口を開いた。


「ディリート。私たちは、大切なことを忘れていましたね」

「な、何でしょうか」


「夫婦はおやすみのキスをしてもよいのではないでしょうか」


 言葉の挨拶だけではなく、口付けも交わすのだ。

 そう告げられると、ディリートのの脳裏には「確かに」という思いが湧いた。


(おやすみのキス、ですって)


 ディリートは、父にそういった肉親の愛を注がれたことはなかった。

 

 この国の貴族の家庭では、珍しくないことだ。

 夫婦は子をつくるための関係であり、子は家を継ぐためのものなのだ。

 

 父は義妹や義母に愛情深いが、それは普通ではなく、彼らが変わっていて、特別なのだ。

 貴族が子供を乳母に任せる方が普通だ。あんな風に妻や子を慈しむ父が、貴族の中では珍しいタイプなのだ。


『愛されない娘は、世の中に

 

 ――そう言い聞かせることで、自分の心を守っていたのだ。

 

 夫婦には愛がなく、義務として子供を作る。子供は後継ぎと政治の道具として使用人に育てられる。

 

 それは普通なのだ。

 

 例外もあるが、自分は可哀想ではないのだ……そう言い聞かせて、ディリートは自分を慰めていたのだ。

 

「公爵様は、本当にエミュール皇子殿下に忠実でいらっしゃるのですね」


『仲良くするように』

 あのひとことで仲良くしようとしてくれるのだ。


(そういうことにした方が、いいわ)


 ――私たちは忠実な臣下なので、殿下の命令に従っているの。

 

 そう理由付けしないと、胸の奥がむずむずとする気がするのだ。くすぐったい気持ちになってしまうのだ。


「そなたが殿下に忠実な男を好むなら、そのような私でありましょう」


 首をかしげて、不思議なことを呟き、ランヴェール公爵の整った顔が近くなる。


 ディリートは目を閉じた。

 まつ毛が震える。

 震える吐息が奪われるように、小鳥が戯れて啄むように互いのくちびるが触れる。


「……」

 

 くちびるをそっと離して、ランヴェール公爵は満足そうにディリートを抱きしめた。


「私たちは、なかなか仲のよい夫婦ではありませんか? ディリート?」


 声は、嬉しそうであるようにディリートには感じられた。


「ええ……そうかもしれませんわね、公爵様」

  

 自分もまた、喜んでいる――そんな甘酸っぱい想いを自覚しつつ、ディリートは頬を夫の胸板に寄せ、健やかな眠りに身をゆだねたのだった。

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