音楽ダンディと音楽談義(3)

 ピアノによる劇的な序奏が、卓渡たくとの意識を貫いた。

 

 他の観客も、それぞれが驚きの表情を作る中、関川せきかわの弓が吠えた。ヴァイオリンが、会場いっぱいに主題を鋭くとどろかせる。



♬パブロ・デ・サラサーテ作曲

 『ツィゴイネルワイゼン』



 超絶技巧が詰まった、名高いヴァイオリンの難曲だ。

 ロマ(ジプシー)音楽の特徴を取り込み、「ロマ音階」と呼ばれる独特な響きをもたらす、抒情的じょじょうてきな第一部。

 Lento(ゆるやかに、遅く)。いくつもの超絶技巧を繰り出しながらも、官能的にすら聞こえる旋律が、しなやかに、熱く空気を震わせる。


 この音は、奏者の輝かしい経歴を曇らせたりはしない。今ベルリンフィルで弾いたとしても、決してかすむことはない。

 即興的な、小さなトリルやピチカートまでも美しく。細部にまで奏者の気を張り巡らせた、まさに「命の音」。


 アイルランド音楽に傾倒しても、クラシックの精神は燃え尽きたりはしなかった。

 彼の精神は、どこの国で、どのジャンルをまたいでも、すべてを大きな愛で包んでいる。

 音楽は、愛だ。


 ハンガリーの民謡を取り入れた第二部。哀愁を帯びた旋律が、ゆったりと情感いっぱいに歌い上げられる。

 奏者の表情も豊かに。呼吸も旋律に同調し、まさに、関川自身が声を上げて歌っているようだ。

 哀愁を帯びたロマ音楽の世界にしっとりと身を浸していたくなる半面、やがて訪れる激しい嵐への期待が止まらない。

 溶けるような余韻を残し、天井へと昇りながら消えていく、最後の音。


 突如、ピアノの音が空気を裂く。

 第三部。ここからがいよいよ、超絶技巧を詰めに詰め込んだ、この曲を代表する難所だ。


 ヴァイオリンがうなる。高音と低音を高速で往復し、スラーとピチカートが入り乱れる。

 四本の弦と弦との境界を、高音になればなるほど狭くなる小さな領域を、神速で指が踊る。まるで彼が踊るタップダンスのように、難所を難所と思わせないほど軽やかに。

 超絶技巧の嵐に、誰もが開いた口がふさがらない。次々に繰り出される技は、決してリズムも音程も狂わせることなく、一本芯の通った安定感を生み出している。


 まるで、関川自身の生き方のようだ。


 同時に、卓渡は思い出した。

 チェロ奏者、フェオドラ・ラヴローヴァの演奏を聴いた時と同じ感覚を。

「命を持つ楽器」の音を聴いた時に感じた、魂を揺るがすような恍惚こうこつを。


 上司が関川に与えた「命」は、卵一つだけじゃない。

 二つめは、この、ヴァイオリンだ。


 なぜ、上司は二つもの「命」を関川に与えたのか。

 答えが出る前に、怒涛どとうの疾駆を見せた関川の右腕が、天に向かって鮮やかに振り上げられた。

 これが最後の一音。演奏が、終わったのだ。



 * * *



 惜しみない拍手が、関川と音葉おとはに贈られる。

 卓渡も拍手をしながら、終わりのない問いが頭の中を巡るのを止められないでいた。


 いつの間にか、音葉が観客側の席に着き、代わりに琴名ことなが前に出ていた。

 カチコチに緊張した面持ちで、以前運び込んだまま置かれていたグランド・ハープの前に座る。


 何度か大きく深呼吸した琴名は、姿勢を正すと、柔らかな動きでハープの弦に手を伸ばした。

 琴名らしい、優しい動きで指が踊る。

 指先が生み出す弦の振動が、豊かな音色を一帯に響かせ始めた。



♬クロード・ドビュッシー作曲

 『夢想』



 ハープの伴奏と溶け合いながら、伸びやかに歌い上げる、ヴァイオリンの旋律。

 ロマの疾走で火照ほてった体を、鎮めるように、癒すように。聴く者の意識を優しく包み込む。


 ゆったりと歩くようなテンポの中、ところどころに不思議な和音コードが現れる。どこかつかみどころのない、ふわふわとした歩き心地。

 夢のような世界で、それでも一歩一歩、体はゆっくりと前へ進んでいく。着実に。終演ゴールに向けて。


 音符の上を歩きながら七色の雲を見上げてみると、頭上におたまじゃくしが飛んでいる。

 黒玉ちゃんがたくさん。卓渡にたわむれるように、飛んだり跳ねたり、転がったり。

 好きに飛び回っているように見える黒玉ちゃんたちは、卓渡が指揮棒を伸ばすと、その先の方向へ、ふよふよと漂ったりぴょんぴょんと跳ねたり、大きくジャンプしたりしながら消えていく。


 そうだ、俺の指揮棒はこのためにあるんだ。

 迷える黒玉ちゃんたちを導けるのは、俺だけだ。


 ハッと、現実に引き戻された。

 お辞儀をする二人と、割れんばかりの拍手。

 二曲目が、終わった。



 * * *



 卓渡は、伴奏で活躍してくれた音葉と琴名をねぎらった後、関川へと近づいた。


「お疲れさまでした。二曲とも、関川さんの音色が十分に発揮された、『命の音』と呼ぶにふさわしい曲でした。両方クラシックというのが意外でしたけど。てっきりアイルランドの曲を持ってくるのかと」


「もちろん、あっちもワシの『命の音』だよ。それはまた今度、店で聴いてくれればいいさ。それはそれとして、過去の音も大事にせんといかんと思ってな。『ツィゴイネルワイゼン』は、家内が好きな曲だったんだ」


 関川は、愛おしそうにヴァイオリンを撫でた。


「関川さん。ひょっとして、そのヴァイオリンは……」


「気づいたんだな。こいつの中に、どうやら家内の命が入っているらしい。家内は、普段はワシの好きな音楽をやらせてくれたんだがな、毎年誕生日にはこの曲を聴きたがったから、プレゼント代わりに弾いて聴かせてたんだ。今でも、命日に墓の前で聴かせとるんだよ。ロマンチックだろ~?」


「マジ? 今初めて聞いたんだけど!」


 そばにいた歌希かのんが驚きの声を上げた。

 この老人には、奔放ほんぽうな孫さえも驚かされっぱなしになるようだ。

 琴名やバンドの女性たちも寄ってきて、会話に加わった。


「奥様思いなんですね。素敵ですね関川さん!」


「そうだろそうだろー。でもヴァイオリンこいつがいるおかげで、美人な演奏メンバーたちに口説き文句のひとつも言えねえんだけどな! あっはっはっ」


「じーちゃん台なしー!」


 祖父と孫を中心に、にぎやかな笑いの輪が生まれる。音葉も加わって、あちらこちらで音楽談義に花が咲く。

 歌希は、バンドのアイリッシュ・フルート奏者に楽器を見せてもらって興味津々だ。


「やっぱり木製フルートって、金属製よりも音が深くて温かくていいなー。じーちゃんが買ってくれるならやってみてもいいよ!」


 音楽への尽きない興味。どこでどんな楽器でどんな曲を奏でても、消えることのない、音楽と共に歩む道。

 音楽は、人生だ。


 卓渡の胸で、とっくに失くしたと思っていたものが、静かに動き始めた。


 まだ、諦めなくてもいいだろうか。

 黒玉ちゃんを導いてあげられる指揮棒を、捨てなくてもいいだろうか。


 関川が、静かに語りかけてきた。


「あんたの中で、何かが変わったようだな。あの『夢想』は、あんたのために選んだんだ。伝わってくれて何よりだよ」


「そうだったんですか」


「なあ、


 突然呼び捨てにされ、ビリッと正体不明の刺激が走った。

 まるで、卓渡の中を何もかも見透かされているような、初めて逢った時にも感じた、あの時と同じ目。


「ワシは楽器に、大切な者の『命』を呼び込んでもらった。ワシが今でも『ツィゴイネルワイゼン』を弾けるのは、たぶんそのおかげなんだろう。

 卓渡も同じだな。卓渡の卵にも、大切な誰かの『命』が宿っている。


 その、黒い卵。誰の『命』が入っているのか、知ってるか?」



 * * *



 この世界では、人はみな「相棒」と共に生まれてくる。


 赤ん坊が生まれる時、たいていは大事そうに両手で卵を抱えている。つまり、母親の妊娠中は赤ん坊と共に胎内で育ち、出産の時に一緒に出てくる、双子の兄弟のような存在。


 人が望もうと望まなかろうと、人から決して離れることはない。

 まさに、切っても切り離せない、人生のパートナー。



 ――それは、あくまで、物心ついた後で大人から聞く話が真実であれば、の話だ。


 卵を持たずに生まれてくる人間がいることは知っていた。

 上司に「卵に命を吹き込む能力」があることも知っていた。

 その命に、近しい者の魂が呼び込まれることがあるということも。


 まさか、自分がそうだなんて、思わなかった。


『で? 今度こそ回収失敗か? あの爺さん、なかなか食えない御仁だったろう』


 いつものように、黒玉ちゃん越しに聞こえてくる上司の声。

 いつものような、適当な返事をするつもりはない。卓渡は初めて、真っすぐに黒玉ちゃんに体を向けて、真っ当な声で話し始めた。


「もうやめよう。茶番もいいとこだ。毎回変声機能を使ったって、話し方でとっくにバレてんだよ。あんたが俺の父親だってことは」


『――え? 知ってたの?』


 なんだ、この緊迫感のなさは。

 でも、その方がこっちも気負わずに話せるってものだ。


「関川さんから聞いたよ。あんたが昔から関川さんと面識があったことも。俺の母親を、関川さんと取り合ってたことも。あの人に二つも命をくれてやったのは、母さんを奪った詫びの代わりか? 」


『ちょ、ちょっと待て』


「自分の『音楽性』を見失って腐ってた無職の俺を、他人の振りして拾い上げるのはどんな気分だった? 親らしいことしたつもりでいい気分に浸ってたのか?」


『だって、他人の振りでもしなきゃ、お前――』


「この、黒玉――黒い卵に入ってるのは、俺の母さん、なのか?」


 しばしの沈黙。

 やがて、変声機能を取り払った、父親の本来の声が流れてきた。


『たぶん、としか言えないんだ』


「たぶんってなんだよ。ちゃんと話してくれ」


『お前の母さんは、お前を生む時に亡くなっただろ。お前と一緒に生まれてきた卵も、初めは全く動かなかった。絶望の底に沈んでいた俺は、せめて母さんと卵を一緒に弔おうと思った。葬儀の時、母さんが好きだった曲をずっと流してな。その時、俺の、降霊術のような今の力が生まれたんだ。たぶん』


「たぶんばっかだな」


『たぶんとしか言えないって言っただろ。葬儀の途中、息を吹き返したように、いきなり黒い卵が動きだした。母さんの好きだった曲に反応してな。

 関川は赤ん坊のお前と卵を見て、この卵には母さんの魂が入ってるって、すぐに断言したんだ。お前と卵、両方に、母さんと同じ音楽に通じる響きを感じると言った。同時に、お前が音楽の道に進むこともわかったんだそうだ』


 関川の、あの目は。

 卓渡が生まれた時から見つめてきた目だった。卓渡の中にも、卵の中にも、微震のような、同じ音の波をとらえてきた目。


『お前をこの仕事に就かせたのも、今回の「回収」にお前を向かわせたのも、実は関川の発案なんだよ。音楽を捨てそうになったお前を、音楽の道に戻したかったんだろうな。関川にとって、お前は「昔の恋の忘れ形見」、ってやつだから』



 * * *



 音楽。それは卓渡と、自分以外の世界を見えない糸で結ぶもの。

 音楽が、一度はバラバラに崩れた彼らの絆を繋ぎ止めた。


 音楽と命が、こんなところで、こんな形でも繋がっていた。

 人の思いを乗せて、音楽は時を越える。大切に受け継がれ、何度も繰り返される音の波に、新たな思いを乗せて、また次の世代へと渡っていく。

 音楽は、命だ。


 母が好きだったという曲を、今度こそ、この手で。

 卓渡の前に、音楽の新たな道が開けた瞬間だった。

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