第24話 言葉が無ければ
二足蟲に言葉は要らない。
そんなものがなくたって、コミュニケーションは取れるのだ。それこそ、“言葉”では表わしようのない方法で、違いの意思と感情を伝達することが出来る。
だから皆、言語というものを軽んじた。
話そうと思えば話せるのに。
学ぼうと思えば学べるのに。
交わろうと思えば、種族を超えて交われる。
なのに見過ごして切り捨てるなど、愚かじゃないか。
そうしてフランは筆を執り、この学院までやってきたのだ。
「二足蟲と他の人たちの間に、商業協定があるのは知っているかしら?」
「ああ、林業だっけ。確か、あんたたちのおかげで、紙が作れているとか、なんとか」
「私が直接携わっているわけではないけれど」
ディグリは小脇に抱えた紅茶の本を目の前に持ってきて、表紙を撫でる。
愛おしく、肌と紙の擦れる音が、彼女のまとう不気味さをいくらか和らげた。
「紙や樹木だけじゃないわ。甘味料、糸、薬草……売りに出しているものは多岐に渡る。けれど、商売をするということはね、“価値”の擦り合わせが出来なければいけないの」
「価値の……擦り合わせ?」
「そうよ。何をいくらで売るか、売って得たお金で何が出来るのか。その価値観が共有出来ているというのが、商業の大前提。それがあって初めて、売買契約を成立させるかどうかに話が進む」
エディには、少し難しい話だ。全てをそのまま飲み込めるほど、学は無い。
ただ、なんとなく、感覚として理解は出来そうだった。
眉間に皺を寄せながら、ぎこちなく相槌を打つエディに、ディグリがほんのりと口角を上げる。
「まあ、経済の話を理解しなくてもいいわ。要するに、お金の話が出来ないと、商売は成り立たないということだけ覚えてちょうだい。そして、お金の話が出来るということは」
「……口が利けなきゃいけない?」
「その通りよ。喋るだけじゃなくて、読み書きも必要ね。出なければ、契約書にサインできないもの」
「待てよ、けど二足蟲は……」
「言語を必要としない。矛盾しているわよね。でも、この矛盾は解決できる。なぜならば」
「あんたたちみたいな変わり者がいるから」
「正解。あなたは賢い子ね」
細長く伸びた指が、エディの髪を梳く。
ぞわっと全身が沸き立つ感覚がした。それは恐怖によるものでも、嫌悪によるものでもない。では何かと訊かれても、答えられないが。
初めての感覚にポカンとするエディから手を引いたディグリは、どこかここではない遠くを見つめた。
「フランのご両親が、まさにそれだったのよ。人の言葉を学んで、商業の仲介役になっていた。私の父と母も、フランのご両親を介して知り合ったの。あの人たちは、山と街を繋ぐ架け橋だった……」
ディグリは、ふう、と息を吐いた。
色んなものが
こういう時に、何を言えばいいのかわからない。俯いて、たまたま目に飛び込んできた紅茶を、誤魔化すように飲み干す。
紅茶は既に冷え切っていた。
「実のところ、金銭なんて、本来二足蟲の人たちには無意味なものよ。山の植物を食べ、茂みの中で眠り、必要なものを育てる彼らにはね。お金なんて渡されても、どうしようもないわ」
「えっ、じゃあ……フランの親が、独り占めしたのか……?」
「そうとも言えるし、謂れのないことだとも言えるわね。彼らは商売で生まれた金銭を使って、他の同族たちに様々な贈り物をしたわ。山の中にはない食糧や、冬を越すための衣服、そして書籍。でも、受け入れられたのは食糧だけ。それ以外は、ゴミとしてしか見られなかった」
なんだか、理解の及ばない領域にまで話が進んでいる。
金銭を独り占めできる立場にありながら、そうしないフランの両親も。食糧以外を受け入れなかった二足蟲たちも。エディに言わせれば、頭がおかしい連中だった。
それらは全て、下水道の鼠同然だったエディが、毎日のように羨みながら、手に入らないものだったからだ。エディには、ゴミ箱に突っ込まれた、汚れた銅貨ほどの価値もない、臭くて汚いものしか得られなかったのに。
絶句するエディの顔から、何を読み取ったのだろう。ディグリは沈んだ面持ちになる。
「二足蟲たちは知らないの。フランのご両親が持って来たものが、どれほど価値のあるものか。自分たちの作ったものが、どこへ行って、何になって、どれほどの価値があるのか。今の彼らはただ、親から受け継いだ仕事を、わけもわからずに繰り返すだけ……」
「それは……。じゃあ、フランの奴は、それを教えたくて?」
ディグリは頷くと、からっぽになったエディのカップに、もう一度紅茶を注いだ。
少し長い話になると前置きし、お菓子の積み上げられたバスケットを運んでくる。
蜜を練り込んだクッキー、薬草に甘味を混ぜて固めた飴、ドライフルーツを埋めこんだ焼き菓子。どれも美味しそうだが、あまり手を付ける気にはなれなかった。
エディは紅茶もお菓子もそっちのけで、対面に座ったディグリの話に耳を傾ける。
彼女は、とても苦いものを口に入れられたように顔をしかめていたが、やがて溜め息を零して話し始めた。
「何年前になるかしら。フランのご両親の商売が、だんだんと振るわなくなってきたの。彼らと取引する商人は減って、他の二足蟲たちからも、商品が卸されなくなっていった」
時を同じくして、二足蟲たちはフランの両親を敬遠するようになった。
訳もろくに話さないまま、商品をもう卸さないと一方的に意思表示され、去っていく。
流石におかしいと感じたフランの両親が調査しようと山に入ったところ、そこでは信じられないことが起こっていた。
「同族たちがね、毒や病で大勢死んでいたのよ」
「……は?」
急な展開に、エディはあんぐりと口を開けてしまう。
間抜け面を少しばかり晒したあと、首を振る。
「い、いやいや、なんだってそんな……。作り話じゃないのか?」
「“事実は小説より奇なり”よ。最も、“奇なり”だからといって、面白いかどうかは別問題だけれど」
皮肉そうなディグリの表情に、エディは黙らざるを得なくなった。
ディグリはひと口、紅茶で唇を濡らしてから続ける。
「原因はすぐにわかったわ。商売を取りやめた商人たちが、フランのご両親を仲介せずに、生産者である二足蟲たちと直接取引をしていたの。それも、お金じゃなくて、物々交換でね。何を渡していたと思う?」
「そりゃ、食い物じゃないのか?」
「残念なことに、食い物にされていたのは、二足蟲の人たちの方よ。彼らは蜜や木材と引き換えに、鼠も食べないような粗悪な品や、傷んで売り物にならなくなったもの、挙句の果てには、砂糖で包んだ毒の類を押し付けられていたの」
「は、はあっ!?」
エディは思わず立ち上がった。
商人の阿呆ぶりも相当だが、二足蟲もそんなものに騙されるものか。まともな食事とゴミの違いは、誰よりもエディがよくわかっている。路地裏から学院へ来て、食事の変化を味わったからこそ言える。そんな話、あるわけがない。
ディグリは項垂れ、えずくように笑う。
「後から騙されていたと知った二足蟲たちから伝えてもらって、笑ってしまったわ。商人たちは最初、本当に高級な品を持ってきて、身振り手振りと表情で二足蟲の人たちを懐柔して、フランのご両親は悪者だって伝えたそうよ」
「なっ、そんな馬鹿な話が……!」
「ええ、あったのよ。高い食べ物で信用を得た後は、とんとん拍子だったでしょうね。言葉がわからないから、契約書だって必要ない。身振り手振りを再現したって、解釈はどうとでも捻じ曲げられる。最初だけ高級なものを渡して、あとはどんどん粗悪にしていけば、最初の出費は賄える。商人たちは、笑いが止まらなかったと思うわ」
鋭く息を吸い込んだ。
絶句。エディは言葉も出ないほどの驚愕を覚えて、思わず足を引く。
勢いよく立ち上がった時に倒れた椅子に、踵がぶつかった。
ディグリが顔を上げる。長く垂れさがった髪がカーテンになって、その表情はうかがい知れない。
だが、黒い繊維の隙間から覗く、ぎょろりとした瞳の中、針穴のように収縮した瞳孔に、エディは恐怖した。
「契約を裏付ける書類も読めない、言葉を話せない二足蟲が、一体なにを訴えられるかしら。最終的に毒を盛って殺したのだって、恐らく暴力に出られたら面倒だから。もしかすると、それすら考えてなかったのかもね。奴らが大量に送りつけた木箱には、ちゃんと書いてあったのに……」
「それで……どうなったんだよ」
「窓口をしていたフランのご両親が、二足蟲を説得しようとしたの。けど、二足蟲本来のコミュニケーション手段では、複雑なことは伝えられなくてね。信用は取り返すことができなかったから、商人たちに抗議しに言ったわ。設けられた場で、殺された……」
そのことを知ったフランは、こう考えたのだという。
二足蟲が言語を軽んじていなければ、こんな詐欺には引っかからなかったのではないか。
あるいは、フランの両親がやっていたように、読み書きを覚えて、ちゃんとした契約書を作り、取引の話し合いを記録していれば。そうでなくとも、木箱に張られたラベルから、食糧ではなく鼠捕り用の毒を送りつけられたのだと読み解くことが出来れば。言語を扱うフランの両親の価値をわかっていれば。
フランはその考えを、なんとか同族に伝えようとした。だが彼らは、事がそこまで及んでも、フランの考えを理解しようとはしなかった。
フランは色々と策を講じて、どうにか学んでもらおうと務めたが、元より言語が不要であった二足蟲たちは、興味を示すことすらなかったのだ。
そして、両親を失い、同族の理解も得られず、絶望したフランは思い出す。
自分が苦も無く言語を学ぶきっかけとなった出来事を。
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