第四十二幕 背徳の一皿

「はい、こちら居酒屋エノちゃん」


そう電話の受話器を取る一人の、老紳士然とした男。

何故か、黒電話風のそれは無駄に店内の雰囲気にしっかりとマッチしていた。


「黒貌、相談がある」


いつになく、真剣な声色で幼女の声がした。

その瞬間に、黒貌は直立不動になり。


「なんなりと、御申しつけ下さい」


エタナは一呼吸置くと、黒貌にこう言った。


「夜食限定隠しメニューで蕎麦にチーズをのせたり、ステーキの付け合わせに唐揚げとハンバーグとヒレステーキをのせた背徳メニューなるものを作る事は可能か?」


黒貌は短く、しっかりと答える。


「可能です、それらのシリーズは夜食限定だけに背徳の一皿なんてシリーズで出してみましょうか」黒貌が満面の笑みを浮かべながら、そう切り返す。


「素晴らしい、流石黒貌だ!」


エタナは受話器の向こうで拳を握りしめた、こんな感じで居酒屋エノちゃんの隠しメニュがまた増えていく。


「私は神ゆえに、幾ら食べても醜く太る事は無い。しかし、あの魔族達を含め美味いものを安くだせば止める事は難しい。しかも、夜食であればそのまま脂肪に化けるからより不健康で醜くなり最後まで止める事が出来ない自分を恨みながらブクブクと太っていく」



エタナは愉快そうに笑う、黒貌も笑みを浮かべて頷いた。


「俺は、構いませんよ。安くて旨くて転移で直ぐに届く、それがどれだけ便利で素晴らしく抗いがたい葛藤を生み出すか。その苦悶を、我々はそれをおかずに飯が進むというものです」


エタナも黒貌も二人で電話越しに、まるでいたずら小僧の様に悪だくみをする。


「太るのがイヤならば食べなければ良いのだ、動き働けば決して醜く脂肪に変わることもあるまい。結局太るのは己の怠慢でしかない、だからこそ我々の様な決して太らない健康に気を遣う事もないモノたちは気遣う事無く美味いものを安く早く出し続ければ、その苦悶を堪能する事ができる」


(料理は幸せを運んでこそ)


「己に選択肢があり、己が怠慢でなければ解決できる問題でありながら極上の餌をぶらさげて抗いがたくする。我々は餌を取られても気にする事は無い、我々はその餌を必死にとろうとする者達をあざ笑う事で道楽とする。いやはや、貴女はやはり素晴らしい」


(毎回言い訳ばかりして)


「黒貌の腕前あってこそだとも、私は悪だくみをするだけに過ぎんさ」


受話器ごしにこの様な会話を繰り広げる黒貌とエタナ、本人たちが邪悪そうに言ってはいるが黒貌は飲食店なのだから基本薄利多売でつねに客足と戦っているのには違いがない。


ちなみに、普通の飲食店と違うのは転移で出前が出来る事と無制限の時間停止倉庫が使える事と黒貌が一人で念力やら魔術やらで並行して調理可能な事ぐらいだ。


提供する料理は基本黒貌の手作りであり、エタナが客としてくる場合には客の料金を払い。黒貌が何かをエタナに食べさせたい場合、嫌がるものほど値段は跳ね上がっていく。


この、客としての料金こそが黒貌が店のメニューに書いている値段であり。


宰相をして、安いと唸らせる値段でもあった。

黒貌としては、客なぞ来なくても別に構わなかった。


それは、自らの信じる神であり主神であるエノからは飲食店をやって欲しいと願われたからでそれは「店をやる事にこそ、意味がある」のであって「繁盛して儲けなければならない」訳ではない。


エタナは時々こうして、黒電話で黒貌が好きそうな提案をしては黒貌を唸らせる。


黒貌もまた、怠惰の箱舟や出前先の場所のものからヒントをへて隠しメニューは増えていくのである。


通常のメニューが、枝豆とかビールとかありきたりのものだけのままに。


黒貌はポイントで権利だけを欲し続けたが、実際黒貌を始め眷属に対してだけは相当数の割引をエノはしていた。


それでも、黒貌は足りないのである。


今日も赤ちょうちんに、幼女のダブルピースのイラストが揺れて。


居酒屋でありながら、カクテルも出すしそこらの料理屋より隠しメニューを含めれば豊富なラインナップ。


エタナは、わらびもちとかかき氷とか割とシンプルなものを好んだ。

無論、黒貌はフレンチだろうが賄い飯だろうがお構いなしに作れるようには努力した。


でも、結局はこうした悪だくみに使われるのだからエタナは罪深いといえば罪深いのである。



(黒貌はそれでも、幸せだ)



かつて、自分が営業をしていた時は掃除する時の雑巾のバケツの水をかけられた事もあった。怒鳴られて、ノルマに追いかけまわされて。


それでも、黒貌はひたすらひた向きに努力と勉強に余念がなかった。

商品に魅力が無いなら基本は売れない、売れないのに売って来いと言われるのが営業である。


黒貌は、現場の仕事も出来るように努力し。


判らない癖に等と言おうものなら、目の前で実際にやって見せることまでやったのだ。


(それでも、結果にはつながらなかった)


それどころか、現場にストライキされて現場で作りながら営業する羽目になった事もある。



普通そこまでの力をつけたなら、独立してしまった方がいい。

ただ、彼はまじめで努力家だったから毎日鬱になりながら働いた。


彼の運命が変わったのは、まだ力無き幼女神だったエタナと出会ったあの日から。

半分以上精神的に潰れ、いつ自殺してもおかしく無かったあの頃。


たまたま、鳥の糞が靴に落ち。

たまたま、その糞をとってもらいたくて靴磨きを頼んだ。


その頼んだ相手こそ、何物にも頼られずただ小さくなるばかりだった頃のエタナ。



黒貌には、彼女が自分自身と重なった。

一生懸命に靴を磨いてくれる、力無き彼女に。


彼は、ただ願ったのだ。「靴を綺麗にして下さい、スーツや靴は営業の私にとっては命の次に大事なものです」と


エタナは、その頃権能も力も無いからこそ。

その紅葉の様な小さな手で、あかぎれをおこして汚れているような手で。


(一心に真心こめて、その手で磨いた)


人よりも力がなく、人よりも脆い存在だったそのエタナが。


(ただ、報われず。搾取され続けた自分と重なった)


エタナは、それでも初めて感謝されて頼られて命の次に大事なものを任された。


靴は、可能な限り磨かれ。


エタナにとって、お金なぞ大した意味は無い。

力がなくて、願いがきけないから消えられない。


消えたい神にとっては、誰かの願いを叶える事こそがお金より重要な事なのだから。


それでも、黒貌は左手でエタナの手首をそっともち。


「ありがとうございました」と右手でしっかりとお金をのせた。


エタナは、存在してからずっとこんな顔も気持ちも向けられた事なぞなかった。


エタナは同じ場所にずっといて、だから少しでも靴が汚れると黒貌は通う様に磨いてもらった。


首になって営業の仕事をしなくなっても、長年していた習慣は消えないもので。

スーツと靴の手入れはかかしたことはない、どんなプロより技術は稚拙でも家族よりも心はこもっていた。


いつもの公園のベンチで座っていたら、何故か靴磨きの幼女に連れられて。

こうして、雇われ店長をやる事になったのだったか。


だから、黒貌は嫌だと言われるまでずっとこの店という職場に通うつもりでいた。


エタナがエノになり、恐ろしい権能を振るう様になっても。

黒貌に向ける表情は、いつも同じ苦笑だ。


しょうがないやつだな、と照れ隠ししながらどこか嬉しそうに。


黒貌がエノちゃんの居酒屋の店長になった時、この小さな居酒屋がエタナの聖域で唯一頼ってくれた黒貌にと用意したものだ。



神がその聖域を作れるのは、生涯ただ一つ。

サイズを変えたり、柔軟に対応はできても一つだけなのだ。


ヘッドハンティングというには余りに、うま味が少ない。

当時のエタナに出来る精一杯、黒貌はその日からエノちゃんの店長となった。


隠しメニューで無い、ありきたりのメニューこそ当時のメニューだ。

現在の様に怠惰の箱舟があるわけでも、繁盛してる訳でもない。


ただ二人で、毎日客をまち。


エタナは、流し台の下の段ボールで。黒貌はせんべい布団で。


エタナが神だからこそ、儲けなくてもギリギリ存在できる。

辺境で国でもない所にあるからこそ、誰からもとやかく言われない。


通行していく誰かが寄れば、どこにでもあるありきたりのメニュー。


当時は素人が作ったものとして、余り特質して美味い訳でもない。

ただ、エタナと黒貌はそれでも今まで生きた何倍も幸せな時間を過ごした。


今でこそこうして繁盛し、隠しメニューで二人して悪だくみの様に笑い合って。転移も後から出来るようになったし亜空間に時間停止で保存する術が出来たからこそ余裕もある。当時は手作りで、自分の足であっちこっちと出前もした。


眷属になってからは年を取らなくなったが、眷属になった時にはもう老人だった。

今ではあの時の気持ちを忘れない為に、老人のままで居る。


彼は、客が居ない時は毎日料理と魔術を研鑽し。

筋肉を落とさない為に、毎日トレーニングもした。


少なくとも、営業だった頃の報われない努力よりも。

エタナの為にする努力の方が、何倍も報われた。


エノになってから、お前は何も欲しないなと言われるが。


黒貌にとっては、貴女とこうして悪だくみしたり楽しい時間を過ごすことが最も欲する事だった。でなければ、店長なぞ引き受けてはいない。


エノは、今も昔も黒貌に同じことしか言わない。


「しょうがない、男だなお前は」


苦笑しながら嬉しそうに、黒貌もずっと同じように言うのだ。


「えぇ、しょうもないなりに楽しいですよ。貴女の眷属は……」

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