第8話 太郎の理由

 朝日が差し込む総桧の湯殿で、彩恵は湯の中に起伏に富んだ身体を沈め、自らの肌の張り艶を確かめていた。齢一五の年から十二年間、男を喜ばせるためだけに磨かれたこの身体は、三条家に伝わる房中の秘術のおかげで衰えこそ少ないものの、弾けるような若さは完全に失われていた。

 彩恵は洛中西大路の北野神社の近くの茶屋を営む家に生まれた。兄弟はなく、一人娘の彩恵を両親はとても可愛がり、七才の頃には店先に出して、その器量を自慢したりしていた。

 運命が変わるのは、彩恵が一四才の年だった。その頃既に北野近辺では評判の美人となっていた彩恵に、三条西家より奉公の命が降った。世は戦乱の真っ只中にあり、力なき茶屋では美しいがゆえに足軽などに狙われて、拉致などの危険を感じていた両親は、喜んでこの命に応じた。

 奉公して一年、三条西家あるじ実条さねえだの手により、破瓜を経験した彩恵は、続けて源信という男の手により三年もの間房中術を仕込まれた。それは外見の美しさに惹かれてフラフラと近寄ってきた男を、虜にして言いなりにする食虫植物のごとき技であった。

 房中術の極みに近づくと同時に、彩恵は恋する心を捨てた。何十人もの男に抱かれながら、感情の高ぶりなど一切なく、機械のように技を駆使して相手を享楽に導く。彩恵がそれを繰り返すことにより、三条西家には多くの要人が集まり、重要な情報を手にすることができた。どの公家も同様の役目を持つ女はいたが、彩恵の美貌はその中でも一段抜けており、それに比して三条西家に集まる情報量は他家を凌いだ。

 しかし、寄る年月は彩恵の需要を減らし、主力は一世代若い者たちに移っていく。彩恵は、公家の作法を一通り備えた御殿女中として、三年前に秀吉に献上され淀殿付となって今に至る。もちろん大蔵卿局は彩恵の経歴を知っていて、その実績を買われて太郎にあてがわれたわけだ。

 ふと先ほどの太郎との情事を思い出す。ここ数日間で、太郎は変わった。今までは受け身のまま快楽だけをむさぼっていたのに、彩恵の身体を慈しむように自ら積極的に動き始めた。それはまるで恋する女に対するときの優しい触り方そのもので、あたかも彩恵の身体に敬意を払っているように思えた。さらに驚くべきは、行為の最中に夢中で愛していると囁くのだ。そんな男は彩恵は知らなかった。もちろんそれで彩恵の感情が高まるなどありえないが、それでも驚きだけは心に残る。どうしてそんな振る舞いをするのか、太郎の本心が知りたくてたまらなかった。


 湯から上がって部屋に戻ると、太郎はいない。ここ数日、体術の訓練と称して、一日一度は外に出る。太郎はそれは過去の習慣で、兄の勧めであること。師として、風魔忍軍の名人が就いてくれたことを話してくれた。今まで彩恵に対し、自分の過去を語る男はいなかった。特に家族の話など絶対にしない。しかし太郎は家族だけではなく、友人の話までしてくれる。それは彩恵の知らない世界であり、憧れでもあった。



「彩恵殿、太郎様がお呼びです」

 若い女中が部屋で物思いに耽る彩恵を呼びに来た。聞くと徳川家康が大坂城を訪れ、秀頼との謁見の場に、淀殿、大蔵教の局に加え、太郎も参加しているという。そして、なぜか太郎が自分を呼んでいるというのだ。

 手早く化粧を済ませ、表御殿に向けて若い女中の後に続く。年の頃は十六、七であろうか。急ぎ足ゆえか、汗の臭いと共に若い女独特の男の血を沸き立たせる匂いが伝わる。自分が使っている人工的な香りではなく、本物の女の匂いだ。


 謁見の間に着くと、秀頼の隣に淀殿が、その隣に大蔵卿局が陣取り、さらにその隣に太郎がいた。それを見て一瞬躊躇したが、心を決めて太郎の隣のやや後方に座った。小声で「遅れました」と太郎の耳元に囁く。太郎はこちらを見ることなく、無言で頷いた。

 改めて正面を見ると、中央に圧倒的な存在感を放つ初老の男が、供と思われる老人と二人で秀頼と向き合っていた。貫禄ある男の方が徳川家康なのだろう。彩恵はこういう場に出るのは初めてだ。あまりの緊張感に身体が硬くなる。


「今までの話を伺ったところ、真野太郎がこの大坂城に滞留したのは、あくまでも秀頼殿の軍法指南ということですな」

 城が揺れるような野太い声が部屋の中に響き渡る。凄い威圧感だった。彩恵は思わずのけぞりそうになった。


「そうじゃと言うておるであろう。何度も確かめるとは、ちとしつこい」

 淀殿が珍しく少しばかり苛立った声で、家康を非難する。明らかにいつもの淀殿ではなかった。もしかしたら、この期に及んで家康の圧力に怯んでいるのかもしれない。


「そうであれば人選が悪い」

「なぜじゃ」

 家康が淀殿への批判を臆することもなく言い放った。淀殿はすぐさま言い返す。ちらっと見えた横顔は柳眉が逆立っているように見えた。

「真野太郎は前自連の代表真野勝悟の息子。全国の諸侯からすれば、自連の力を豊臣家に引きずり込もうとしてるように見えるは必定」

「そんなことは意図してないが、そう見えたとして何が悪い」

 淀野は明らかに興奮して、よく考えずにしゃべっている。その狼狽ぶりが彩恵の動揺に拍車をかける。この場に呼びつけた太郎を恨めしく思った。


 ここで家康は一呼吸置いた。猫が鼠をいたぶるかのように、じろりと淀殿を睨んだ後に、再び発した声は低く重々しかった。

「ああ、秀頼様の御袋様ともあろうお方がなんたる短慮」

 家康の眼光が強い光を放つ。その言葉には、まさに戦場で敵と相打つときの気迫が込められていた。淀殿はその圧力に押されて、口をパクパクと開きながらも声が出なかった。


「太閤殿下が亡くなった後で、唯一屈服しなかった自連の創始者の息子がいるのです。次代の政権守護者は自連だと誰もが思う。諸大名にとって自連とは、その軍事力よりも国の基本政策自体が脅威なのですぞ。もし実権を自連が握ったら、全ての大名の領国統治が成り立たなくなる。その危険をお忘れか!」

 淀殿は家康に一喝されて目を逸らして下を向き、大蔵卿局も床に手をついて打ちひしがれている。秀頼だけが少年ゆえに事態を飲み込めず、ぼんやりと家康を見ていた。


 完璧な勝利の手応えに、家康が厳しい顔を緩めて、今度は優しい声音で続けた。

「良いですか。即刻真野太郎を大坂城から退去させ、諸侯の心を安らかにさせなさい」

 その言葉を聞いて、彩恵は太郎との暮らしが終わったと思った。事実、淀殿は今にも頷きそうな顔で家康を見ている。男との関係が終わることなど慣れているはずなのに、酷く胸が痛んだ。


「待たれよ。家康殿」

 それまで何も言わずに家康の叱責を聞いていた太郎が、珍しく大声を上げた。淀殿と家康がぎょっとしてこちらを向く。

「私には臣下たるものが主に対し、恫喝しているように見えるのだが」

 太郎から、それまで彩恵が感じたことのない、気迫が伝わってきた。家康は再び顔を引き締め、野太い声で答えた。

「恫喝とは聞き捨てならぬ。この家康を不忠者と蔑むか」

 まさに戦場での気迫そのままに、その場の者を強烈に威嚇する声だった。彩恵は恐ろしさで、身体が金縛りにあった。ところが太郎はいささかも怯むことなく、家康に言い返した。

「戦人にあらぬお方に対し、戦場の気を放ちながら恫喝ではないというのか。私はそのような詭弁は一切認めぬ。そして、我は自連で育った自由の子だ。他人に指図されてこの城を出るなど、絶対にしない」

 入城以来初めて見せた戦人の顔に、彩恵は驚いて顔を上げた。あれほど恐ろしかった家康の顔に、薄らと驚愕が表れていた。

「お主がこの城に居座り続ける限り、自連も不利益を被るのだぞ」

 家康が太郎に対し自連の不利を告げたが、もう彩恵はその姿に恐れを感じなかった。

「自連の不利益があるなら、とっくの昔に我が父が私を連れ戻しに来ているはずだ。それに家康殿は全国の諸侯が心配すると宣わったが、それは家康殿とせいぜい豊臣家直臣の大名たちぐらいなもの。真野勝悟が駿府の地を動かぬ以上、誰も心配などせぬ」


 ここに来て、家康は言葉を無くした。全ては太郎の言う通りだ。だが、このまま帰っては、諸大名の前で宣言した手前、面目が丸つぶれになる。なんとかして土産を持って帰らねばならぬのだが、話す言葉が見つからなかった。


「なぜ、ここにいるのか教えてくれないか?」

 家康の隣に控えた老人が、へりくだるように太郎に訊いてきた。彩恵も聞きたいと思った。今の太郎は彩恵の身体に魅了されて、ここに留まった太郎ではない。

 太郎は老人の問いに顔を緩め、穏やかな声で答えた。

「あなたは本多正信殿ですね。フフ、恥ずかしながら、私は隣にいる彩恵に懸想している。手ぶらで帰れぬなら、真野太郎は淀殿のお女中にのぼせて、ここに留まると広められればいい」

「分からぬ。そこまでして、どうしてこの城に残られる」

「実は私は近いうちに、淀殿にお願いして彩恵をもらい受けて、駿府に帰るつもりでいた。ところが家康殿が、強い口調で私の退去を淀殿に迫るのを見て考えを改めた。今後私はこの女人が住まう城を、柱と成って支える決意を固めた」


 正信もまた声が出なくなっていた。その顔には深い後悔の念が浮かび上がっていたが、彩恵にはそんなことは最早どうでも良くなっていた。

 三条西家で今の役目を与えられてから、もう十年以上忘れていた感情が蘇ってきている。どうしてこうなったのか、理由などどうでも良かった。ただ、愛しい男と一緒にいられる。それだけで、限りない喜びが胸に溢れた。

 彩恵の目からこぼれ落ちた涙が、細い顎を伝わって畳にポツリと落ちた。

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