第五十六幕 留守番

エタナは、光無の方を向きながらマヌケな顔で人差し指を鼻の穴に突っ込んで変な顔で固まっていた。


光無は溜息を一つつくと、エタナの手を持って人差し指を鼻からはずした。


このお方は、相変わらず…。


エノではない、エタナの状態では。

驚くほど、普通の幼子だ。


黒貌は、予約が入った宴会で必死に料理を作っている頃でしょうよ。

こてんと、首を傾けたエタナ。


そして、理解が及ぶとまるでフグの様にほっぺたを膨らます。

まったく…、貴女が黒貌に買えと言ってるんでしょうに。


黒貌は、我々三眷属の中では一番弱い。

そして、我々三眷属の中では一番欲しいものが多い。


あいつは、人間辞めてからもずっと。

同じ目的の為だけに、頑張っているというのに。


あいつは、願い続けるからこそ。


欲しいものの為に働くんでしょう、そしてあいつは嬉しかったはずだ。


生きていて、報われたことなどなかった。

正しい報酬等、ここ以外で払われる事がなかった。


何十年も報われたことのない人間が、幼子の頃から何一つ報われた事のない人間がだ。奇跡や世の中全てを信用した事のない人間が。


黒貌は貴女が好きだ、そりゃ見てりゃ判る。

黒貌は、貴女だけしか信じてなどいない。


その貴女は、報われたければ買えとしか言わないのだ。


さぞかし、あいつは今まで報われなかった反動も含めて。

欲しくて欲しくて、働きまくるんでしょうが。


あいつは、貴女から何かを買う度に幸せだと思う筈だ。


「欲しいものが手に入らない労働になんの意味がある?安い労働力が欲しいだけのゴミ経営者にどれだけの存在価値があるというのだね?生きているだけの生活になんの意味があるんだ?搾取しかしない上に、知識や時間泥棒の周囲と付き合う事にどれだけの価値や理由があるんだ?私みたいに消えられないから消えなくて、働かなくては死なない神とお前らは違うのだろう」


なぁ、黒貌。


「お前は世も神も信じはしないだろう、私の事も信じなくてもいい。ただな、黒貌。私はお前に売るだけだ、金ではなく努力と研鑽で売ってやるだけだ。値段に嘘などない、誇張も虚実もあるものか。その値を払えば、お前に全てを売ってやる。値に届かなければ、歯ぎしりしながらショーケースに顔をはりつけ涙と鼻水を垂れ流しながらこの世の全てを恨み倒す様な心と表情で見て居ればいい」


人の世に平等は存在しないし、情報が手に入りやすくなる度に自身のランクを思い知る。


完璧である必要はどこにもない、完璧を目指す事にこそ意味があるのだ。

己を許せぬものに、他人なぞ許せるもんか。

年を重ねる毎に、培わなければならないのは叡智だけではない。

失敗も挑戦も重ねていかねば、どこかで人は壊れるものだ。

いいわけと暴論だけ重ねて逃げ続け、挑まぬものに真なる力は程遠い。



なぁ、黒貌。



位階神と比べたらこの世に存在する全ては、必死にその日を生きているに過ぎない。

どのような権力を持ってようと、知力を持っていようと。

どれだけの財力があろうと、どれだけの時間を生きようと。


世の中、比べる相手が悪すぎるという事は往々にしてあるものだ。

自身のランクを思い知りながら、比べてしまえばただ惨めになるだけだ。


だが、生きて生存競争をする過程で必ずランク付けは行われる。

だから、この世の理想全ては絵空事なのだから。


黒貌にとって、報われるというその事実こそがもっともありがたい事だったんじゃないか。俺は、そう思う。


宴会等の大口依頼、きっと彼にとって金は外と関係を持てる程度で良いのでしょう。

彼にとって、欲しいのはポイントだからだ。


「ポイントだけが、自分に報いてくれる」


その数字だけが、情け容赦の無い真実になったんだ。

そりゃ、黒貌は必死にもなるさ。


己の持てる力で働いて、暇な時は研鑽もするさ。


「必ず報われる保証がある、但し値段はお察しだ。値上がりも値下がりもしない、そこにはその生物が願うならばという値が表示されるだけだ」


それを言って、それを全て叶えている貴女が近くに黒貌が居ないからとむくれていては。


黒貌も、不憫な男だな。


俺のかつての夫、幻雄崔(げんゆうさい)も大概才のなさ過ぎる男だったが。

それでも、黒貌ほど不幸ではなかった。


幻雄崔は、人を信じていた。

幻雄崔は、武の境地の一片に辿りついた。


エタナの膨らんだほっぺを光無が人差し指でつくと、ブッという音と共に空気が抜ける音がした。


皿に、羊羹を切ったものをのせてちゃぶ台の上にそっと光無が置いた。

だまって、緑茶をいれて無言でおじぎをする。


エタナはむくれたまま、もちゃもちゃと羊羹を口にいれていく。


この羊羹一つでさえ、ここ以外で買えば相応の値がするものだ。

砂糖は贅沢品であり、その純度をあげる度に嵩が減っていくのだから。


ここの様に何でも使いたい放題、食べ放題。

そんなリソースは、何処にも存在しない。


それを実現する為に必ず誰かがしわ寄せを食うからだ、そしてしわ寄せを食う人間は必ず無知で無力でそれ以外に生きる術を持たない弱者だからだ。


緑茶を絞り出すように飲むと、甘さが茶に溶けていく。


急にぽやーんとしたエタナの目つきが、エノのそれになる。


「どうされました?」


光無が、エタナに尋ねる。


「永久不変、万武不敗の我が身でも私は狡い女だなと思ってな。好きな男が夢の為に働く事を喜んでおきながら、帰ってくるのが待ち遠しくてしかたない。女々しいにも、程がある……」


光無が苦笑しながら、緑茶のおかわりをついだ。


「貴女は、力を使わねばただのクソ程頑丈なただの幼女です。女々しくて結構なことじゃないですか、好きな男を家で待つ事の何がいけないんです?家で待つことがイヤで、共に歩む事が正しいと思うならそれでもいいでしょう。でも、貴女は幼女なんですよ。良く寝ておやつをたべて何がいけないんです?」


エノが光無を見ながら、苦笑する。


「だからこそだ、自身を面倒な女だと自身で思うのなら他から見れば猶更だな」


光無も苦笑しながら、エノを見つめた。


「貴女は自分で屑を名乗るんだ、屑でいいじゃないですか。面倒な女でも、いいじゃないですか。それの、何が行けないんです?それとも、そういう機敏にすら常勝したいというのなら力を使えば良いじゃないですか」


光無はそっとエノの頭に手を置いて、優しく撫でた。


「貴女はその力さえ使えば何でも出来る、どんな事でも判り勝てる。でもね、貴女は自身の力を嫌っているじゃないですか。改ざんと精査の力を、その身に宿るなんでも掴める力を。選択肢が個々に無い事を嫌っているじゃないですか、使わず知られずただこうやって好きな男を待っている。貴女は、それを自らが望んでいるにも関わらずだ」


光無は、知っている。


「貴女は、よくやったと言って笑顔でおかえりを言って。あの男に報いてやればいいじゃないですか?それの、何が行けないんですか?あんな老人のよぼよぼになるまで、人として報われなかった黒貌という男が壊れないで済むのは貴女が居たからだ」


エノは小さな自分の手を見つめた、白い指抜きの皮グローブ。

袖の無い貫頭衣、ぼろいポケットが両手をいれる部分についていた。


背中いっぱいに輝く、神乃屑の文字。


「なぁ、光無。私もお前も老いる事など無い神だ。老いるというのは、どういうものなのだろうな」


光無は苦笑して、エノをみた。


「俺はコックローチです、老いる度強く冴え。年を重ねる毎にあらゆる事に強くなる、人はその逆です。弱く脆く体のあちこちにガタがきて、挑戦しなくなって夢も希望ももたなくなる。その内に、愛も勇気も感情すら幼子の様になっていき。存在自体が他者に迷惑をかける事になる。それが、人が老いるという事ですよ」


光無はエノに言い聞かせるように話した、まるでそれは自分の懺悔の様に。


「俺は人間の男を愛しました、娘も出来ました。俺は邪神でも一応老いはしますよ、貴女と違ってね。でもね、夫を判ってやる事はついぞ出来なかった。娘と共に歩む事が怖くて逃げたんです、娘は紛れもなくハーフではあっても人でしたから」


光無は遠い目をしながら、言葉をつむぐ。


「どんな、懺悔の言葉を重ねても。どんな、言い訳をしても。俺は閃光の様に生きる人にはなれません、貴女はひょっとしたら俺と言う神すらも人に改ざん出来るかもしれませんが俺はそうじゃない。俺は武が強いだけ、心は強く無い。武だけは負けないが、それでも貴女には遠く及ばない」


星座が瞬くよりも、人の命は短いんですよ。


「貴女は負ける事も老いる事も決してない、間違う事すらけして無い。でもね、人はそうじゃないんですよ。何度も挫折して潰れて立ち上がり泥まみれで何か一かけらの救いを手にするんですよ、あいつ程じゃないにしても不幸にならない奴を探す方が人は難しい」


貴女みたいに、全ての過去から未来までその選択肢とパラレルワールドの全てが見えるなんてのは神でもそうそういやしませんよ。


貴女はそれだけの力を、自らが嫌いだからという理由だけで使わない努力をしているに過ぎない。


老いながら、掴むはずのものすら貴女はその手を握ればそれで掴めるんです。


「貴女がその力を嫌っているのは、貴女が黒貌と俺と手をつないで頭にダストでものせて歩けたらなんて夢を見ているからでしょう。歩を合わせたいんだ、判ってやりたいんだ。理解できても、心から共感したいと願っているんだ」


俺は、夫や娘から逃げた。

貴女は、その孤独から逃げずに戦っている。


それだけですよ、たったそれだけの違いです。


だから、待ちましょう。


夢は叶える為にある、それは存在さえしていれば誰にでもある権利だ。

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