音楽ダンディと音楽談義(1)
『今度こそ回収失敗するかもなあ』
いきなり何言い出すんだ、この上司。
回収場所へ向かいながら、回収人・
『一言で言えば世渡り上手な爺さんだ。今までの人生、すべて自分が気持ちよく生きるために費やしてきたような。一流の音楽家には違いないんだが、その分岩のように頑固だ。今回ばかりは衝突不可避だろうなァ、「音楽性の違い」ってやつで』
「『音楽性の違い』って。バンドとかが解散するときの常套句(表向きの理由)かよ」
黒玉ちゃん越しの上司には聞こえないように、小声でぼそっとつぶやく。
自分にご立派な「音楽性」があるとは思えないが、
と、意気揚々と卓渡がやってきたのは、都心にあるアイリッシュ・パブ&カフェ。
アイルランドの様々な料理や酒、週に一度のライブ演奏が楽しめる店だ。
「ギネス飲めるかなー。一応仕事中だからやめとくか。じゃ、トロットロのビーフ・イン・ギネス(牛肉のギネス煮込み)なんてどうかな~」
時刻は夕方。店内は、カフェを兼用しているだけあって一般的なアイリッシュ・パブよりも照明が明るく、ゆったりと広い。内装もすっきりと、アイルランドゆかりの絵画や小物でセンス良く飾られている。女性が好みそうな店だ。
実際、女性客が多い。ライブ目当てだろうか、テーブル席はほぼ満席だが、卓渡のようなおひとり様でも気兼ねなくカウンター席に滑り込むことができた。
燕尾服はさすがに目立つので、今日はごく普通のビジネススーツだ。
回収任務より先に、まずは債務者の音楽を純粋に楽しみたい。そのためのモブ装備だ。
ちなみに今日の黒玉ちゃんは、シンプルな白エプロン装備。本人(本卵)の希望。カフェ用のコスプレなのか、オカンなのか、路線の判別が難しい。
お目当てのビーフやパイで胃袋が温まった頃、店内の演奏スペースに、楽器を抱えた奏者たちが登場。期待に満ちた拍手で迎えられる。
バウロン(打楽器)。
アイリッシュ・ハープ。
アイリッシュ・フルート。
ティン・ホイッスル(縦笛)。
イリアン・パイプス(バグパイプ)。
全員女性奏者。しかも全員美人だ。
最後に、フィドル(ヴァイオリン)。
唯一の男性だ。しかも最高齢の。
彼が今回の債務者、そしてこの店のオーナー。
元有名ヴァイオリニスト、
「――いきなりハーレムかよ!」
* * *
♬アイルランド伝統音楽
『O'Sullivan's March』(オサリヴァンズ・マーチ)
バウロンのリズムに乗せて、イリアン・パイプス(バグパイプ)によるメロディが始まる。他の楽器が順番に加わり、その度に音量を重ね、少しずつ曲を盛り上げていく。やがてすべての楽器が揃い、ユニゾンする(同じ旋律を奏でる)。
アイルランドの伝統音楽は、すなわちダンスの音楽だ。
様々なダンスリズムが長い年月を経て、様々な地方・国のリズムを吸収し、多様化を見せながら受け継がれてきた。
『O'Sullivan's March』は、タイトルにマーチとあるが、今演奏されているのはマーチのリズムよりももっと速く、シングル・ジグのリズムに近い。
空気から、足元から伝わる、8分の12拍子の力強いリズム。聴いている方も、足でリズムを取りたくなってくる。
他の客も、自然に手拍子・足拍子でリズムに参加し始めている。黒玉ちゃんも、肩の上で体を揺らして楽しそうだ。
すべての楽器の演奏レベルが、文句なしに高い。おそらくオーナー自身が選び抜いたメンバーなのだろう。
オーナー・関川の技術はその中でも飛び抜けていた。
どんなに速く弾いても濁らない、澄みきった音色。リズム担当の
ロール、トリプレットなどの、アイルランド音楽特有の細かい装飾も難なく弾きこなす。
観客と一体となり最高潮の盛り上がりを見せた曲は、やがて徐々にメロディから楽器が抜けていき、音量を下降させていく。最後にはバウロンのみとなる。
曲を通してずっと同じリズムを維持してきたバウロンが、力強く最後の一音を打ち、曲が終わる。
拍手と歓声が、音楽に代わって店内を埋め尽くした。
拍手が鳴りやまぬうちに、ヴァイオリニストが一歩前に出た。
♬アイルランド伝統音楽
『John Ryan's Polka』
映画『タイタニック』に登場して有名になった曲だ。
映画の中に、主人公のジャックとローズがこの曲に合わせてタップダンスを踊るシーンがある。
関川は、スピードに乗せたこの曲を弾きながら、自身も軽快にタップダンスを始めた。ひときわ大きな歓声が上がる。
演奏もダンスも、少しの乱れもない。どこまでもアイルランドのポルカだ。
街中のパブに、珠玉の音楽がひょいと紛れ込んでいたりする。
これだから、ライブ演奏はたまらない。
* * *
楽器を持たずに息を吸う。今度は彼女がヴォーカルを務めるらしい。
♬スコットランド伝統音楽
『The Lass of Glenshee』(グレンシーの娘)
スコットランド発祥の曲だが、他の国へ伝わる際に様々に変化した。同じ歌詞でも、スコットランドとアイルランドではだいぶ違う曲となっている。
アイルランド版は、アイリッシュ・トラッド(アイルランド伝統音楽)の代表的バンドのひとつ、「アルタン」の楽曲が象徴的だ。
人々を包む込むような、アイリッシュ・ハープの温かな調べ。その上に、澄みきった高音の女性ヴォーカルが響く。どこまでも透明で、胸に迫る、美しい歌声。
♬
And my love she's as fair as that morn on the mountain,
When I plucked me a wild rose on the hills of glenshee.
(愛する彼女の美しさも、あの日の山の暁のごとく
わたしがグレンシーの丘で野の薔薇をつんだ、あの日のまま)
観客の中に、感動のあまり目を潤ませて震えている女性がいる。
卓渡がふとそちらに目をやると、見覚えのあるおさげの眼鏡少女が、ふるふると涙をこらえていた。
彼女のとなりにいるブラウン・ボブの少女が、一瞬目を丸くした後、卓渡に向かって笑いながら軽く手を振った。
高校のオーケストラ部に所属している、
あの二人までライブを聴きに来たのか。
おとなしめに見える琴名の方が、感極まって今にも泣き出しそうだ。
琴名自身、高校でハープを演奏している。オーケストラで使うグランド・ハープよりも小型で優しい印象を持つアイリッシュ・ハープの演奏には、それだけ思うところがあるのだろう。
* * *
「めちゃくちゃ感動しました~! どうしよう、わたし、アイリッシュやりたくなってきました!」
予想通り、琴名はすっかり心酔してしまったようだ。
ライブ終了後、関川はテーブル席で琴名・歌希の二人と談笑を始めた。ちょうど卓渡のすぐそばだ。
会話の内容が聞こえるので、卓渡はそのまま黙って耳を傾けた。歌希はちらっと卓渡に視線を送ったが、すぐに琴名と関川に意識を戻す。
「関川さんの演奏も、もちろんめっちゃ凄かったけど! 歌も素敵でした! すっごく透き通ってて、純粋で……わたし、ああいう歌に弱いんです~」
「あれなー。内容は、若いボンボンが羊飼いの娘に一目惚れして、口説きまくって、強引に花嫁にしてしまう話だよ」
「えぇ~!」
「まあ安心しな、最後はちゃんと幸せになるから」
「よかったー。つまり『俺様と結婚しろー!』って歌だったんですね。それなのに、あんなに悲しげで、涙が出そうなくらいに繊細だなんて……。日本語じゃこうはいかないですよね。やっぱり英語ってだけで雰囲気めちゃくちゃよくなるー、ちょっとずるいなー」
興奮気味の琴名の横で、歌希は笑いながら関川に話しかけた。
「じーちゃん、今日は呼んでくれてありがとー。すっごく勉強になったよ。で、話って何?」
どうやら、関川は歌希の祖父にあたるらしい。そこまでは事前調査が及ばなかった。
いきなり南米のバンドに突撃するような、
やや小柄で、愛嬌のある白髪の老人。どことなく歌希に似た、くりっとした瞳で、関川は二人を見回した。
「二人とも、アイリッシュが気に入ったか。そんじゃ、二人もやってみんか?」
「え!?」
「できれば週一で、今日みたいなライブを定期的に続けたいんだが、あいにく奏者が足りなくってな。フルートとハープならちょうどいい。たまにちょこっと、出られる時だけでもいいんだけど、ダメか?」
「うーん、どうしよう。やってみたいけど、部活のコンクールが近いからすぐは無理だなー。それにあたしたち、アイリッシュ・フルートとアイリッシュ・ハープじゃなくて、普通のクラシックのフルートとハープなんだけど」
「かまわんかまわん。ワシのコレだって、フィドルと呼んどるが普通のヴァイオリンだしな」
関川は、演奏用スペースに置かれているヴァイオリンケースに親指を向けた。
呼び名が違うだけで、楽器自体はほぼ変わらない。ジャンルによって調や奏法が変わるだけなので、楽器の流用は可能なのだ。
「だから、元ソリストの関川さんも、ご自身の楽器でアイリッシュの演奏が可能ってわけですよね」
思わず顔を出した卓渡に、三人が目を向けた。
「割り込んですみません。私、『
関川が、意味ありげに卓渡を見上げ、ニィッと口角を上げた。
「あんたが『命の回収人』か。孫から話は聴いとるよ。なんでも、自分の楽器で演奏をすればいいってことらしいな」
「ご存知でしたか。話が早くて助かります」
卓渡は丁寧に頭を下げ、勧められるままに同じテーブルの席に着いた。
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